15. 生誕祭の罠 12
クラーク公爵家が有する王都の邸宅は、高位貴族が集まる区画でも最も洗練された地区にある。敷地も広大で、領地の屋敷と比べると多少狭いものの、他の貴族たちが有する王都の邸宅と比べると格段に広い。邸宅自体は華美ではないものの豪奢であり、調度品は全て一級品だった。
リリアナに用意された部屋は客室だ。自室がないせいだが、どうやら頻繁に出入りしているはずのクライドも自室がないらしい。恐らくこの邸宅はクラーク公爵の城なのだと、リリアナは理解している。
赤い絨毯を踏みしめ、重厚な階段を昇る。二階に用意されている客室の一つが、今回リリアナが滞在している部屋だ。中に入れば、簡素ではあるものの趣味の良い家具が絶妙なバランスで配置されている。窓からは美しい庭が一望できた。リリアナが暮らしている王都郊外の屋敷やフォティア領の屋敷と比べるとこぢんまりとしているが、綺麗に手が入っている。クラーク公爵の好みに沿っているのか、噴水を中心として左右対称に作られていた。
噴水の周囲には三体の男性像が立っており、中心には女性の像が据えてある。女性はローブに身を纏い、頭には光輪が載っていた。男性はそれぞれ剣を構えた勇者、ローブに身を包み宝玉を持つ魔導士、そして鏡を掲げる賢者である。魔の三百年を終結に導きスリベグランディア王国建国の切っ掛けとなった三人の英雄たちだ。中央の女性は聖女――つまり、英雄たちと共にこの地に平穏を齎した女性だった。
(存じ上げませんでしたが、お父様は英雄譚が本当にお好きですのね)
リリアナはそんな感想を抱く。寝台の天蓋に施された刺繍は魔の三百年を表す物語だし、フォティア領の屋敷でも、クラーク公爵の私室には英雄譚を記した書物があった。もしかしたら、クラーク公爵は三人の英雄の誰かに憧れているのかもしれない。
そんなことを考えながら、リリアナは手荷物から小さなノートを取り出した。彼女は毎日、一言ずつ日記を付けている。時折長くなることもあるが、基本的にはその日にあった出来事を簡潔に記していた。どちらかというと、日記ではなく報告書にも似た体裁である。リリアナがその日に感じた気持ちを書くことはない。
窓際の椅子に腰かけ、日記帳を開く。前日の日記には、氷漬けにして捕えた魔物を分析したことを記していた。
分かったことはそれほど多くない。ただ、異形の魔物は体組成が人間にそっくりだった。これは、以前ペトラに呼ばれた時に倒した魔物とは明らかに異なる部分だ。以前に倒した魔物は動物とほぼ同じ構造だった。更に、今回捕えた魔物の体内に残されていた奇妙な術式――その術式がどんな効果を発揮するものなのか、特定できていない。見たことのない術式だったが、発動されていないことは確認した。試してみたくとも解析が不完全な状態で動かせば、どのような被害が出るか分からない。
リリアナの中では一つの仮説が浮かび上がっているが、それを確認するためにはペトラが持っていた袋に入っていた五個の魔導石を解析しなければならない。だが、リリアナは呪術の解析をした経験に乏しい。できれば、ペトラかベン・ドラコと一緒に解析をしたかった。
テーブルの上にはマリアンヌが淹れてくれたホットミルクが置いてある。一口飲めば、少し強張っていた体から力が抜けた。
リリアナが持って来た荷物はそれほど多くない。既に寝る準備も終え、日記を書けば後は眠るばかりである。リリアナは、小さく欠伸を漏らした。早く家に帰りたいが、魔物襲撃の爪痕が残った街道は未だ荒れ果てたままらしい。少なくとも馬車が通れるようになるまでは、王都の屋敷に留まらなければならなかった。
(あまり良く眠れておりませんのよね……)
王宮から戻ってから二晩が経過している。最初の夜は、王宮を抜けて魔物襲撃の現場に行ったせいで神経が昂っているのだろうと思った。だが、その翌日もリリアナは良く眠れなかった。時間はたっぷり取っているにもかかわらず、睡眠が浅いのか、起きている間もずっと眠たい。夢を見ていたような気はするものの、記憶には残っていなかった。その上、単なる寝不足にしては体が重く怠い。
「【浄化】」
身の回りに何か良くないものが漂っているのかもしれないと思い、念のため室内の浄化を試みる。体感は変わらない。あまり考えすぎるのも良くないかと、リリアナは自分の体調を考えるのはやめた。
気にかかることは幾つかある。一つはペトラのことだ。治癒魔術を施してベン・ドラコの私邸に転移させたが、無事だろうか。恐らく大きな傷は残らないはずだが、あの時は魔物討伐に忙しく、あまり様子を見ることができなかった。だが、ペトラやベン・ドラコはともかく、ポールやベラスタ、タニアはリリアナが魔物襲撃の現場に居たとは知らない。それにもかかわらず、大怪我をしたペトラがベンの家に居るとリリアナが知っているのはおかしい。結果として、リリアナは簡単にペトラの見舞いにも行けない。
もう一つは、遠耳の術で聞いたベン・ドラコの様子だった。彼は転移陣に細工をした疑惑で勾留されたはずだ。疑惑が晴れて自由の身となっていれば良いが、そうでない可能性もある。十中八九、ベンは陥れられたのだろうが、それであれば彼が有罪になる証拠も用意されているのだろう。何かできることがあればと思うものの、そもそも今ベンがどこに居るのかもリリアナは知らない。転移すればベンの元に行くこともできるが、彼がどこに居るのか分からない以上、不用意な行動はできなかった。万が一、魔力を抑制する術が敷かれている王宮の地下牢に居るのであれば、リリアナもそこから逃れられなくなる。転移はできるだろうが、そこから先は打つ手がない。
呪術の鼠を放つことも考えたが、放ったところでリリアナに出来ることは現時点ではないはずだった。
「――寝ましょう」
色々と考えていても埒が明かない。少し早いが、リリアナは寝台に潜り込む。高級な寝具であるはずなのに、寝心地はあまり良くない。それでもリリアナは目を瞑った。眠れずとも、体を休めるだけで疲労具合は全く違う。そして、ゆっくりと意識は眠りの淵を揺蕩い始めた――その体を、紫色の靄が包み始めたことにも気が付かないまま。
リリアナの体を包む紫色の靄は、不気味な光を発しながら寝台の上に複雑な文様を刻み始める。リリアナを取り囲むように円を描き、円の中には流動的に形を変える文様と古代文字が浮かび上がる。その中でリリアナは悪夢に顔を歪め、額からとめどなく脂汗を流していた。燃え上がるように体が熱くなるが、固く閉ざされた瞳は開くことがない。
紫色の靄は、リリアナが王宮から戻った晩から毎夜、絶えずリリアナの寝台に現れていた。
*****
騎士団長トーマス・ヘガティと二番隊隊長ダンヒル・カルヴァートは、召喚状を片手に王宮の一室に入った。今回の魔物襲撃に関する会議への出席を要請されているが、二人とも全く良い予感はしていなかった。案の定、中に居た面々を見て顔を顰めたくなるのを堪える。ヘガティ団長はぴくりとも表情筋を動かさなかったが、ダンヒルはわずかに頬が痙攣した。
「騎士団長トーマス・ヘガティ、ならびに騎士団二番隊隊長ダンヒル・カルヴァート、参上つかまつりました」
ヘガティがぶっきら棒に告げる。二人を待ち構えていたのは、王太子ライリー・ウィリアムズ・スリベグラード、宰相を筆頭とした顧問会議の面々と魔導省長官だった。
二人は着席を勧められることもなく起立したままだったが、会議の進行役であるメラーズ伯爵は構わずに口を開いた。
「今回、貴殿たちを召喚したのは魔物襲撃に関して事実確認が必要となったからである」
ヘガティもダンヒルも口を開かない。無言で話の続きを待つ。メラーズ伯爵は二人を一瞥したが、すぐに手元の資料に目を落とした。
「魔物襲撃の現場に向かったのはヘガティ団長、二番隊二十五名、騎士見習い一名、魔導士二名。帰還した者はヘガティ団長、二番隊十三名、騎士見習い一名で相違ないか?」
「相違ありません」
短くヘガティが肯定する。メラーズ伯爵は頷いた。伯爵の目は鋭くその場に居る面々の様子を観察している。彼は魔導省長官のニコラス・バーグソンが抑えきれない不満を顔に出していることに気が付いた。恐らく魔導士二人が帰還しなかったことに不服があるのだろう。だが、メラーズ伯爵は気にせずに淡々と質問を重ねた。
「魔物は無事に制圧され、次いで浄化もされた。だが、どうにも不明な点がある。魔物の制圧と浄化は本当に騎士団が行ったのか?」
「――と、言いますと?」
疑惑の目がヘガティとダンヒルに向けられる。だが、ヘガティは肯定も否定もしなかった。ダンヒルと言えば、この場は全てヘガティに任せるつもりで沈黙を貫いている。表情も消して、自分の態度でヘガティをはじめ騎士団の立場を悪くしないよう努めるだけだ。
ヘガティの問いに答えたのは、苛立った様子のフィンチ侯爵だった。
「騎士団には聖魔導士は同行しなかったのだろう。あの規模の魔物襲撃を短時間で浄化しようと思えば、それは聖魔導士でしか行えん所業だ。魔物の制圧にしても、史上稀に見る規模だったと聞いている。それにもかかわらず、二番隊二十五人で――いや、団長と見習いもいたから二十七人だとしても、それっきりの人数で本当に制圧できたのか、と訊いているのだ」
その言葉を聞いたヘガティは、動揺するどころか嘲笑に似た表情を口角に浮かべた。
「なるほど。即ち、貴殿等は我々が職務を果たさなかった、もしくは職務を果たすために本来用いるべきでない手段を用いたのではないか、そう仰りたいということですかな?」
静かではあるが抜身の剣のような鋭さを持った声音に、何人かが気まずそうに顔を逸らす。一方で、憎悪を煽られたようにヘガティを睨む者も居た。そして、平然と成り行きを見守っている者もいる。声を荒げたのは、バーグソン長官だった。
「言い逃れは許されんぞ、トーマス・ヘガティ! 貴様らだけではあの規模の魔物襲撃を制圧できんことは明白だ、そして魔導省から派遣した優秀な魔導士二人も戻っておらん。口封じに見殺しにしたか!」
優秀な、という言葉を聞いたダンヒルの眉がピクリと動く。一人は新人であり、もう一人は同行しながらも一切魔術を使わなかった“腰かけ”魔導士だった。新人は最期まで健闘したものの、“腰かけ”の方は途中で自ら戦線を離脱した。どのみち帰り道で魔物に襲撃され命を落としたのだろうが、彼らを“優秀”と形容するなど笑止千万である。
――その上、言うに事欠いて“見殺し”とは。
ダンヒルは腸が煮えくり返るかと思った。十三人の同胞の命を、バーグソンは魔導士二人の命より軽いと言い切ったのだ。魔導士二人が聖魔導士であれば――否、少なくとも最低限の働きさえしてくれたら、彼らも王都へ戻れたかもしれなかった。そして、イーデンも騎士生命を脅かされるほどの怪我を負わなかったかもしれない。全ては仮定に過ぎないが、命を賭して戦った騎士に向かって無礼なことこの上ない言い草だった。ぎり、と歯を食い縛る。
脳裏に、今朝一瞬だけ目を覚ましたイーデンの姿が蘇る。未だに真っ青な顔でぐったりとしたイーデンは、普段の彼とは全く雰囲気が違った。目を閉じ意識を失った彼を見る時よりは遥かにましだったが、それでもダンヒルはショックだった。
イーデンはダンヒルが入隊した時からの付き合いだ。何度怒られ殴られたか分からない。確かに当時を思えば、ダンヒルは鼻持ちならない子供だった。平民出身で苦労し二番隊に入隊したイーデンにとって、能力もそれを生かすだけの出自も持った貴族のガキが生意気な口を叩いて斜に構えているのは腹が立っただろう。二番隊に配属された時も、イーデンは冷たく「お前は二番隊に相応しくない」と言い切った。そのダンヒルに初めて笑いかけて貰った時、認められたと嬉しくなった。二番隊の隊長はお前以外にいないと言われた時、ダンヒルはそれなら盟友になってくれと返した。
――イーデンは、身を挺しても自分を守ると分かっていたから。
自分のためにイーデンが死ぬなど嫌だった。甘いことを言うなと怒られそうだから決して口にしたことはなかったが、ずっとダンヒルはイーデンが自分のために傷を作ることが嫌だった。だから、そうならないように必死で鍛錬を重ねた。
イーデンが自分を守らなくても良いように。
そして、自分がイーデンを守れるように。
イーデンがくれたものを返したかった。だが、そう告げたダンヒルにイーデンは笑って「返すなら俺じゃなくてお前の後輩に同じことをしてやれ」と言った。そんなイーデンだからこそ、ダンヒルは心から慕わずにはいられなかった。
それなのに、今回とうとうイーデンはダンヒルのせいで死ぬところだった。大腿部に受けた傷は癒える可能性が低いという。そうなればイーデンは騎士を辞めなければならない。騎士団を退団すれば、イーデンは田舎に帰るしかない。そうなればもう、ダンヒルは滅多なことではイーデンに会えない。たとえ会えたとしても、騎士ではないイーデンは辺境伯嫡男のダンヒルをこれまでのように怒鳴ったりはしないだろう。礼儀正しく接するイーデンなど、見たくもなかった。そして何より、ダンヒルは騎士服に身を包んだイーデンが好きだった。その姿に、ずっと憧れていた。ずっと、イーデンのような魔導騎士になりたいと思っていた。いつまでもその背中を追いかけたいと思っていた。それなのに、イーデンは死ぬところだった。他ならぬ自分のせいで。
意識を取り戻したイーデンの枕元に佇むダンヒルを見て何を思ったか、酷く悪い顔色の中でイーデンは小さく口角を上げてみせた。そして、ぶっきら棒に掠れた声で呆れたように言葉を放った。
『なんて顔してやがるんですか、顔しか取り柄がないあんたが』
『――体力しか取り柄のないお前が、いつまで寝てるつもりだ』
あまりにもイーデンらしい言い草に絶句して、泣きそうになり、そしてどうにか言葉を返す。イーデンはふっと笑って再び目を瞑った。体力が失われているのだと分かった。生きているという安堵と、これから先彼が失うだろうたくさんのものを思うと胸が一杯になる。それでも自分が嘆いて良いことではなかった。その権利は、自分にはない。
辛うじて抑え込んだ激情が、バーグソン長官の言葉でぶり返す。その全てが怒りに変わり、魔力へと姿を移して暴れ出しそうになる。だが、堪えた。ここで激情に駆られても碌な結果にならないことは分かっている。強く拳を握りしめたダンヒルの横で、ヘガティが小さく「ほう」と呟いた。その冷たさに、ダンヒルの頭が冷える。ヘガティの声は、騎士団でも滅多に聞くことのないものだった。感情が一切削ぎ落された、しかしその裏には冷酷かつ苛烈な怒りが燻っている。
「魔物襲撃において騎士が命を落とすことは以前より良く知られております。実際に今回の討伐でも、二番隊はおよそ半数の十二名が殉職しました。残り十五名は帰還致しましたが、無傷の者はおりません。未だ回復しておらず、予断を許さぬ者もおります。“二十七名の騎士では制圧できない”と断言される長官殿は良く存じていらっしゃるようですので、言うまでもないかもしれませんが――」
副隊長のイーデンは一命は取り留め今朝方一瞬目を覚ましたものの、未だに意識が混迷している時間が長い。熱も高く、いつ回復するかは不明だ。死亡しなかったのが奇跡だが、それはひとえに転移直前に発生した浄化の光のお陰だった。浄化の光がなければ瘴気が体内に燻り、イーデンは帰還を待たずして命を落としていた。
ヘガティとダンヒルも、あの光がなければこれほど早く復活することはできなかった。
「魔物討伐には、我々騎士団もその命を懸けております。他人を護る余裕など皆無。自身を護ることが討伐に加わる最低条件であることは、長官殿も良く存じていらっしゃることでしょう。聖魔導士を王都防衛に残すとご判断をされた以上、我々には実力の伴った経験豊富な魔導士を付けて頂けることだと思っておりました」
しかしながら――と、ヘガティは言葉を止めない。その両眼は、射貫くほどに鋭くバーグソンを睥睨していた。
「派遣された魔導士二名の内、一名は己の身を騎士に護らせようとしか考えぬ、結界すらも張れぬ脆弱者、そしてもう一名は経験の浅い、治癒魔術すら扱えぬ新人魔導士。見殺しにしたのは我ら騎士団ではなく、御身であると心得られよ。更には、そのような魔導士を騎士団に随行させることで魔物制圧の成功確率を下げ、我々騎士団の命も危険に晒したのです。我々を責める前にまずは御身が考えを改め、その責を省みられるが宜しかろう」
押し殺した声は威圧するほど低く、殺気すら籠った眼光はバーグソンを震え上がらせるに十分だった。
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