16. 黒い風 1
月が雲に隠れ、辺りは直ぐに暗くなる。青白い顔色の痩せすぎた男は、気配を完全に消し去り闇と同化していた。
「もう来てたのか、ココエフキ」
痩せすぎた男に声を掛けたのはテンレックだった。ココエフキと呼ばれた男は無感動にテンレックを見やり、憮然と「指定した時間ちょうどだ」と答える。テンレックは喉の奥で笑い、肩を竦めた。
「相変わらず、融通がきかねェなァ。まぁ、そこがお前の持ち味だ」
ココエフキは答えない。無言でテンレックを注視している。ココエフキが反応しないのはいつものことだ。テンレックは気にしなかった。雑談に興じることもできないため、さっさと本題に入ることにする。とある名前と場所を告げ、長期間の仕事になることを付け加えた。
「お前の次の仕事先だ。最終的にそこで働くかどうかはお前次第。俺は仲介金を貰ってるが、断ってもお前に金は入らない」
「分かった」
テンレックの説明を聞いてココエフキは頷く。普段であれば、ココエフキはここでさっさと姿を消す。余計な情報を得ようとも与えようともしないのが、裏稼業の中でも名の知れた暗殺者の性質だった。だが、珍しく未だにココエフキは影に同化したまま留まっている。テンレックはわずかに警戒を高めココエフキに視線をやる。
「なんだ。何か気になることでもあるのか」
ココエフキは直ぐには答えなかった。躊躇いにも似た沈黙が落ちる。これもまた、彼には珍しいことだった。どうやらココエフキに攻撃の意図はないらしいと判断しながらも、テンレックは反撃の準備を怠らない。緊張が高まる。永遠にも思える数秒の後、ココエフキは口を開いた。
「――今回の仕事を、最初はデス・ワームに斡旋しようとしていたと聞いた」
テンレックは咄嗟に毒づきそうになるのを堪えた。一体誰がコイツの耳に入れやがった、と喚きたくなる。確かに最初はデス・ワームにこの仕事を任せようかと考えていた。だが、何だかんだと理由を付けてデス・ワームはテンレックに色よい返事を寄越さなかった。どうやら気になる獲物が居るらしいことは分かったが、その獲物がどこの誰なのかテンレックは知ろうと思わなかった。そうこうしている内に、デス・ワームはユナティアン皇国へと仕事のために遠征したのだ。彼の興味を引いた獲物がスリベグランディア王国に居ることだけは把握していたから、テンレックは遠慮なしに笑い飛ばしてやった。気になる獲物に執心のあまり長期間拘束される王国での仕事を蹴って、皇国へ行く羽目になったのはあまりにも馬鹿らしかった。
だが、そのような状況下ではデス・ワームを依頼人に紹介することはできない。結果的にテンレックはココエフキに白羽の矢を立てた。勿論、当初はデス・ワームに声を掛けていたことは伏せていた。デス・ワームにココエフキの名は禁忌ではないが、ココエフキにデス・ワームの名は禁忌だ。ココエフキはデス・ワームのことを蛇蝎の如く嫌っている。だから、テンレックは平然とした様子を崩さずに「ああ?」と片眉を上げた。
「んなわけねぇだろ。客からの依頼は“優秀な暗殺者を寄越すこと”だ。お前はその要求に適合する」
「デス・ワームも当てはまるだろう」
お前らの基準ではデス・ワームも“優秀な暗殺者”だ、と珍しく苛立たし気にココエフキは吐き捨てる。デス・ワームとココエフキは同じく優秀な暗殺者だ。裏社会でも一、二を争う腕前であり、何かにつけ二人の対立を煽るような話題も出る。実際に二人の戦闘様式は対照的だった。
派手なデス・ワームと、静謐なココエフキ――デス・ワームに言わせればココエフキの暗殺方法は地味で詰まらなく、一方でココエフキから見たデス・ワームの術は暗殺ではなく単なる殺戮だと言う。どこまでも相容れない二人の存在は裏社会では目立っていたが、かといっていずれも腕が劣るというわけではない。二人とも受けた依頼は完遂する優秀な暗殺者だった。
テンレックは苦笑を隠し、肩を竦める。
「あいにくと、俺はそこら辺には興味がないんでな。客が満足すればそれで良い。その点、お前は客の期待を裏切らない」
テンレックの言葉はココエフキの自尊心を満足させたのか、青白い男は不機嫌に鼻を鳴らしたものの、それ以上何も言わなかった。
「それでは、俺は行く」
ココエフキはそれだけを告げて、その場から瞬時に掻き消える。魔術を使ったわけではない俊敏さに、テンレックは今度こそ呆れを表情に表した。
「――相変わらずの素早さだ」
ココエフキを一流の暗殺者たらしめる能力。それは魔術や呪術に頼らない身体能力の高さと、師であるカマキリすら凌ぐ毒の知識だった。
*****
スリベグランディア王国王太子の生誕祭が終わってから一ヶ月ほど経過したある日、リリアナは王都にあるベン・ドラコの私邸を訪れていた。生誕祭の後しばらくはベラスタとタニアも滞在していたらしいが、街道が使えるようになった時点で実家に戻ったらしい。屋敷にはベンとペトラ、そしてポールの三人だけが居た。
「良く来たね。元気そうで何よりだよ」
「ご無沙汰しております」
ポールが部屋に居ないのを良いことに、リリアナは普通に話している。ペトラは魔物襲撃で負った怪我から回復しているが、まだ本調子ではなさそうだ。三人の前には、ここ最近のポールが大量に作りまくっているという菓子が山と置いてある。どうやら非常にストレスを感じる出来事が相次いでいるらしい。
「ペトラさんは、回復なされたのですか」
「うん、もう元気になったよ」
「まだまだだ」
リリアナの問いに、ペトラとベンは声を揃えて真逆の事を言う。リリアナは苦笑を漏らした。ベンはペトラに対し過保護だ。魔物襲撃の最中、リリアナは意識のないペトラに治癒魔術を施しこの屋敷へ転移させた。その後の状態は把握していなかったが、重体だったことは確かだ。魔物を倒すことを優先し、十分に術を施せなかったことはリリアナにとって心残りだった。だが、幸いにも後遺症は今のところ見られないと聞いて安堵する。
「君がミューリュライネンに治癒魔術を掛けて、ここまで送ってくれたんだろう? ありがとう。治癒魔術の痕跡が君の魔力に似てたから分かったよ」
微笑を浮かべてマカロンを齧りながらベンが礼を言う。リリアナは首を振った。
「大したことはしておりませんわ。あの時は魔物が多すぎて、応急処置をするだけで精一杯でしたの。本当でしたら、もう少し治癒できたのですけれど」
「十分だよ。あんたが居なかったら、あたしはあそこで双子と一緒に死んでただろうし。逃げられたとしても、後遺症で苦しんだと思う」
リリアナは何も言えずに、困ったような表情を浮かべてみせた。感謝されるのは慣れないが、「どういたしまして」と謝意を受け入れることにした。ペトラは紅茶を一口飲んだ。
「それに、制圧したのもあんたでしょ? タニアが、あたしの持っていた袋をあんたに渡したって言ってた。あんたじゃなかったらヤバかったけど、今回は良い判断だと思ったよ」
「見覚えのある陣で助かりましたわ」
にっこりと言えば、ペトラもにやりと笑う。ペトラが持っていた陣は、ベンとペトラ、そしてリリアナが三人で研究していた、魔物襲撃を光魔術に頼らず浄化させるためのものだった。今回初めて実戦に投じたが、見事に想定通りに効果を発揮してくれた。
「ただ、転移して運ばなければならないというのが懸念点ですわね。今回のように術者が倒れてしまえば浄化はできなくなってしまいますもの」
「そうなんだよね。今回は子連れだったから、あたしも失敗したし――」
ペトラの声が小さくなる。一人だったらまだしも、子供を二人連れて魔物を撃退しながら、陣を配置するために転移するなど全く現実的ではなかった。その上、あの術を行使するためには陣を置く順番も重要だ。ベラスタとタニアが足手まといだったと受け取られかねない言い草だと気付いたのか、ペトラは隣に座るベンを気遣って言葉を濁した。だが、ベンが気にした様子はない。少し考えたリリアナは口を開いた。
「それでしたら、陣を目的場所まで転移させる転移陣を組み合わせれば如何でしょう?」
「転移陣?」
リリアナの提案を聞いたペトラとベンは目を丸くして顔を見合わせる。その仕草は似ていたが、本人たちは気が付いていない様子だ。そして、魔術と呪術の天才である二人はすぐにリリアナの言いたいことを理解した。
「確かに、それなら実現できるかもしれない。複合術だと取り扱いが難しくなるけど」
「そこは本人の魔力の制御能力に依存するだろうな。利用者の裾野を広げるなら、魔導石も組み合わせれば良いんじゃないか」
「でもベン、あんまり複雑にして道具が増えたら逆に敬遠する連中が出て来るんじゃない? 特に地方の方だと、魔導石も馴染みがない場合があるでしょ」
ペトラとベンが盛り上がる。だが、すぐにベンは苦笑混じりに肩を竦めた。
「非常に興味深いけど、しばらくは無理だな」
「あー……そうだね」
ベンの言葉を受けて、ペトラも情けなく眉を下げ残念そうに頷く。リリアナは首を傾げた。不思議そうなリリアナに、ベンは両手を掲げて見せる。そこには、枷が嵌っていた。
「これ。何か分かる?」
「枷だとは――思っておりましたが」
「そう。魔術制御の枷」
リリアナは瞠目する。だが、その優秀な頭脳は直ぐに遠耳の術で拾っていた単語を思い出していた。確かに魔物襲撃が発生した直後、ベンが転移陣を細工したという疑惑が持ち上がり、魔術制御の枷を付けるよう指示が出されていた。その枷が外されていないのだろう。
ベンは淡々と、無期限の謹慎になったことと降格処分になったことを告げる。
「謹慎の上に、魔術制御の枷は付けられたまま。魔術の研究も魔術の行使も禁じられてるってわけ」
「そんな――」
だから、今三人で話していた陣の改善も行えない。屋敷の中までは魔導省の監視も入らないが、魔術制御の枷は非常に優秀だった。魔術を行使するだけでなく、研究のためと思しき魔術が身近に感知されたことも察知する。つまり、ベンの私邸では現在一切、魔術の研究が行えないということだった。
「自分の優秀さが嫌になるよ。まさか作った時は自分が付ける羽目になるとは思ってなかったし。こんなことなら、抜け道を作っておくべきだったよね」
「――ご自分で作られたのですか」
「そう」
史上最年少で魔導省副長官の座を得た天才青年は、わずかに後悔の滲んだ台詞を口にする。さすがに、リリアナは何も言えなかった。それに、リリアナが気になったのは魔術制御の枷だけではない。
「降格――とは」
「副長官じゃなくて、一介の魔導士になったってこと。まあ無期限謹慎だから、事実上の馘首かな。懲戒処分にならなかったのは、野放しにしたくなかったからだと思うよ」
「監視、ですか」
「そういうことになるね」
魔術制御の枷も、監視の一環だろう。徹底的だが、それは同時に魔導省がベン・ドラコの存在をそれほどまでに危険視しているという示唆でもあった。
「ちなみに、副長官の後釜はどなたになったのでしょう?」
「ソーン・グリードだったかな」
「ずっとベンを敵視してたポンコツ。副長官になってから、ずっと態度がデカいってさ」
ベンの答えにペトラが情報を追加する。そして「あれ以上態度がデカくなるとか、そのうち魔導省の門も通れなくなんじゃないの」と吐き捨てる。リリアナは納得した。副長官室もソーン・グリードという魔導士のものになっているのであれば、陣の開発も魔導省では行えない。ベンも謹慎になっている上に魔導省も使えないとなると、ベンやペトラと共に陣を開発したり解析することはできない。
「ペトラさんは、魔導省に復帰なさるのですか?」
もう一つ、リリアナは気になっていることを尋ねた。ペトラは微妙な表情を浮かべる。先ほどまで変わらぬ微笑を浮かべていたベンは、途端に不機嫌になった。リリアナは首を傾げる。先に口を開いたのはペトラだった。
「もう体調は良いんだけどね。いつでも復帰しようと思えば復帰できる、んだけど」
「だめ」
「――っていう奴がいるからさ」
端的にベンがペトラの復帰を否定する。目を瞬かせるリリアナに、ベンは「今、ミューリュライネンが復帰すると危ないんだよ」と説明した。
「危ない、のですか?」
「ベンが気にしすぎなんだって」
「そんなことない」
曖昧に笑うペトラに反して、ベンは苦々しい表情を崩さない。どこか不貞腐れたようにも見える顔で、ベンは言葉を続けた。
「最近はずっと無茶な仕事ばっかり振られてたじゃないか。今回の件で思い知ったよ、魔導省の馬鹿共は僕だけじゃなく、ミューリュライネン、君のことも邪魔者扱いしている。いっそ死ねば良いとでも思ってるんじゃないか」
思い当たる節があるのか、ペトラは肩を竦める。
ここ数ヶ月間、ペトラの仕事はあまりにも無茶苦茶だった。不十分な準備で魔物の討伐に向かわせられたり、非常に逼迫した期限で大量の魔道具を作るよう指示が出たり、魔力だけでなく生命力も削らされるような仕事ばかりだ。今回の魔物襲撃でペトラが大怪我を負ったのも、一つには無茶な仕事量と仕事内容のせいで疲労が溜まっていたことが原因だ。これまではベンが副長官としてペトラを庇っていたが、ベンが魔導省に居られない状況では、更にペトラの待遇が悪化する恐れがあった。
「僕はむしろ、退職した方が良いんじゃないかって思う。ここで暮らせば良いし、ここなら研究だって続けられるだろ」
君はどう思う、とベンに話を振られたリリアナは頷いてみせた。ペトラの意志を尊重すべきだとは思うが、そこまでされて魔導省に残る理由はない。だが、ペトラは曖昧な表情を浮かべたまま首を振った。
「だから何で嫌なんだよ、ミューリュライネン。君だって魔導省に思い入れはないだろ」
「ないよ。ないけど、それとこれは別」
ペトラは頑として譲らない。ベンは納得できない様子だったが、傍から見ていたリリアナは何となくペトラの考えが分かる気がした。
恐らく、ペトラは謹慎が解けたベンが魔導省に戻る時、そこに居たいのだ。ベンもペトラも、魔導省に味方は少ない。地位がない存在であろうと、仲間がいるだけで人は心強いと感じるものだ。ペトラはベンのためだけに、魔導省に籍を残そうとしているのだろう。だが、一方でベンの懸念も分かる。ベンがいつ復帰できるか分からない中で、ペトラだけを魔導省に置いておくのは不安に違いない。今の魔導省は二人にとって敵地だ。
「分かった。それなら今は一旦譲る。でも、しばらくは休職してくれ。すぐに戻るのは駄目だ。医者に診断書出させるから、それで一年休職すること」
「一年って長くない?」
「むしろ短いよ」
ペトラの意志が強いと見たベンは譲歩する。ペトラは口をへの字に曲げるが、そこまで話が決まったのであれば休職期間は二人で決めれば良いだろう。そう判断し、リリアナは「それはそうと」と話題を切り替えた。
「お借りした袋の中に、魔導石が五つございましたの。それが魔物襲撃を引き起こしたとお考えでしょう? ですから、お二方とご一緒に解析を――と思っていたのですが」
「ああ、うん。そう。あの魔導石は現場で見つけたんだよね。自動的に消滅する術が掛けられてたから、それは解術したんだけど」
リリアナは鞄から魔導石を五つ出してベンに見せる。ベンは石には触れず、身を乗り出してリリアナの掌に載った魔導石を眺める。刻まれた文字を見て、真剣な表情でベンは頷いた。
「確かに、これは何かを生み出す術だね。魔術じゃなくて呪術だ――ってことで、ミューリュライネンの専門分野だな」
「そう、あたしの専門」
にやりとペトラは笑う。だが、すぐにペトラは肩を竦めた。
「あたしも解析したいのは山々だけどね。ここでも魔導省でも解析は現状、できないし――それに」
それに、ペトラ自身も恐らくは魔導省の監視対象になっている。
声を潜めて、ペトラは言った。リリアナは目を瞬かせる。問うような視線を受けたペトラは、苦く笑った。
「あたしとベンは二人で一つみたいに見られてるところがあってね。まあ、ずっと昔から一緒に研究してたし、ベンもあたしのことを度々かばってくれてたし。魔導省のお偉方からは二人で睨まれてた。だから、今回ベンが監視されてるってことは多分あたしも監視されてると思った方が良い」
「残念ながら、それは否定できないな」
ベンもペトラに同意する。リリアナは溜息を堪えた。
「――つまり、わたくしの屋敷においでいただくことも難しいのですね」
「そういうこと」
ペトラは頷いた。ペトラがリリアナの屋敷に赴けば、魔導省が疑惑を持つだろう。それはリリアナも避けたいことだった。今の魔導省は、十中八九、長官のニコラス・バーグソンが掌握している。バーグソンはクラーク公爵とも懇意であり、リリアナにとっては天敵側の存在だ。疑惑を持たれるだけならば構わないが、身辺調査をされると面倒なことになる。となると、リリアナもベンの私邸を訪問するのは今回で最後にした方が良いだろう。
頭が痛いと言いたげなリリアナに、ペトラは安心させるような笑みを浮かべてみせた。
「大丈夫。次の被害を起こさないためには早く解析した方が良いと思うけど、その方法はあたしが教えるよ。必要な道具も渡す。一人で解析して貰うことにはなるけど、お嬢サマなら大丈夫でしょ」
「――わたくし、術の解析は初めてですのよ」
「誰でも最初は“初めて”だって」
だから大船に乗った気でいろと、ペトラは笑いながら立ち上がる。向かった先は、魔術を持ちベンが許可した者でしか存在が見えない扉だ。その奥にある隠し部屋に、必要な書物や道具があるらしい。リリアナはペトラに呼ばれるまま、その部屋に向かった。