16. 黒い風 4
リリアナの記憶に残っている、前世で遊んだ乙女ゲームのストーリー。ゲーム本編と設定資料集、そして攻略本に書かれた情報は非常に限定的だ。ゲームが開始されるのはリリアナが十三歳の時だ。ヒロインのエミリア・ネイビーが王都で開かれるパーティーに参加する日に、彼女は攻略対象者たちと出会う。それ以降はエミリアの視点で物語は展開し、彼女が知らない情報や出来事はゲーム内で描写されることはない。
ゲーム内で描写されない情報は一部が設定資料集や攻略本に記されていたものの、全ての出来事を網羅していたわけではなかった。当然のことながら、ゲーム開始前の出来事については殆ど知ることができない。更に、攻略対象者やライバルキャラクターのタニア・ドラコ、そして悪役令嬢のリリアナ・アレクサンドラ・クラークに関連する情報はわずかに載っている程度で、詳細は分からない。それ以外の人物たちに関しては名前すら書かれていないこともある。
(――思ったよりも早い段階で、わたくしは攻略対象者たちと面識ができるのですわね)
ライリーの婚約者候補から逃れられないと分かった時点で、ある程度は出会ってしまうことに諦めはついていた。身の破滅を避けるためには、攻略対象者たちを避けることも一つの方法だった。だが、自分の身分や立場を考えれば、王族や高位貴族に連なる攻略対象者たちと出会わずに過ごすことなどできるわけがない。そうなる前に婚約者候補から外れられたら良かったのだが、父親であるクラーク公爵の意図が確実に分からない以上、下手な動きは取れなかった。身の破滅を回避するために取った行動で自分の死期を早めることになってしまえば目も当てられない。
(お父様も、わたくしの声が出ないまま十歳になれば婚約者候補から外す――のではなく、もっと早い段階で外すように交渉して頂けましたら宜しゅうございましたのに)
文句を言っても仕方がないが、そんな恨み言を抱いてしまう。とはいえ、ライリーによれば国王がリリアナを婚約者候補に留まらせたいと考えていたようだった。クラーク公爵が奮闘した結果の妥協点が“十歳”だったのだろう。
リリアナはマリアンヌが淹れてくれたお茶を飲みながら、先ほどからちっとも進まない本の文章を指先でなぞる。読んでいるのは、書庫で見つけた魔物に関する書物だった。昔から地方で語り継がれているおとぎ話のうち、魔物に関するものだけをまとめた古い書物だ。俄かには信じがたい内容も含まれているが、一方で面白い発見もある。特にリリアナの興味を引いたのは、人語を解する魔物が居た可能性だった。
魔物は知能が低く意思疎通が取れない存在であり、出現すれば消滅させない限り周囲のものを破壊し尽くすものだと考えられて来た。害獣と呼ぶに相応しく、長らく忌避されて来た存在だ。だが、先日の魔物襲撃でリリアナが出くわした魔物たちは知能の高さを感じた。それは何者かが人間を魔物に変えたせいだと思っていたし、その証拠もある。ただし、その前に出会った魔物は動物と同じ構造の体を持っていた。人間が元になっていたと考えるのは難しい。実験的に動物を魔物に変えた可能性も否定できないが、おとぎ話のように元々知能が高い魔物だった可能性もある。
(もし人が何かをしたせいではなく、人語を理解する魔物が自然に存在しているとしたら)
リリアナは眉根を寄せる。そんな魔物が居たとして直ぐに何かが変わるわけでもないが、魔物襲撃の被害を拡大させない手掛かりになる可能性もあった。
ふと、リリアナは顔を上げる。屋敷の敷地に張り巡らせた結界が揺れた。普通の刺客であれば、ジルドやオルガが対処できる。だから普段であれば、仕掛けた結界が揺れることはない。
リリアナは魔術と呪術を組み合わせて、魔導石も活用し屋敷に結界を張った。その結界が反応するのは、ジルドやオルガでは対処できないと判断された存在が敷地に侵入した時だけだ。例えば、隠匿の術を使って姿を晦ましている者。ジルドもオルガも隠匿の術を使った暗殺者への対応には慣れていない。気配を察知し対処できなくはないが、見過ごす可能性は高かった。
(気付いていますかしら)
リリアナは立ち上がる。窓際に近づいて様子を窺うが、夕闇が去って月が見え始めたこの時間に外の景色は良く見えない。悩みはしたが、結界は一度揺れただけで他に変化はない。
「【索敵】」
術を発動する。屋敷の敷地全体を表示させ、自分と使用人たち、そしてジルドとオルガの位置を確定する。案の定、リリアナの知らない存在が一つ、敷地内に存在していた。だが、どこかで見たような記憶がある魔力の色だ。首を傾げるが、思い当たる人物はいない。侵入者はその間にも少しずつ、屋敷に近づいて来ている。それも、リリアナが居る部屋が目的地なのかと思うほど迷いなく一直線に進んでいた。
リリアナは考えた。彼女の部屋には、敷地よりも更に綿密で最高位の結界を張っている。更には攻撃してきた者に対する反撃のための術も仕掛けてあった。ジルドやオルガが取り逃した暗殺者が居ないとも限らないため、寝ている間の襲撃に備えようと考えた結果の対策だ。ただ今は起きている。張り巡らした術に頼らずとも反撃はできるだろう。
リリアナは部屋に掛けたいくつかの術を敢えて解除した。侵入者が部屋に近づいて来るのを待つ。だが、室内の光は消さなかった。暗殺者であれば、明るい部屋には入って来ないはずだ。
わずかな気配が徐々に近づいて来る。少しすると、閉じたままの窓がゆっくりと開いた。そちらへ視線をやったリリアナは、予想外の存在に目を丸くする。
「――まあ」
『邪魔するよ、お姫様』
姿を現したのは、竜の翼を持った黒い獅子。以前、フォティア領でリリアナが助けた存在だった。
「見覚えがあるとは思いましたけれど――、そうですわね。わたくしの魔力と貴方の魔力が混じったのですわね?」
『あの時は助かったよ』
黒獅子は窓から入って床に座る。リリアナは笑みを漏らした。
リリアナはあの日、魔力が尽きて動けなくなっていた黒獅子に魔力を分け与えた。それだけであれば、リリアナと全く同じ魔力を感じ取れただろう。だが、その後に黒獅子の魔力も回復し、二つの異なる魔力が体内で混ざり合ったらしい。だから、魔力自体に見覚えがあっても誰なのかは分からなかったのだ。
黒獅子は紫と緑に光る目でリリアナを見上げる。リリアナは小首を傾げた。
「突然のご訪問、驚きましたわ。如何なさいまして?」
『いつでも俺の居場所が分かるはずなのに、全く探している素振りが見えなかったからな。会いに来た』
「まあ、本当に?」
くすくすとリリアナは軽やかな笑い声を漏らす。黒獅子の言うことを、全く信じた様子がない。しかし、黒獅子に気分を害した様子はなかった。
「必要な時に呼べと仰っていましたのに、名前も教えて頂けないものですから、どうしようかと思っておりましたのよ」
リリアナの言葉に、黒獅子はわずかに目を瞠る。口元を歪めて、黒獅子は肩を竦めた。
『名はないからな』
「ございませんの?」
『ああ。――付けたければ、付ければ良い』
今度はリリアナが目を瞠る番だった。脳裏に、古い東方の呪術に関して書かれた書物の内容が蘇る。非常に珍しい内容だったが、スリベグランディア王国では使い道がなかった。王国に精霊は存在せず、そして知能の低い魔物はいるものの、知能の高い魔物はいない。その書物には、精霊や魔族を召喚し契約することで、この世ならざる存在と彼らの持つ力を使役する術が記載されていた。その方法の一つが、相手に名を付けることだった。
「――名前を付けてしまえば、わたくしと貴方の間に契約が成立してしまうのではなくて?」
リリアナの質問は、黒獅子にとっては予想外のものだったらしい。黒獅子は目を瞬かせたが、すぐに『なるほど』と納得したように頷いた。
『お前が言っているのは召喚魔術の話だろう。それとも呪術か? 安心しろ、俺はお前に召喚されてなぞいないし、名を付けられたところで従属契約も隷属契約もできん』
「それは安心いたしましたわ」
黒獅子の答えを聞いたリリアナは心底安心した。しかし、黒獅子は訝し気な視線をリリアナに向ける。リリアナが首を傾げると、黒獅子は少し躊躇った後に不思議そうな口調で尋ねた。
『何故そこで安心する。人間というものは、俺のような異形とは契約したがるのではないのか』
「それでしたら、わたくしは普通の人間ではございませんわね」
にこやかにリリアナは言葉を返した。契約には対価が必要だ。対価は釣り合いが取れていなければならず、少なすぎても多すぎてもその後に代償を支払わなければならない。
リリアナが読んだ書物にも、人ならざる者と従属契約や隷属契約をした場合、契約者は己の命か人生を差し出さなければならないと記されていた。相手の人生を契約で縛るのだから、当然の対価だ。
命には、命を。
――――魂には、魂を。
だからこそ、不要な契約は避けたい。そう思うのは当然だとリリアナは考えるが、恐らく黒獅子の知る人間の中にリリアナと同じ考え方をしていた者はいなかったのだろう。
簡単に説明するリリアナの話を黙って聞いていた黒獅子は、どうやら納得した様子だった。『ふむ』と頷き、楽し気に笑う。牙が見えたが、リリアナは恐ろしいとは思わなかった。
『なるほど、その考え方であれば理にかなっているな。気に入った』
リリアナにとっては思ってもみなかった反応だった。わずかに目を瞠って黒獅子を見つめる。黒獅子は不思議に煌めく瞳をリリアナに向けて、にやりと牙を見せた。
『それなら尚のこと、お前に名を付けて貰おうか。傍にいるのに名無しじゃあ、勝手が悪い』
「――わたくしの傍にいらっしゃるつもりですの?」
『暇だからな。安心しろ、四六時中傍にいるつもりはないし、いる時も他の連中には見えないようにしておいてやる』
不遜に言い切る黒獅子の様子が、リリアナの笑いを誘う。楽しくなって顔を綻ばせ、リリアナは「今のように?」と尋ねた。
リリアナの部屋に入って来た後も、黒獅子は周囲に姿が見えないよう術を身にまとっている。リリアナが見えるのは、身にまとった術がリリアナには影響を及ぼさないように黒獅子自身が調整しているからだろう。優秀な魔導士であっても、特定の人間にだけ姿を見せられるような隠匿の術を使える者はいない。リリアナでも、似たようなことはできるかもしれないが、完全に模倣することは難しかった。
『俺のような姿形の存在は、人に見えると色々と厄介だからな』
「そうでしょうねえ」
しみじみとリリアナは頷く。人は、異質なものに拒絶反応を起こす。神や精霊として崇めることもあるが稀であり、基本的には否定的な反応を示す。最悪の場合は、何もしていなくとも自分たちに害を為す存在だとして排除する。
『身に覚えがありそうな反応だな』
「わたくしも、どちらかと言えば異質な存在でございますから」
極力隠しているとはいえ、無詠唱で魔術を使えることは十分に異質であり忌避される対象となり得る。更に前世の記憶があると知られたら、異端だとして迫害されるだろう。リリアナ自身のことだけでなく、この世界でも記憶にある前世の世界でも異端な存在は弾圧されることが多かった。人間の心理的にも、そして政治的にも異端は排除されやすい。
リリアナの頭の中を読み取ったわけではないだろうが、黒獅子は『そうだろうな』と頷いた。
『それで、俺の名は』
どうする、と黒獅子はリリアナを急き立てる。リリアナは考えた。名を考えろと言われても、すぐには思い付かない。リリアナを見つめる黒獅子と目が合う。紫と緑の混じった瞳は、所々色が深く見えた。どこまでも深い――前世で見た地球のような瞳。
「それでしたら――アジュライト」
黒獅子は目を瞬かせる。リリアナは、ゆったりと微笑んだ。
「アジュライトという名は、如何かしら」
しばらく、黒獅子は考えていた。やがて、楽し気に口角を引き上げる。
『なるほど――藍銅鉱、か』
「ええ。瞳が、とても美しゅうございますわ」
リリアナの言葉に、黒獅子は遠くを見る。今はもう手の届かない、懐かしいものを思い出すような表情だった。だが、すぐに黒獅子は視線をリリアナに戻す。そして、満足そうに頷いた。
『良い名だ』
「それでは、アジュライト。わたくしの名はリリアナ・アレクサンドラ・クラーク。これから、宜しくお願い致しますわね」
にっこりと笑ったリリアナに、アジュライトの名を貰った黒獅子は立ち上がって近づく。そしてリリアナの左手の甲を一舐めし、『こちらこそ』と答えた。リリアナの手の甲に、小さな文様が浮かび上がる。リリアナがそこに目をやれば、一瞬光って文様は消えた。文様の中央には、アジュライトの名が古代文字で記されていた。
「何をなさったの?」
『お前に危険が及べば直ぐに分かるように術を張った。他の用途には使わんから、安心しろ』
「――まあ。守ってくださる、ということ?」
黒獅子の行動が予想外で、リリアナは微苦笑を浮かべる。アジュライトはあっさりと頷いた。
『ああ。お前は俺に名を付けた。互いの名を呼び合うことができる。それは、友と呼ぶのだろう?』
リリアナは目を丸くする。アジュライトの言葉は、人間のようだった。だが、名前を呼べるのであれば友人だという価値観はあまりにも短絡的だ。そう指摘しようかとも悩んだが、アジュライトはリリアナの言葉を予想したように口を開いた。
『人間であれば、名を呼んだからといって友人にはならんのだろうな。だが、俺の常識ではそうではない。俺に名を付け、その名を呼べるような人間はなかなか居らん』
だからお前は今から俺の友だと、アジュライトは笑う。
しばらく絶句していたリリアナだったが、やがて自分を取り戻すと珍しく偽りではない笑みを浮かべた。人ならざる者であっても、リリアナのことを“友”と明言する相手は初めてだった。親しくする人はいても、友はいない。王太子のライリーは“婚約者になるかもしれない相手”であり“リリアナが仕えるべき人”だ。兄のクライドは家族であり友とはなり得ない。オースティンはライリーの友人ではあるが、将来の国王の側近候補である以上リリアナの友ではない。
「――そうですわね。それでは、またお会いできる日を楽しみにしておりますわ」
リリアナは喜びを隠し切れずに、アジュライトへと答える。アジュライトは小さく頷くと、踵を返して窓の外へ飛び出した。あっという間にその姿は闇に消え、見えなくなる。
咄嗟に椅子から立ち上がったリリアナは、窓枠に手を掛けて外を眺める。月光が照らし出す庭は綺麗だったが、そこには何の気配も感じられなかった。
「行ってしまったわ」
従者や侍女、護衛であれば命令をすれば常に傍にいる。だが、友はそうではない。別の場所に居て、そして時々会って話に興じる。そこに利害関係はない。そして、傍に居るよう命令し、行動を制限したり強制してしまえば“友”ではなくなる。
分かっているのに、リリアナはずっとアジュライトが立ち去った窓を開け放したまま、月光に照らし出される暗い世界を見つめ続けていた。
14-11