15. 生誕祭の罠 8
※グロテスクな表現を含みます。
ヘガティ団長の腕を掴んだ年嵩の魔導士は、口角から泡を飛ばし顔を真っ赤にして団長を詰った。その額からは一筋の血が流れている。どうやら、魔物の攻撃を防げなかったらしい。
「こ、こんなこととは聞いていない! 何故誰も儂を守らん!」
団長は眉を顰める。何故、魔物討伐に随行する魔導士が騎士に守って貰えると思うのか。魔物襲撃の制圧に同行する魔導士は騎士たちと同じく戦う側の人間であって、守られるべき存在ではない。役に立たないのであればせめて足を引っ張らないように心がけて欲しいものだが、“腰かけ”魔導士は全く己の立場を理解していない様子だ。
あまりにも自分本位すぎて、相手をしてやろうという気にもならなかった。射貫くように冷たく見下ろす団長に怯んだのか、魔導士は思わずと言ったように腕を離して一歩後ろに下がる。しかし、ヘガティ団長に怖気付いたことが彼の矜持を傷つけたらしく、彼は震える指を団長に突き付けた。
「こ、この失態は上に報告する、追って沙汰を待つが良い!」
魔導士は捨て台詞を吐くと、踵を返して騎士団から離れる。だが瘴気の中を一人で戻るのに不安があったのだろう。途中でぴたりと足を止めて肩越しに振り返ると、額に見事な青筋を浮かべ「誰か付いて来んか!」と喚く。勿論、動く者はいない。騎士たちは冷たく男を一瞥し、そして新人の魔導士は名前を呼ばれたくないのかそっと移動して騎士の一人の影に隠れた。
「も――申し訳ありません」
蚊の鳴くような声で、若い魔導士が謝罪する。さすがに居た堪れない思いをしているのだろう。気の毒に思ったのか、騎士の一人が、励ますように彼の肩を叩いた。
一方で年長の魔導士は、誰にも相手にされないことに更に激昂した。「不敬な蛮族め、後悔しても知らんぞ!」と肩を怒らし、騎士たちに背中を見せて歩き始める。オースティンは横目で隣に立つイーデン副隊長を見やった。その視線に気が付いたイーデンは、冷たい口調で低く答える。
「放っておけ。どのみち、あれでは死ぬ」
魔物の傷は一見かすり傷でも瘴気が残っていることが多い。適切な治療をせず放置していれば、傷口から毒素が体内に入り込み体は弱る一方だ。つまり一人で元の道を辿っても、途中で魔導士の男は歩けなくなり魔物に食い殺される。仮に運よく傷口に瘴気が残っていなければ、優秀な魔導士は魔物から身を守ることも撃退することもできるだろう。だが“腰かけ”魔導士にそれはできない。そもそも、そのようなことが出来れば早々にこの場から離脱しないはずだ。
魔導省の誰が騎士団に随行するよう彼を派遣したのかは分からない。だが、少なくとも“失っても魔導省としては困らない人選”なのだろうことが薄々感じられた。能力が足りないだけでなく、魔導省内での人脈形成にも難があったに違いない。あの態度では当然だろうと、その場にいる誰もが同じ感想を抱いた。ある意味、同行させられることになった若手の魔導士が気の毒だ。
騎士たちは無言で魔物襲撃の中心部に向け歩き出した。中心部に近づけば近づくほど、一層瘴気は濃くなる。瘴気は中らなくとも人間に影響を与える。たとえ結界を張っていても、慣れない者や気の弱い者は瘴気に囲まれているという事実だけで精神的に耐えられなくなる。特に今の彼らは、瘴気の薄い場所から濃い場所を選んで進んでいるのだ。死地に赴く状況は、並大抵の精神力では耐えられない。そしていつ魔物に襲われるか分からない状況の中、常に四方を警戒しながら緊張を保てば体力も削られていく。
案の定、最後尾を付いてくる魔導士の新人はどんどん顔色が悪くなっていった。本来魔導士はその身を守るため、そして討伐隊全体に結界を張るため集団の中央に陣取る。だが、既に新人魔導士の体力は尽きかけていた。途中で彼はがくりとその場に膝を突く。
「おい、大丈夫か」
大丈夫ではないだろうと思いながら、気が付いた騎士の一人が声を掛ける。魔導士は答えようとしたが、耐え切れずに口を押さえた手の隙間から嘔吐した。そんな若い魔導士を一瞥した騎士たちは、もはや自分たちの周りに結界を張れとは言わない。そんなことをすれば、彼はあっという間に力尽き倒れてしまうだろう。この場で倒れることは、即ち死を意味する。
「大怪我をした時に治癒魔術を掛けてくれたら御の字だな」
魔導士に聞こえないように、一人の騎士が気の毒そうに呟いた。新人の魔導士が、魔導省によって選ばれた生贄だということは皆薄々察している。真面目で空気も読めるが、魔術の腕は今一つだ。先ほど単独で帰還を目指した男とは違った意味で、不要と判じられた存在なのだろう。決定的な違いは、年嵩の魔導士はそれでも自分の価値を盲目的に信じていたが、新人の魔導士は薄々自分の扱いに気付いている節があることだ。おどおどとした様子は、自信のなさを裏打ちしていた。
だから、周囲の誰も咎めない。魔物討伐自体が新人向けではないが、今回の任務は今まで経験した中でも最も厳しい仕事だ。だからこそ、誰一人として彼が治癒魔術を掛けてくれるだろうという期待は一片たりとも持っていなかった。嘔吐するほど体調が悪い彼は、自分の身を守るのが精一杯だろう。そして自分を守るための結界は張れても、魔物襲撃を制圧するために必要な浄化の術は十分に発動できない。
つまり、この討伐隊こそが死ぬための部隊であるということだ。彼らは魔導省と、そして政を取り決める貴族たちに切り捨てられた存在だった。この場にいる誰もが理解していた。だが、だからといって討伐を中止することはできない。上層部に対する反発心だけで討伐を取りやめたところで、王宮でぬくぬくと守られている者たちには何の打撃も与えられない。犠牲になるのは罪もない民たちだ。民を見殺しにすることは、彼らの精神と矜持に真っ向から反することだった。
だが騎士たちも余裕を失いつつある。
歩みを進めれば不定期に魔物が現れる。魔物は一体だけの時もあれば、群れを成している時もあった。魔物襲撃であれば通常、群れは一つだ。だが、最近生じている魔物襲撃では複数の群れが同時に近場で発生し、一つの魔物襲撃であるかのように見える場合があった。今回もそれと同じだ。
騎士団長と二番隊、そしてオースティンは着実に魔物を屠って行くが、瘴気は一向に無くならない。先の見えない討伐は、ただでさえ瘴気で削られる精神力を摩耗させていく。だが、鍛えられた騎士たちは弱音を吐かない。
騎士たちは健闘していたが、不十分な戦力で送り出された討伐隊には限界が近づいていた。それでもどうにか足を進めた彼らは森の外れに差し掛かる。あともう少しで中心部に辿り着くと思われた――その瞬間、ざわりと空気が揺れた。
これまでとは比べものにならないほど多くの魔物が真っ黒な瘴気の中から続々と姿を現わす。魔物たちは容赦なく次々と瘴気に塗れた魔力をぶつけて来る。人間が使う魔術よりも純然たる力――それは魔力そのものだった。騎士たちの顔色が変わる。これまでの魔物とは格が違う。この場に現れた魔物たちが放つ攻撃は、圧倒的な破壊力を持っていた。
「防御全開!!」
ヘガティ団長が叫ぶ。咄嗟に各々が己の持つ力を最大限使って防御結界を張る。そうしても魔物たちの攻撃を防げるかは賭けだった。魔導士も慌てて騎士たちを守ろうと魔術を繰り出す。だが、彼の詠唱は間に合わなかった。
「うぁあああああ!!」
魔導士の悲鳴が響く。直後にぐしゃりと骨が砕ける音がして、頭部を失くした彼の体は地に沈み土に真新しい血の染みを残した。どくどくと傷口から大量の血が流れ出る。
その様を目にしてしまったオースティンは無理矢理視線を剥がし、魔物たちに注意を向けた。
「くっ――そ!」
ダンヒルが歯を食い縛り剣を振るう。中距離の魔物に向けて風魔術に乗せた火球を放った。被弾した魔物たちは悶え苦しみながら断末魔を上げ、焼け焦げた肉塊へと変わる。一方で瞬間移動して騎士たちに迫って来た魔物は剣で斬り捨てた。臭気で鼻がもげそうになりながら、騎士たちは必死に剣と魔術を駆使し戦う。完全に敵味方が入り乱れ、陣を組むことはできない。魔物はその攻撃力と数で騎士たちを圧倒していた。
オースティンも風魔術と剣で必死に魔物に対抗する。だが、地上を駆ける魔物を風魔術で攻撃すれば、今の彼の力量では味方を傷つける可能性があった。致し方なしに空から襲ってくる魔物に標的を絞る。副隊長のイーデンが地上を駆ける魔物を倒しながら、それで良いと言うように一瞬オースティンを横目で見やって頷く。だがオースティンはそれに気が付く余裕もない。
ヘガティ団長は、舌打ちを漏らして剣を地面に突き刺した。口中で何事かを唱えた次の瞬間、魔物の足元だけ土が勢いよく盛り上がる。その勢いは更に速度を増し、持ち上げられた魔物は抵抗する間もなく他の魔物に全力でぶつけられた。ぶつかり合った魔物は破裂し細かな肉片に変わる。同時に、騎士たちを傷つけないよう合間を縫って吹き荒ぶ風は刃となって魔物を二つに切り裂いていく。魔術の技術だけで言えば騎士団の中でも一、二を争うと言われた通り、ヘガティ団長の魔術は繊細な魔力の調整を要求するものだった。
だが――それが、魔物たちの罠だった。騎士たちが周囲に迫る魔物の対処に気を取られた結果、迫り来る本当の脅威への対処が遅れた。彼らが認識できないほどに小さな無数の魔物が視界を埋め尽くす。それはさながら蝗害だった。火で焼き尽くそうにも、風で一ヵ所に纏めようにも、数が多すぎて捌き切れない。下手に魔術を使えば、魔物と入り乱れ戦っている仲間を巻き込んでしまう。
それでも、彼らは諦めなかった。諦めることは許されていなかった。自分たちが膝をついてしまえば、この巨大な魔物襲撃がどれほどの被害を国に齎すかなど、考えるまでもなかった。
「ぐ――っ、」
「イーデン!?」
背後で聞こえた副隊長の呻き声に、火魔術で無数の魔物を焼き払っていたダンヒルが叫ぶ。イーデンはダンヒルを背後から襲おうとした魔物に対峙し斬り捨てたものの、その一瞬を見逃さなかった別の魔物に左足の大腿部を噛み千切られ、地面に膝をついた。傷口から瘴気の毒素が侵入したのか、顔だけでなく手足も真っ白になっている。魔物によって受けた傷は、一見普通の傷に見えても全く種類が違う。傷口から侵入した毒素はたちまち全身を巡り、あっという間に生命を奪ってしまう。傷が深ければ尚更その影響は深刻だ。早急に傷口を浄化すれば一命を取り留められる可能性はあっても、浄化が遅れたら助かる見込みはなかった。そして今、イーデンの傷口を浄化できる者はいない。
イーデンの額からは冷や汗が滴り落ち、目は虚ろに彷徨う。急激な状態の変化に、ダンヒルの心臓が冷えた。
「イーデン、しっかりしろ!」
ダンヒルは声を掛けるが、分かっていた。イーデンは、もう助からない。この状況では、イーデンを連れ帰ることすらできない。数分もすればイーデンの呼吸は止まってしまう。
――イーデンはダンヒルを守らなければ怪我をしなかった。
ずっとイーデンはダンヒルの傍に居た。カルヴァート辺境伯の嫡男と平民出身という間柄ではあったが、単なる隊長と副隊長という間柄を超えて、彼らは盟友だった。最初はダンヒルを貴族の坊ちゃんと呼び反目していたイーデンは、いつしかダンヒルを常に立てるようになっていた。調子者のダンヒルの傍で冷静沈着に構えてくれるイーデンが居たからこそ、ダンヒルは若くして二番隊隊長を務めることが出来た。心が挫けそうになっても、イーデンの言葉を聞けば前を向くことが出来た。危険な場所では、イーデンは己の身を盾にしてもダンヒルを守ろうとした。やめろと言っても、それが自分の仕事だと言って譲らなかった。
彼の、イーデンの体には、ダンヒルを守って出来た傷が数多残っている。
ダンヒルは唇を噛み締めた。鉄の味が口中に広がる。しかし、感傷に浸る暇はない。魔物は次から次へと姿を現し攻撃の手を休めない。そして、ダンヒルにとっては一瞬の動揺が致命傷を誘った。
「ぅ――っ」
背中に激痛が走り、ダンヒルの全身から力が抜ける。剣を手放さなかったのは、彼の騎士としての矜持だった。
「――隊長っ!」
オースティンが叫ぶ。
「待て、オースティン!」
団長が止める。だが、オースティンはダンヒルに向かって走り出してしまった。
オースティンにとって、ダンヒルは尊敬できる存在だった。彼の背中にいつか追いつこうと、そんな憧憬を胸に抱いていた。荷物は一人で抱え込むなとオースティンに声を掛けたことから始まり、いつも気にかけてくれていた。ライリーとの関係に悩むオースティンを、お勧めの飯屋があるからと食事に誘ってくれた。そんな相手は、オースティンにとっては初めてだった。
魔術を剣に乗せて戦うことを始めに教えてくれたのは、ダンヒルだった。ニシンのシチューを食べながら、「魔導騎士って手もあるぞ」と笑って言った。魔導騎士なら、実力もあると認められるし、最短期間で王太子の近衛騎士になれるかもしれない――そう、教えてくれた。
――――ダンヒルは、オースティンの憧れの人だった。
魔物が、オースティンに牙を剥く。狼の体と烏の翼、蛇の頭を持つ魔物が、毒をまき散らしながらオースティンを頭から喰らおうと大口を開ける。俊敏な動作だった。オースティンは気配に気が付き防御の姿勢を取るが一瞬だけ遅かった。その遅れが致命傷だ。食われる、そう思った瞬間にオースティンの視界は暗く翳った。
「――!?」
折れた毒牙がオースティンの左肩を貫通する。激痛が走り全身から血の気が引く。体から力が抜ける。地面に崩れ落ちて意識を失いそうになりながらも、オースティンは目を極限まで見開いた。
信じられなかった。
「だ――、」
団長――?
オースティンの言葉は声にならない。オースティンを庇ったのか、背中を真っ赤に染めたヘガティ団長が倒れていた。オースティンを襲った魔物も絶命しているが、蛇の頭部には団長の剣が突き刺さったままだ。
「ぅ――、」
低く唸りながら、ヘガティ団長が体を起こす。しかし力が入らないのか、顔に脂汗を滲ませながら歯を食い縛っていた。倒した魔物は多い。それでも、魔物はまだ――居る。戦わねば、全員が死ぬ。だが戦える騎士はほとんど残っていない。
ヘガティは、一秒にも満たぬ間に結論を下した。
「撤退――――」
撤退する、と。その結論をここで出すことは、彼の矜持が許さなかった。最後まで任務を果たしたかった。魔物襲撃を食い止めたかった。だが、立っている騎士は僅か数名。倒れている騎士の方が多い現状で、これ以上の進軍は不可能だと断じた。
最後の力を振り絞って、まだ息のある騎士を全て撤退させるよう、転移の術を詠唱する。手袋に刺繍された転移陣が、騎士団長が最後に振り絞った魔力を反射して金色に光り始める。
詠唱が終わる、直前。
【古より伝わりし星の光の加護、月の灯の澄明、太陽の炎の裁定】
――幻が、聞こえた気がした。
世界が真っ白に染まり、そして瘴気は――――――晴れた。
瘴気を浄化するその術は、騎士たちの傷から体内に沁み込んだ瘴気の毒素さえも浄化する。呼吸が止まりかけていた、本来であれば撤退の対象外だった騎士たちが息を吹き返す。だが、一瞬の運命の悪戯を認識する時間は誰にもなかった。転移の術を使おうと詠唱していた騎士団長ですら、違和感を覚える余裕もなかった。
ほんの僅かな時間で、転移の術は息を吹き返した騎士たちの体を目に見えぬ蔓で捕える。その瞬間、魔物討伐に出撃した騎士たちの姿は現場から消えていた。
10-4
15-5