17. 黒曜石の刺客 2
死神の少年は少女の命を奪うために鞭を持った手首を返す。たったそれだけの動作で、リリアナの体は千々に裂けるはずだった。
「残念でしたわね」
全く同じ言葉が、少年の背後から聞こえて来る。ぎょっとした少年が振り返るのと、寝台の上で裂けるはずだった少女の体が霧散するのは同時だった。その瞬間には、少年の真上から銀色に輝く檻が落ちる。完全に檻の中に捕えられた少年は、いつの間にか背後に移動していたリリアナを呆れたように見やった。
「――最初から、幻術使ってた?」
「いいえ、途中からですわ」
リリアナは、少年と話している間に自分の体を徐々に幻術に置き換えていた。そして、少年の体を拘束していた蔦を解いた瞬間、自分の姿を完全に隠匿し彼の背後に転移した。少年が鞭で拘束したのは、幻術で作られたリリアナの虚像だった。
種明かしをされた少年は、檻に閉じ込められたままだというにもかかわらず、脱力してその場に座り込む。「ああー」と唸りながら頭を抱え、大きな溜息を吐いた。
「手応えは人間そのものだったんだけどなあ」
「そう仰っていただけると、自信が持てますわね」
リリアナは悠然と答えた。今回、彼女は幻術に風魔術と土魔術を併せて実体のある幻影を作り出していた。
通常、幻術で錯覚を見せる時に実体は作り出せない。実際に以前、王都近郊で発生した魔物襲撃の現場に駆け付ける際、リリアナが王宮の客室に寝ている自分を幻術で偽装した時は、毛布を実体としてそこに術を掛けた。魔力消費を抑えるためもあったが、何よりも非常に高度な技を要求される複合魔術だ。史上最大規模と言われる魔物襲撃を制圧するのに、たかが偽装工作に余力は割けなかった。
幻術と他の術を併せることで実体を持った幻影を作り出すことも可能だが、複合魔術は元々難易度が非常に高い。王国内でも実際に行える魔導士はごく僅かだった。特に今回リリアナが行ったような、実体のある幻影と本体を徐々に置き換えていく技は普通行えない。複合魔術を駆使して幻影に実体を持たせることができる魔導士にも、リリアナと同じことはできないはずだった。
スリベグランディア王国有数どころか唯一と言って良い魔術を目の当たりにした少年は、未だ衝撃から立ち直れない。スリベグランディア王国どころか、大陸のどこを探しても同じ芸当ができる魔導士を見つけることは難しいに違いない。
リリアナは困ったように眉を寄せ、深く沈んだままの少年をそっと窺った。
「合格はいただけまして?」
「――あー……」
リリアナの術を見抜けなかったことが衝撃なのか、少年は未だに頭を抱えたまま回復できない様子だ。のろのろと顔を上げて、自分を取り囲む銀の檻を見回す。
「これは? 呪術?」
「ええ、そうですわね」
「最初の蔦も?」
「ええ。厳密には魔術も組み合わせておりますが」
少年には特に隠すつもりもないので、リリアナは素直に肯定する。少年は何度目かも分からない溜息を吐き、大袈裟に肩を竦めてみせた。
「呪術にもこれだけ通じてるとは思わなかったぜ」
魔術に自信はあるものの、呪術に関しては確信を持てるほどではない。リリアナは少年の言葉を素直に受け取ることにした。
「わたくしの命が欲しいと仰られる方が、相当数いらっしゃいますから。護衛もおりますし、わたくしの意識がある時は魔術で撃退もできますけれど、寝てしまえば他に身を守る手立てがございませんでしょう?」
「まあ、それもそうか」
九歳になったばかりの少女が刺客に命を狙われる。公爵本人ではなく、次期当主でもない公爵令嬢が常に己の命を守るための策を弄さねばならない状況を知れば、驚く人も多いに違いない。だが、幼い頃より裏社会で生き抜いてきた少年は、不思議に思う様子もなくリリアナの告白を受け入れた。
「分かった。あんたに付くよ」
少年は、先ほどまでの態度が嘘のようにあっさりとその言葉を口にする。目を瞬かせて不思議そうに首を傾げたリリアナを見上げ、少年はニヤリと笑ってみせた。
「信じられないかい?」
「正直に申し上げましたら、そうですわね。どういった心境の変化ですの?」
「一つはあんたの魔術と呪術の腕が凄いってこと。さっきも言っただろ、俺は俺より弱い奴には付かない」
リリアナは素直に頷く。無言で先を促せば、少年は「もう一つ」と言った。
「あんたは強いし、間近で見ていた方が楽しめそうだと思った。あんたの周りもきな臭いし、退屈凌ぎには打って付けだ。たかが八歳の公爵令嬢が刺客に狙われてるってのも気になるしな」
それはあまりにも少年らしい言い草だった。リリアナは気分を害した様子もなく、納得したと頷く。そして、ずっと考えていた言葉を付け加えた。もし、少年が今回リリアナを試すような真似をしなければ言うつもりのない内容だった。だが彼の言動を見る限り、また彼の気が変わったタイミングでリリアナの命を狙う可能性が高い。一々刺客に目くじらを立てるわけではないが、身近に置く人間を常に警戒しなければならない状況は些か都合が悪かった。それにリリアナ以外にも暗殺対象者が居るのであれば、いつ何時少年が彼らの命を獲ろうとするかも分からない。
「でしたら、先日お話した二つの他に、もう一つ条件を付けても宜しいかしら?」
途端に、少年は目を細める。その双眸には僅かに警戒が見え隠れしていた。だが、大したことを頼むつもりではない。リリアナはにっこりと告げた。
「これまで貴方が受けた依頼遂行を断念すること。今後、わたくしの許可なしに一切の暗殺を禁じます」
――但し、リリアナと少年自身の正当防衛は別として。
囁くようなリリアナの言葉は少年の予想外だったのか、一瞬だけ彼は目を丸くした。だが、すぐに「分かった」と頷く。
「正当防衛なら良いんだな?」
「挑発するのは駄目ですよ。正当防衛も、同等の攻撃までなら可ですが、過剰になってはいけません。相手が怪我をさせる程度の攻撃しかしなかったにもかかわらず、命を奪い返すのは過剰ですわ」
「――――わかった」
念のため注意すると、少年はたっぷりの沈黙の後に頷く。恐らく、リリアナが何も言わなければ少年は正当防衛と称して気軽に対峙者の命を奪ったに違いない。
そっと気付かれないように溜息を吐いて、リリアナは少年を取り囲んでいた檻を消す。椅子を指し示して座るように告げると、少年は大人しく椅子に腰を下ろした。リリアナも対面に座る。
「差し支えなければ、顔を見せて頂けないかしら」
「物好きだな」
僅かに嘲弄の滲んだ声で答え、少年はフードを脱ぐ。現れたのは非常に美しい顔だった。少年趣味の女性や――そして恐らく男性も、すぐに気に入るだろう美貌だ。だが、リリアナにとっては単なる顔でしかない。何の感慨もなくその顔を眺め、客観的に評価する。同時に記憶にある前世のゲームを思い出し、二作目に出て来た彼の面影を僅かに見出した。
そのリリアナの視線に、少年は戸惑った様子で身じろぐ。見られることに慣れていないというよりも、リリアナが顔色も変えずに淡々と観賞している風なのが落ち着かないらしい。
「貴方のお名前は?」
途端に、少年の凛々しい眉が寄せられる。どうやら、その問いは少年にとって嬉しくない話題のようだった。だが、彼はリリアナに付くと言ったばかりだ。致し方ないとは思いつつも不快さは隠さず、渋々と少年は吐き捨てた。
「――死の虫」
「それは、貴方の名前ではなく通り名のようなものではなくて?」
リリアナとしては当然の指摘だったが、少年にとっては違ったらしい。意外な発言を聞いたというように目を瞬かせ、リリアナを凝視する。どうしたのかと首を傾げたリリアナに、少年は少し考えた。
「あんたが言う名前っていうのは、親が付けた名前ってことか」
「それだけが名前ではございませんでしょう。通り名ではなく、そして単に貴方自身を識別するためのものでもない。貴方が呼ばれたいと思う、貴方の存在を示す、貴方自身を認めるための名前ですわ」
部屋に沈黙が落ちる。少年は、何かを考えていた。そして、永遠にすら思える沈黙の後――彼は、掠れた声で答える。
「オブシディアン」
美しい黒い宝玉――黒曜石。月光が差し込むその部屋で、それが俺の名前だと静かに告げた。
*****
彼女は、寝ている夢を見ていた。夢だと分かったのは、部屋の家具が違ったからだ。呪術研究で作った魔道具も書物も置いていない部屋。これは夢なのね、と彼女は夢うつつに思う。
――その日、リリアナ・アレクサンドラ・クラークはとても疲れていた。
声を取り戻して魔力が暴走した後、王太子の婚約者となった。父は誇らしく思い認めてくれる、母は喜んでくれる――そう思っていたのに、誰も何も言わなかった。一度だけ会った父親は、リリアナを見て不機嫌に眉を寄せた。母は、決して会おうとしてくれなかった。送られて来る誕生日祝いは無難なもので、また執事のフィリップが選んだものだと使用人たちが噂していた。
誰も、リリアナを見てくれない。努力が足りないせいだと思った。リリアナが何もできないから、家庭教師以外は声を掛けて来ないのだ。だから、必死に王太子妃教育を頑張っていた。一日に十数時間も、来る日も来る日も勉強に明け暮れていた。
出来ることが当たり前で、出来ないことは悪いこと。ただ感情を殺して、溢れ出そうになる哀しみや虚しさや怒りに蓋をして、生きるためだけに息をする。
そんなある日、リリアナは溺れる夢を見た。ボートから湖に落ちて、藻掻いても空気を吸えない。水を吸ったドレスは重すぎた。水面に浮かぶことすらできずに、苦しくて苦しくて仕方がない。息が出来ない。必死で体をばたつかせると、指先が何かを掴んだ。
目を開ける――そこには、黒いローブを纏った死神がいた。
喉が裂けるかと思うほどに叫ぶ。リリアナを呼ぶ声が響いて、護衛たちが部屋になだれ込んで来る。
いつの間にか、死神は消えていた。夢かと思った。それでも、鏡に映った自分の首にはくっきりと赤い痕が残っていた。
怖くて怖くて、リリアナは震えていた。それでも、慰めてくれる人はいない。心配してくれる人も、恐ろしい夜を共に過ごしてくれる人もいない。リリアナが怖い夢を見た時に温かいミルクをくれた侍女は、リリアナが魔力暴走を起こした時に死んでしまった。お嬢様が殺したんだって、と噂する使用人の声を聞いた。あのお嬢様を怒らせるとまたいつ魔力暴走を起こすかも分からないからね――と、使用人たちはリリアナを遠巻きにする。
だから、ゆっくりとリリアナは深呼吸をする。
怖くても、泣き叫びたくても、感情が荒れると魔力が暴走すると教えて貰ったから。
――怖くない。怖くない。
――――大丈夫。大丈夫、だいじょうぶダイジョウブ――――。
死神の記憶も、心に芽生えた死への恐怖も、自分を省みない家族に対する失望も、何もかもを一つにまとめて重石を付けて、心の奥底に沈めていく。
それが、リリアナ・アレクサンドラ・クラークの――小さな少女の、命を繋ぐ術だった。
――――はっと目が覚める。いつの間にか寝ていた。
リリアナは首筋に手を這わす。違和感はない。不安に駆られて、部屋の鏡で確認した。そこに赤い筋はない。ほっとして、リリアナは寝台に再び潜り込む。鼓動が脈打ち落ち着く気配がない。
冷えた体では、なかなか二度目の眠りに就けそうにはなかった。
寝台の隣に置かれた小さな机には、コップが一つ置いてある。寝る前にマリアンヌが持って来てくれた温かいミルクが入っていた。それを見て、リリアナは深呼吸をする。
――現実は、ここにある。夢は夢だ。
引きずられては、いけない。