16. 黒い風 5
ケニス辺境伯領は広大だが、肥沃な大地に恵まれている。エベーネ平原は農業にも酪農にも適した土地で、特に隣国も欲しがるほどだ。そのため、建国以来隣国との小競り合いが絶えない。結果的に、ケニス騎士団は他の貴族が領地に有する騎士団と比べても最強と名高く、勇猛果敢の気質で名を馳せることになった。だが、騎士団のその性質には多分に辺境伯自身の性格が影響しているだろう――というのは、伯を良く知る者たちの言である。
その辺境伯領を統べる当代の辺境伯ハミルトン・ケニスはその日、国境の見える砦に立ち寄り、騎士団の稽古に顔を出していた。ここ数ヶ月、国境に接する隣国の領主たちに動きがあるという報告を受けていた。斥候らしき影が何度か川を渡って領土侵犯もしているようだ。だが、証拠は掴めない。
その上、和平条約が締結されている現在、隣国は堂々とスリベグランディア王国に攻め入れない。国境沿いの領主が勝手にしたことだという体面を保つに違いない。だからこそ、辺境伯側も見るも明らかな武装状態で居るわけにはいかなかった。逆に攻め入るつもりがあると批判される状況を作り出しては、付け入る隙を与えることになる。
考えた末に、辺境伯はケニス騎士団の演習という名目で騎士団を国境の砦に滞在させることにした。いつ隣国が侵攻して来るか分からない状況で、辺境伯領の国境近辺は緊迫した雰囲気が続いている。だが数ヶ月も緊張状態を保てるわけはない。訪問の目的は隣国の領主がどの程度戦準備を進めているのか、自分の目で確認することだったが、慰労も兼ねて辺境伯は砦を訪れたのだった。
辺境伯は初老を迎えたというのにもかかわらず、嘗ての内戦で鳴らした腕前は未だ衰えていない。騎士団の中でも、辺境伯と互角に戦える者はごく僅かだった。
一通り騎士たちとの試合を終えた辺境伯は、額から流れる汗を拭う。仏頂面だったが、その両眼には満足そうな光が浮かんでいた。
――イェオリとインニェボリ。
いずれも“北の移民”だ。昨年、辺境伯領で頻発している失踪事件の囮として、イェオリは自ら王都行きを志願した。前途有望な、勇敢な少年だ。クラーク公爵令嬢の助太刀がなければ、辺境伯は誘拐犯を捕えるどころか、イェオリという優秀な騎士を失うところだった。
インニェボリは、その時にイェオリが辺境伯領へ連れ帰りたいと言った唯一の被害者だった。他の者たちはどうでも良いらしい。面白くなって、辺境伯はインニェボリの同行を許可した。少女でありながら、インニェボリは騎士としての才能があるようだった。
一年ほど経過した今、二人は騎士団の若手の中でも将来を期待されている。だいぶ体が大人に近づいて来たイェオリはあと少しで、そしてようやく二次性徴を迎え始めたインニェボリはあと数年もすれば伯と互角に戦えるようになるに違いない。
それが、辺境伯には楽しみでならなかった。
「実力で言えば、息子よりも秀でているだろうな。指揮官として優秀かは分からんが――幹部候補として指導内容も変えさせるか」
ケニス辺境伯領は、他の貴族が治める領地とは決定的に違う点がある。それが、血統主義ではなく実力主義であるというところだった。貴族の血筋であっても実力なきものは騎士団には入れない。一方、実力が認められば騎士団に入団することが出来るし、資質が認められたら団長になることも不可能ではない。中には、庶民でありながら辺境伯に文官として取り立てられている者もいる。
実際に、辺境伯の末娘であるマリアンヌも本人の希望と資質から、クラーク公爵令嬢の侍女として働くことを認められた。結果的に本人が幸福そうだから、それで良いと辺境伯は思っている。
そして、辺境伯の機嫌が良い理由は、イェオリとインニェボリの優秀さに満足したことだけではなかった。今朝方受け取った手紙の内容を思い返し、伯は口角を上げる。副団長のモーリスに声を掛けた。
「モーリス、付き合え」
「はい」
灰色の髪に灰色の目をしたモーリスは地味だが、騎士としては非常に優秀である。特に戦略を立てることに秀でており、冷静沈着に戦況を分析して対応することに優れていた。感情に左右されないところが、国境を護る者には非常に重要な資質だ。
モーリスは騎士たちに訓練を続行するように告げると、辺境伯に付き従う。伯は厩舎に向かい、黒毛の馬を一頭連れ出し、馬銜を嵌め鞍を乗せた。どうやら遠乗りをするらしいと悟ったモーリスは、灰色の馬に準備を整える。身軽な動作で馬に乗った辺境伯は、モーリスに言った。
「国境まで行く」
「は」
二人は馬首を揃えて平原を闊歩する。しばらく無言だったが、少ししたところで辺境伯が口を開く。
「朗報だ。西の虎が起きたぞ」
「そうですか」
モーリスは言葉少なに頷くが、抑えきれない喜色が滲んでいた。
西の虎――エアルドレッド公爵。スリベグランディア王国一の頭脳を持つ当代随一の切れ者。だが、彼は必要最小限にしか政に関わろうとしなかった。基本的には顧問会議で極論に走る貴族の抑え役。それが勿体ないと、口にしないものの心中で嘆く者は多かった。
辺境伯は鼻先で笑う。
「目覚めるのも、少し遅かったとは思うがな」
「致し方ないでしょう。先妻亡きあと、オースティン様がお生まれになるまで、生きる屍の如くでしたからね」
「さっさと立ち直っておれば、今頃あやつが宰相だったのだ」
エアルドレッド公爵は最初の妻を亡くした後は抜け殻のようだった。辺境伯もモーリスも、葬式で出会った公爵の意気消沈振りを間近で見ている。一族や子供に火の粉が降りかからない程度には動いていたようだが、それだけだった。全く意欲を失った公爵は、先代国王に“嘗て英才だった、今は取るに足らぬ軟弱者である”と見切られた。代わりに先代が見出した男が、クラーク公爵――現在、宰相として辣腕を振るっている男である。もしもエアルドレッド公爵の妻が亡くならなければ――もしくは、違う亡くなり方であれば、今頃スリベグランディア王国は違う姿を見せていたに違いない。
口にはしない辺境伯の無念を感じ取ったのか、モーリスは小さく頷いて呟いた。
「きっと、これから変わるでしょう」
「そう思うか」
辺境伯の声音が変わったことに気が付いたモーリスは、問う視線を伯に向けた。先ほどまで前向きだったはずの辺境伯は、どこか苦さを感じさせる顔で「今朝方、西の虎から手紙を受け取ってな」と言う。無言で先を促すモーリスに、伯は淡々と言葉を続けた。
「西の虎は全てを語らん。だから、私に分かる範囲には限りがある。だが、それでも明らかにされた情報から推察できることはある」
辺境伯はそこで一旦言葉を切った。西の虎の目覚めは遅きに失した。既に事は動き出している。止められないところまで来てしまったからこそ、利権の絡みが表層に浮き出た。その結果が、魔物襲撃を契機とした騎士団長と二番隊隊長の査問会議、ならびに魔導省副長官の無期限の謹慎処分だ。だが、着目すべきは結果ではなくそこに至る過程だった。
「陛下のご崩御にかこつけて我が国を掌握せんと企んでいる虚け者が居る、ということだ。そやつは魔導省と騎士団を掌握し掛けていた。魔導省に関しては、既に虚け者の思い通りになったと考えて良いだろう。騎士団は失敗したのだろうが、また近いうちに目の上のたん瘤を捨てようと企むだろうな」
「騎士団長と二番隊隊長の除名、ですか」
その通り、と辺境伯は頷く。他にも、騎士団を動かすに当たり抵抗しそうな者はいる。このまま手を打たなければ、彼らは全員排除されるだろう。
そしてもう一つの懸念が、隣国だった。国境を護る辺境伯だからこそ余計に、エアルドレッド公爵の手紙は真に迫っていた。
「隣国が動き出しているという報告もある。国境が五月蠅いのもそのせいだろう」
辺境伯はまだ見えない国境の方に視線を向ける。鋭い眼光は隣国を睨み据えている様子だった。
王都に居れば感じられない“きな臭さ”も、辺境に居ればいち早く気付くことができる。移民が増え始めた時から、違和感は存在していた。だが、その違和感が一体何に根差したものなのかまでは辺境伯にも分からなかった。
モーリスは納得したように頷いた。少し考えて「卿は」と尋ねる。
「魔導省と騎士団の掌握に、隣国が絡んでいると思われますか」
「その可能性は濃厚だろう」
エアルドレッド公爵も明言はしていないが同じように考えているようだ、と辺境伯は付け加える。モーリスは顔を顰めた。
「騎士団を掌握されると、不味いですね」
「王都の騎士団を掌握されたら、そうさな。我らはカルヴァートと組んで、他の領主も抱き込まねばならんな。それでも勝ち目があるかは、何とも言えんが」
軽い口調ではあるものの、辺境伯が示唆する内容は残酷だった。
王立騎士団は最強ではないが、一つの戦力ではある。特に、魔導騎士で構成されている二番隊と実力主義を掲げる七番隊は敵に回すと厄介だ。仮に王立騎士団が隣国に抱き込まれてしまえば、諸侯たちに為す術はない。王立騎士団と皇国が擁する軍勢によって、スリベグランディア王国は消滅させられるだろう。
状況は、嘗ての内戦の時よりも悪い。あの時は隣国も積極的に侵略を企んでいなかったし、何よりもスリベグランディア王国には英雄がいた。先代国王は武勇に優れていただけでなく、優秀な者を引き立てる才もあった。崩御して四年が経過した現在でも彼を崇拝する者は多いが、当時は今よりも信奉者が多かった。だからこそ、多くの味方を付けて圧倒的な戦力で勝つことができたのだ。仮に軍勢が拮抗していたとしても、求心力のある英雄が一人いれば人々はその英雄に心を寄せ、想定以上の働きを見せることがある。その結果、被害は最小限に抑えられた。
だが――あの頃にあって、今はないものがある。
「今の時代には――英雄がいない」
辺境伯は苦く呟く。一人の英雄でなくとも良い。嘗て魔の三百年を終わらせた英雄は三人いた。
英雄でなくとも良い。求心力のある、皆を一つに束ねられる者が国王派に居れば良かった。そうすれば、次期国王を誰にするか意見が割れることもなかった。
そして、時期も悪い。今の国王が健勝で、貴族に影響力があれば良かった。せめて王太子が成人するまでは、現国王が治世を支えるべきだった。だが、国王は寝たきりで御前会議すら開かれない。顧問会議で全ての政策は決定してしまう。王太子が足場を固める時間もなかったし、有力貴族が王太子の資質を見極めることもできないまま時は過ぎた。
辺境伯も、誰を次期国王に推すべきか判断が付かぬままここまで来てしまった。
国境の川が見えて来る。辺境伯とモーリスは、繁る森の傍に馬を寄せ姿を隠した。ゆっくりと歩みを進めるが、視線は国境の向こう側を凝視する。一年前までは開いていた城門が閉ざされ、古城の周囲に巡らされた濠には水が溜まっていた。ほんの数ヶ月前に、濠の水を川から引いていると、辺境伯の間者が確認し報告していた。
「卿は、ライリー殿下が次期国王に相応しいと思われますか」
「一番可能性は高いな」
明言こそ避けたものの、ここ一年間ずっと様子を見ていた辺境伯の意志はおおよそ固まっていた。何よりも、エアルドレッド公爵がライリーを支持するのだ。それが今朝届いた、エアルドレッド公爵からの手紙で知ったことだった。自身の判断とエアルドレッド公爵の判断に相違がなかったことに、辺境伯は安堵を覚えていた。
「エアルドレッド公爵が方針を決めれば、プレイステッド卿も動く。となれば、国王派に鞍替えするアルカシア派も相当数居るだろう」
辺境伯は言う。傍観を決め込んでいた貴族も含めて、これまではそれぞれの派閥に貴族が分散していた。アルカシア派の内、いくつかの有力貴族がライリーを次期国王に推せば形勢は逆転する。
だが、それも少し前までならば有効だった。魔導省が掌握され、騎士団にも魔の手が迫っている。はっきりと言葉にこそしていないが、辺境伯曰くの“虚け者”は国王派に敵対する者か、もしくは――隣国のユナティアン皇国。国内貴族であればまだ対応はできるだろう。だが、仮に隣国が一枚噛んでいるのであれば、アルカシア派を取り込んでもスリベグランディア王国が払う犠牲は甚大なものになる。
辺境伯は隣国が既にスリベグランディア王国の内政にまで干渉を初めていると半ば確信していた。そして恐らく――エアルドレッド公爵もまた、その可能性を憂慮しているはずだ。
「戦支度はしているか」
「は。いつでも出陣できるよう、整えています」
声を低めて尋ねた辺境伯に、モーリスは頷く。それで良いと言わんばかりの辺境伯だったが、ふと目を眇める。次の瞬間、腰に帯びていた剣を抜き放った。高い金属音が響いて地面にナイフが数本落ちる。モーリスも直ぐに反応したが、その時には二人が乗っている馬の尻に矢が突き刺さっていた。
「くっ――!」
驚いた馬は嘶き、高く前足を上げる。咄嗟のことに間に合わず、辺境伯は落馬した。だが、歴戦の猛者である伯は落ちる場所を調整した。草が繁った方へと体を捻り受け身を取る。その左肩に激痛が走ったが、歯を食い縛り立ち上がる。モーリスもまた落馬したが、辛うじて地面を転がり事なきを得た。
二頭の馬は口から泡を吹いて倒れる。どうやら放たれたのは毒矢だったらしい。
「小癪な――!」
辺境伯は低く唸るが、歯を食い縛り茂みから距離を取り剣を構えた。モーリスも伯の左隣に立って剣を構える。敵は明らかに茂みの中に居た。だが、姿を見せない。ぐらりと辺境伯は体が揺れたのを感じた。足元が覚束ない。この感覚には覚えがあった――毒だ。恐らく辺境伯が落馬の際に衝撃を殺すため草叢に落ちようとすることを見越して、その場所に仕掛けを作ったのだろう。
正規の軍隊であればこのような卑怯な真似はしない。つまるところ、敵は一人ないしは数人。十中八九、辺境伯の命を狙った刺客だ。
「モーリス」
「は」
低く辺境伯は信頼する副団長の名を呼ぶ。緊張に満ちた表情で視線を向けることなく、モーリスは答えた。
「行け」
「しかし」
モーリスは躊躇う。様子のおかしい主を置いてその場を去ることなどできる訳がない。だが、伯は引かなかった。
「これは敵襲ではない。奴の狙いは私一人だ。だが、ここに居ればお前の命もない」
そして――ケニス騎士団の次期団長はケニス辺境伯の長兄ではなく、副団長のモーリスにすると伯は決めていた。今ここで、モーリスを死なせるわけにはいかない。エアルドレッド公爵の言葉が辺境伯の脳裏を過る。
――優秀な若人を育てるのは、先達の義務であると共に楽しみでもあるというものです。
エアルドレッド公爵は、ライリーにそう告げたと言う。ライリーと彼を支える息子のオースティン――二人の治世を見たいと、そのために力を貸そうと、誓ったらしい。
それは、辺境伯がチェスの多面指しで勝利を収めた若きエアルドレッド公爵を見た時に思ったことだった。この才能あふれる若者が国を導く姿を見たいと思った。だが、その夢は果たされなかった。だからこそ、エアルドレッド公爵がライリーが次期国王に相応しいと考えていると気付いた時、腹が決まった。
モーリスは唇を引き結び、一歩下がった。踵を返して走り去る。目が泣きそうに見えたが、辺境伯は気に留めなかった。不敵に笑った。
実力主義と言いながら、伯はずっと若者たちの才能を見て来た。本人が最もその能力を発揮できるよう、全てを整えた。
まだ、理想には程遠い。
まだ、未来を見たい若者たちが居る。
だが今ここが、己の命運の分かれ道だと気付いていた。
「――出て来んか、下郎」
低く唸る。怒りが、辺境伯の体を突き動かしていた。
15-10