17. 黒曜石の刺客 1
湯浴みを終え寝る準備も整えたリリアナは、王都郊外の屋敷にある自室で、帰って来たばかりの鼠たちを解呪して得た情報を全て抜き出す作業に没頭していた。
(騎士団に動きはなし――オースティン様を早々に騎士として叙任したのは、ダンヒル隊長の庇護下に置くため。それで確定のようですわね)
鼠が持って帰って来た情報の中には興味深いものもいくつか含まれていた。オースティンが二番隊に配属されたと聞いてから、リリアナはずっと疑問を抱いていた。確かに彼は優秀だし才能もある。前世の乙女ゲームでも、オースティン・エアルドレッドは優秀な騎士だった。ただ、魔物襲撃で受けた傷から回復してすぐに配属を決定したのは、あまりにも早すぎる印象があった。どう考えても裏があるのは明らかだ。単に、オースティンの実力が認められたという説明では納得できない。
案の定、調査すると不穏な情報が次々と見つかった。
魔物襲撃後に顧問会議では騎士団長と二番隊隊長の責任を追及する声が上がったらしい。エアルドレッド公爵の口添えで不問とされたらしいが、そもそも聖魔導士の派遣を魔導省が断ったり、転移陣が使えない事態になっていた時点で、疑うべきは魔導省ないしは騎士団に指示を出した人物であるはずだ。責任を問う所在が間違っているのは明らかだった。そして、それが単に責任を免れたいと考えている者の仕業であるはずもない。これを契機に騎士団を掌握しようと企む者が居ると考えるべきだった。
そして、情勢を鑑みてもそこに政治的な意図がないはずはない。オースティンはエアルドレッド公爵家の後ろ盾を持つ王太子ライリーの幼馴染であり、本人も将来はライリーの近衛騎士になるのだと言って憚らない間柄である。更に、本人の実力も申し分ない。魔物襲撃での功績は、目立ったものではないが好意的に評価されている。傍から見ても、ライリーが次期国王になるに当たって有力な後押しになる。国王派でない貴族にとっては目障りな存在だ。
そんなオースティンが騎士見習いであれば、色々な理由を付けて騎士団を追い出すこともできるし、事故に見せかけて処分することもできる。だが、騎士に叙任され隊に配属されてしまえば下手に手出しはできない。それがカルヴァート辺境伯家に所縁のあるダンヒル隊長率いる二番隊であれば、権力的にも実力的にも申し分なくオースティンの身を守ることができるだろう。
(それが、エアルドレッド公爵様からヘガティ団長への申し入れというのが驚きですわ)
リリアナが収集したエアルドレッド公爵の噂は、“頭の回転が速く抜け目もない厳格な人物だが、政に積極的ではない”というものだった。子供にも優しく良い父親ではあるものの、基本的には放任主義で好きなようにさせていると、オースティンから直接聞いてもいた。
だが、今回は公爵自身が動いている。エアルドレッド公爵家の力を以てすれば、騎士見習いのままでもオースティンの身は守れるのではないかと思うのだが、公爵には何か他に考えがあるのかもしれない。だが、公爵が何を考えているのかリリアナには分からなかった。当代一の切れ者と噂されている公爵が掴んでいる情報を全て把握できているとは思わない。やはりリリアナの情報収集能力には限界がある。
呪術で生み出した鼠や鳥の形代を飛ばしているものの、そのような“自分の意志を持たない存在”が集められる情報には限界がある。自分の指示に従う間諜が居れば、どのような情報を集めれば主の要望に沿えるか、何が必要な情報なのか、自分自身の頭で考え勝手に動いてくれるだろう。
「その点でも、彼に声を掛けるのは良いことだと思ったのですけれど――」
リリアナは無意識に溜息を吐いた。そっと窓に視線を向ける。夕日が差し込む窓は普段と何も変わらない。思い出すのは、嘗て耳にした父の台詞だった。
―― 一族の動向を探れ。何かあれば最優先で逐一連絡を入れろ。
それは、三年前にクラーク公爵が執事に告げた言葉だ。その時は、何故クラーク公爵がそう命じたのか深くは考えなかった。当時気になったのは、何故その名がそのタイミングで出て来るのかということだった。
大禍の一族は、前世の乙女ゲームの一作目には出て来ない。深く関わるのは時系列が一作目よりも後に設定されている二作目だ。今はまだ一作目よりも前の時期だから、大禍の一族は物語に深く関わるはずはなかった。だが、リリアナは黒いローブの少年に出会ってしまった。
少年の顔を見ても覚えはなかったが、使っている武器に見覚えはあった。極細の鉄糸――それは鞭に似た暗器だ。他の誰も使いこなせない、高難易度の暗殺道具。今の段階で表に出て来るはずのない武器を持つ少年は、最恐最悪の刺客だった。ケニス辺境伯の暗殺を実行し、歴戦の猛者に傷を付けた時点で、少年の実力は保証されている。大陸で恐れられている暗殺一族“大禍の一族”の少年でほぼ間違いないと、リリアナは判断した。
少年は、標的ではないがリリアナに興味があると言った。彼に狙われたゲームのリリアナが、無事に生きていられるはずはない。万が一奇跡でも起これば話は別だ。だが、今のリリアナのように魔術を極めカマキリに体術と武術の基礎を学んでいない彼女が、少年の魔の手から逃れられる可能性は極めて低かった。
――だからきっと、彼が接触して来たのはゲームのシナリオとは異なる出来事に違いない。
そう思ったから、リリアナは少年に屋敷へ来るようにと声を掛けた。少年が属している大禍の一族は、ゲーム一作目では深く物語に関わらない。そしてリリアナ自身は二作目には出て来ない。一作目が始まる前の段階で少年を取り込んだとしても、物語に大きな違いは生まれないだろう。差異が生じるとしたらリリアナに関する出来事だけで、物語の本流にそこまで影響はないはずだ。リリアナが目指すのはゲームの自分と同じ運命を避けることであり、ヒロインや攻略対象者が辿る未来を悪い方向に変えることではない。
だが、未だに少年はリリアナの屋敷に来ない。
興味が失せたのか、他に何か理由があるのか、リリアナには分からない。鼠を放とうにも、少年の居場所が分からない以上どうしようもない。だが、あの様子を見る限りは完全に関心がなくなったとは考え辛い――リリアナはここ最近何度も頭に浮かぶ疑問を繰り返す。
黒獅子のアジュライトもここ一週間ほどめっきり姿を現さず、ペトラに呪術を学ぶこともない。王太子妃候補としての教育は殆ど終わり、ライリーから茶会へ誘われない限りは王宮に上がることもない。家で読書や魔道具の作成、呪術の研究、魔術の訓練に没頭しても飽きが来る。
「――考えていても仕方ございませんわね。寝てしまいましょう」
リリアナは小さく息を吐くと、鼠の後始末をする。寝台に入り灯りを消すが、寝具に包まれてもなかなか眠くならない。それでも無理矢理目を瞑る。そうしてしばらくしたところで、リリアナは瞑っていた目を瞬かせた。
部屋に張った術が稼働する。アジュライト以来の、侵入者。オルガもジルドも気が付かない存在。もしかして――と、リリアナの胸は高鳴った。
僅かに風が室内に入り込む。だが、窓が開く音は一切しなかった。人の気配さえも感じられない。寝台の中で目を閉じたまま、リリアナは侵入者の存在を魔術で感知していた。どれほど気配を殺していても、体温や微量に流れ出る魔力を消し去ることはできない。
やがて、深夜の訪問客はゆっくりと寝台の傍に近づく。その手が寝具に伸ばされたところで、その気配は動揺した。
「――っ!?」
リリアナはようやく目を開け、体を起こす。暗闇の中で、呪術により生じた蔦で体を拘束された少年は目を瞠っていた。久し振りにその姿を見たリリアナは、にっこりと笑みを浮かべる。
「夜にいらっしゃるとは思いませんでしたが――お久しぶりでございますわね」
お元気? と再会した友人に告げるように声を掛けたリリアナに、大禍の一族でも最強と名高い少年は蔦に自由を奪われたまま呆れた視線を向けた。
「寝たふりが上手だな」
「お褒め頂き恐縮ですわ。でも、夜は淑女の元を訪れるには相応しい時間帯ではございませんわね」
リリアナは笑みを深める。少年は拘束されているにもかかわらず全く気にしていない様子で、器用に肩を竦めてみせた。
「刺客にとっちゃあ、夜は礼儀に適った時間帯だぜ」
その言い草に、リリアナは満足する。確かに暗殺者のような生業の者は夜に活動すると多くが考えるだろう。だが、眼前に立つ少年はそうではない。真昼から正々堂々と標的を、そうとは気づかれず殺害する術に長けている。とはいえ昼間に堂々と正門から来られるよりは都合が良い。
リリアナが前回会った時に告げた二つの条件のうち、他者に見られないようにするという項目は満たしている。だがもう一つの条件については少年は守らなかった。蔦の拘束を強めると、少年の顔は面白がるように歪む。痛みを感じる程度には強いはずだが、全くそうと感じさせない。
「他の者に姿を見せないという条件は守っていらしたようですけれど、わたくしに攻撃を仕掛けないこと、という条件は守るおつもりがなかったようですわね」
少年は楽しそうに笑い声を漏らす。
「ただ寝てるからって、俺に殺られるような人間に付くつもりはねえよ」
「まあ。主とするかどうかは、ご自分の目でお確かめになるということですわね」
素晴らしいことですわ、とリリアナは平然と言い返す。蔦はまだ緩めない。最後まで、油断するつもりはなかった。まだ少年ではあるが、その刺客としての腕は大人にも引けを取らないどころか超一流だ。一瞬の隙が命取りである。
「それで、わたくしは合格でしょうかしら」
「まあな」
小首を傾げたリリアナに、少年は面白がるような視線を返す。しばらくリリアナは少年の真意を探るように目を見つめていたが、やがてシュルリと蔦を解く。少年は小さく息を吐いてくるりと肩を回した――次の瞬間。
「この攻撃を躱せたら、あんたに付いてやっても良いと思ったんだけどよ」
にやりと不敵な笑みを零した少年の手から伸びる鞭。手にしているものは以前使った極細の鉄糸ではなく、よくある普通の鞭だった。本体部分がリリアナの体に巻き付き、締め付けている。リリアナの顔は苦痛に歪んだ。魔術や知力に秀でている彼女も、体自体は普通の公爵令嬢だ。肉体を鍛えているわけではなく、物理攻撃には弱い。だからこそ、捕えてしまえばあとは容易かった。それでも、少年は警戒を解かない。自分が捕えた少女の魔術は、少年が知る誰よりも優れている。
「残念だったな」
そうして、少年は少女の命を奪うために鞭を持った手首を返す。たったそれだけの動作で、リリアナの体を千々に引き裂く――それだけの技術を、少年は有していた。
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