16. 黒い風 9
オースティン・エアルドレッドは、王都にあるエアルドレッド公爵家の屋敷で晩餐の支度をしていた。
騎士団の休日に合わせて、領地から両親と兄妹が来てくれている。兄のユリシーズは前妻の子で、オースティンよりも十五歳ほど年上だ。だが兄弟仲は良好で、小さい頃から優しく接してくれた。剣術はある程度収めているものの、兄自身は領地に籠って領地経営や特産品の開発に精を出す方が好きな性質だ。そこは、父であるベルナルド・チャドに似ている気がした。
準礼装に身を包み、後は晩餐までの時間を潰すだけだ。早めにサロンに行けば久々に母や妹と話せるだろうかと考えたところで、部屋の扉が叩かれた。返事をすると、外から執事の声がする。
「お坊ちゃま、旦那様がお呼びです」
「分かった、今行く」
頷いたオースティンは部屋を出る。執事が先導し向かった先は、父の私室だった。
ベルナルドと会うのは魔物襲撃の後以来だ。あの日、寝込んでいるオースティンの元をベルナルドが訪れたことに、オースティンは驚いた。確かに、高位貴族としてはエアルドレッド公爵家の仲は良い。小さい頃から父も頻繁にオースティンと会話をし、触れ合う時間を取ってくれていた。それでも公爵家当主であるベルナルド・チャドは多忙だ。騎士団に入団した時、彼はオースティンに我が家の誉れだと言った後、騎士たるもの怪我は勲章と思えと告げた。オースティンも納得のできることだったから、一も二もなく頷いた。その心は幼いながらもオースティンに深く根付いていた。同室だったミックにも言った通り、たかが任務中の怪我で大袈裟に騒ぎ立てることはないと思っていた。
騎士見習いが魔物襲撃の制圧に向かうことが異例の事態だったとはいえ、任務だったことに変わりはない。だからこそ、多忙のベルナルドが仕事の合間を縫って面会に来てくれたことは意外だった。
「失礼します、オースティンです」
父の私室に到着したオースティンは扉を叩いて名乗る。中から「入れ」と答える声がした。執事は一礼してその場から立ち去る。どうやら親子水入らずの会話を楽しめるらしい。オースティンは扉をゆっくりと開けて中に入った。
「――大きくなったな」
息子の準礼装を見た父親は、一瞬目を瞠って直ぐに顔を緩めた。その様子からは、普段他の貴族たちから囁かれている“厳格なエアルドレッド公爵”の面影は薄れていた。一方、ベルナルドから滅多にない賞賛の言葉を聞いたオースティンはわずかに頬を紅潮させる。
「はい」
「まあ、座れ」
ベルナルドに促されて、オースティンはソファーに腰かける。父親は既に酒を嗜んでいるらしく、ローテーブルの上には食前酒の瓶とグラスが置いてあった。ベルナルドはなんとも言えない表情でひじ掛けに肘を載せ、グラスを見つめている。沈黙が落ちるが、その静寂は決してベルナルドにとってもオースティンにとっても嫌なものではなかった。
「――お前が」
やがて、ゆっくりとベルナルドが口を開く。オースティンは無言で顔を上げ、父の顔を見た。改めて見ると、記憶にある父の顔よりも老けてみえた。髪にも少し白髪が混じっている。
「生まれた時、世界は僕を見捨てていないのだと思った。ユリシーズよりもやんちゃで、男の子とはこんなものかと驚いた」
ベルナルドは変わらずグラスを見つめている。ぽつりぽつりと零される話は、オースティンも初めて聞くものだった。
――ユリシーズの母は、ベルナルドのせいで死んだこと。その後抜け殻のようになった彼を、親戚だけでなく使用人や友人も心配してくれていたこと。今の妻に出会った時も、結婚するつもりは全くなかったこと。大切な人を不幸にした自分が、誰かの手を取るべきではないと思ったこと。
それなのに、ベルナルドは差し伸べられた手を取ってしまった。ベルナルドより十二歳も若い少女は、彼の亡くなった妻を姉のように慕っていた。その少女は、亡くなったあの方も貴方の不幸を望まないと、そう言ってくれた。
「妻にも、お前たちにも感謝している。この世界もそう悪いものではないと思った。お前が騎士団に入団して、嬉しかった。僕の父も騎士だった」
何かを思い出したのか、ベルナルドは頬を緩めた。その顔を、オースティンは見たことがあった。初めて自分が騎士になりたいと言った時、父は同じように頬を緩めて「頑張りなさい」と言ってくれた。
「僕に剣の才はない。僕の才能は、頭脳だ」
ベルナルドは自分の頭を指し示す。オースティンは静かに頷いた。父の嘗ての武勇伝は、聞いたことがあった。多面指しで五人を相手に、盤面を見ずに勝利を収めたこと。実際に見たことはないが、その後も何かある度に的確な助言をし、オースティンや子供たちのために露払いをしてくれた。予知でもしているのではないかと疑いたくなるほどに、ベルナルドの“推測”は常に正しかった。
「小さい頃からずっと、動き回るお前を見て騎士になるお前の姿が見えるようだと思っていた」
決してベルナルドに予知の能力はない。だが、その優れた頭脳はオースティンには騎士が似合うと思ってくれていたらしい。それが嬉しくて、オースティンははにかむ。
「殿下をお護りしたいとお前が言い出した時、誇らしかった。何も持たない者よりも、護りたいものがある方が人は強くなれる。そのような存在が幼少より出来るなど、この上もない幸福だ。大切にしたい存在がいることの幸福を教えてくれたのもお前たちだった」
ベルナルドは三人の子供を平等に扱ってくれる。前妻の子である長兄も、後妻の子であるオースティンと妹のことも、同じように考えてくれる。それが、オースティンには嬉しい。そして“護りたい大切な存在”が自分たちであることが、恥ずかしい一方で心が沸き立つ。
照れたように頬を赤らめるオースティンを見て、ベルナルドは小さく笑った。
「お前が騎士となれば、その時が独り立ちの時だと思っていた。こんなにも早く騎士になるとは思っていなかった」
年齢は関係がない。成人を迎える前であろうが、騎士として認められたらその時点で一人前の大人として扱おうと決めていた。
そう、多少の寂しさを滲ませてベルナルドは言う。恐らく、騎士となった事実だけでなく、オースティンが魔物襲撃の制圧に同行したことも一つの重要な判断要素だったのだろう。
父親からの期待と、そして大人として独り立ちしなければならないという重圧を感じたオースティンは、無意識に背筋を伸ばす。だが、ベルナルドは構わずに言葉を続けた。
「もう十分に、お前は成し遂げられる力がある。そして、力を合わせられる友や先達にも恵まれた」
その言葉で、オースティンは悟る。
領地から王都に出て来た後、交友関係について深くベルナルドに話したことはなかった。時折会話に出て来ることはあっても、親切にしてくれた相手や世話を焼いた相手、軽く話をした相手のことは口にしていない。だが、ベルナルドはオースティンが誰と関わっているのかを知っているに違いなかった。それもおかしなことではない。三大公爵家ともなると、影と呼ばれる私設の間諜や専用の情報網を持っている。その中で、息子であるオースティンの身辺を報告させないという選択肢はないはずだった。
だが、ベルナルドはオースティンの交友関係に口を出したことはない。何事もオースティンの判断を尊重し、好きなようにさせてくれていた。公爵家嫡男として相応しくない振る舞いはしないよう努めていたが、中には褒められたことではない言動もあっただろう。それでも、それが致命的でない限りは自由にさせてくれていた。手酷い失敗をした時は、黙って手を差し伸べ助けてくれた。直接知ることはなくても、事情を知っている執事や侍従たちがこっそりオースティンに教えてくれたこともある。それがベルナルドがオースティンにしてくれた全てでないことは、分かっていた。
だが、独り立ちしたと認められた今、自分の言動の責任は全て己が持たねばならない。これまでもそのつもりだったが、庇護下から外れると言外に告げられたオースティンの顔には緊張が走る。それに気が付いたのか、ベルナルドは目の色を深めた。聡い息子を褒めるような表情だったが、言及はしなかった。
「意地は張らずに、必要な時に助けを求めると良い。存分に頼りなさい。そしてその者たちが助けを求めた時、お前のできる全てで力を貸してやりなさい」
一人で成せることには、限りがある、と、多くのことを見て来た公爵は言う。低い声には、経験に裏打ちされた重みがあった。立ち上がったベルナルドは執務机から古びた箱を手に取り、ソファーに再び腰かける。そして、その箱を息子に差し出した。オースティンは緊張した面持ちでそれを受け取る。
「僕が父としてお前に伝えたかったことは、それが全てだ。お前は独り立ちするが、親子の絆が絶たれるわけではない。それでも選択肢は増える。自分で色々なことを見て学び、成長していってくれることが僕の望みだ」
独り立ちをしてしまえば、父として手助けをすることは殆どない。ベルナルドは以前から決めていたというように、そう告げる。
「――はい」
オースティンは頷いた。受け取った箱は重い。その重さが、父の期待であるような気がしてならなかった。兄のユリシーズも、成人を迎えた時にオースティンと同じ古い小箱を受け取った。その中には公爵家が代々受け継いできた家宝と、子供のため新たに作られた家宝となるべきものが収められている。そして一体何が入っていたのか、本人と当主以外は知らない。後で箱を開けようとオースティンは沸き立つ心を抑えた。
尊敬する父が、自分を一人前と認めてくれた。その事が、何よりも嬉しかった。異例の早さで騎士になったことよりも何よりも、父がオースティンを認めてくれた事実だけで鼻が高い。
そんな息子を愛おしむように見つめ、ベルナルドはソファーから立ち上がった。そして、部屋の扉を指し示す。
「さあ、行こう。みんなが待っている」
オースティンも立ち上がり、食堂に向かうため一歩を踏み出した。
部屋の扉が開かれる。差し込む明かりは、オースティンの前途を祝すように輝かしい。その姿を、明かりの消えた部屋の中から、ベルナルドは眩しいものを見るように、記憶に留めようとするかのように、じっと見つめていた。
「お前がその手で幸せを掴めることを、祈っているよ」
ずっと幼い子だと思っていた息子の成長を慈しむように、未来の幸福を神に祈るように――万感の思いを込めて、そう、呟いた。









