15. 生誕祭の罠 3
王太子の生誕十周年を祝う宴は、つつがなく開始された。リリアナはクライドと並んで筆談を交えながら歓談していたが、近づいて来た知り合いとクライドが話し始めると一人壁際によって窓の外を眺めながらレモネードを味わう。
会場の外には騎士たちが警備にあたっていた。魔導士たちは警備の役目を負っていないようで、揃いのローブと徽章を付けて話に興じている。どうやら今回の生誕祭に合わせて新調したようだ。人によって微妙に意匠が異なるが、一様に中央部分には宝石がはめ込まれている。恐らく相応の費用が掛かったに違いない。
リリアナは、経費の流れが不透明だと言って魔導省での横領の調査に時間を割かれていた副長官の顔を思い出した。ただでさえ雑多な仕事をさせられている中でさらに余分な仕事をする羽目になった彼は、非常に不満気だった。新しいローブと徽章を受け取った時、彼はどのような感想を抱いたことだろう。未だ長官が無事に暮らしていることがリリアナには不思議である。
視線を巡らせれば、魔導省長官ニコラス・バーグソンは会場の中央付近でフィンチ侯爵を捕まえて何事か楽しそうに話していた。
(情報収集には持って来いの場なのですけれど)
だが、残念なことに魔導士がこれだけの数居ると、遠耳の術を使って盗み聞きするのも憚られる。魔術を使ったと気付かれない可能性がないとも限らない。だから、リリアナは近場に立つ貴族たちの会話に聞き耳を立てた。
「――最近はタナー侯爵も引退間際のようですな。ご子息がご令嬢を連れて、社交界に積極的に顔を出しているようですよ」
「タナー侯爵家令嬢は確か、王太子の婚約者候補でしたな。ほら――あそこにちょうどいらっしゃいますよ。ご子息より十四ほど年下でしたかな。後妻の娘ということでしたが、随分と仲が宜しいようだ」
「可愛らしいご令嬢ですなあ。社交界デビュー前でしたか。それでしたら今日も、前半だけ出てお帰りになられるのでしょうな。ご子息は後半も出られるのでしょうし、その時に少しお話をしてみましょうか」
リリアナはちらりとそちらへ視線をやる。三人の貴族はいずれも伯爵だ。先王の時代にあまり目立った功績を上げられなかったはずだ。彼らは全員野心家らしく、自分たちよりも爵位が上の貴族と見れば尻尾を振って近づいて行く。だが、それを嫌がる貴族も相当数いた。そんな当主たちに邪見にされる彼らはたいてい、社交界での噂に疎い令息や令嬢たちを標的にする。実際、クライドも彼らを極力遠ざけているようだ。もし声が出ればリリアナも彼らの餌食になっていただろうが、幸いにも未だ“リリアナ・アレクサンドラ・クラークは話せない”と思われている。リリアナの存在に気が付いているはずだが、彼らはたとえ王太子の婚約者候補といえど声の出ない令嬢には近づこうとはしなかった。
(野心家といっても、領地経営の才覚も商売の先見もないようですけれど)
彼らが領地の収入を増やそうと様々なことに手を出しているのは、社交界でも広く知れ渡っている。だが物になった商売は未だ一つとしてない。特に背が高い一人は借金が嵩み、じきに爵位と領地を返還するのではないかとさえ思われている。そんな彼らの唯一の特技が、高位貴族に対して媚を売ることだった。人を見る目がある高位貴族は彼らを相手にはしないが、噂を知っていても口の上手さに惑わされ煮え湯を飲まされる者も多々いると聞く。彼らが今度の寄生先として目を付けたのが、タナー侯爵家の次期当主なのだろう。
尤も、これらの情報はリリアナが直接聞き取ったものではない。王宮や様々な夜会に潜入させている鼠が持ち帰った情報だ。“影”を手に入れられていない現状で、呪術を駆使した鼠はリリアナにとって重要な情報元である。しかも、呪術だからこそ金もかからなければ二重間諜の危険性もない。念には念を入れて、発見された時に自爆するよう術を組んでいるから、術者がリリアナであることも気付かれる可能性は低かった。
(――今日は鼠も放っておりますから、今は無理に遠耳の術を使わなくても宜しいでしょう)
そんなことを考えていると、ふとリリアナは周囲の気配が動いたことに気付いた。顔を上げると、ローブを纏った一人の男が近づいて来ている。男からは魔力が一切感じられない。気配を消す魔術を使っているのだろう。目を瞬かせたリリアナは、すぐにその人物の正体に気が付いた。小さく笑って、会場から顔が見えないよう窓側を向く。会話するには少し遠い距離に立ち止まったその人は、わずかな風魔術に乗せてリリアナの耳まで声を届けて来た。
「王太子の婚約者候補が一人で壁の花なんて、良いの?」
リリアナも同じく風魔術に声を乗せる。
「まあ。ベン・ドラコ様、貴方も今はお仕事の最中なのではなくて?」
「十分こき使われてるからね、少しくらい抜けたって文句を言われる筋合いはないよ」
微かに届く声は疲れが滲んでいて、リリアナは内心苦笑する。どうやらリリアナが想像している以上に、魔導省副長官は働かされ続けていたらしい。
「今日はペトラは王宮ではないのですか?」
「うん。一昨日に魔物襲撃があったでしょ、あれの後始末に駆り出されてるよ。本当はもう少し人数を割きたかったんだけど」
あんなに少人数では危険すぎる、と彼は不機嫌な声音で吐き捨てた。
最近の傾向を見ると、魔物襲撃の前後でその近辺に魔物が出現している。立て続けに同じ場所で魔物襲撃が起こる可能性もあると言う指摘は、騎士団と魔導省の一部から出ていた。だが最終的には、魔導省は生誕祭に重点を置くと決定したらしい。生誕祭には王侯貴族が集まるため、護衛を厚くするという意味ではあながち間違ってもいない。だが魔物襲撃は災害だ。不十分な人員と装備で出向けば、更に被害を拡大させる恐れもあった。
「一緒に行った連中がね――力のない奴らだから、ほとんどミューリュライネンが一人で対応しなきゃいけないようなものだよ。むしろ、あいつらは助けになるどころか足を引っ張るんじゃないかな」
まあ彼女のことだからいざとなれば見捨てるだろうけどね、と呟くベン・ドラコに頷いてみせながらも、リリアナは正直な気持ちを口にした。
「それはさすがに、裏を感じてしまいますわ」
「まあ、ね」
苦々しい声音ながら、ベンは曖昧に言葉を濁す。恐らくリリアナの年齢を考慮して口を閉ざしたのだろうが、彼が何を言いたいのかリリアナはほぼ正確なところを悟っていた。
――魔導省は、ペトラを排除したがっている。
そうでなければ、危険な任務にばかり狩り出すはずがない。以前は閑職に追いやられていたらしいが、少し前から彼女の任務は危険が伴うものばかりになった。それも、ベンが応援物資を補給したりしてやらねば命に関わりかねないものばかりだ。だが、ベンも毎回助けられるわけではない。彼もまた、副長官としては不相応な内容の仕事を押し付けられているようだった。
今回もその一環だろう。ベンを王宮の護衛として留め置くのはともかく、魔物襲撃の後始末にペトラを行かせたのは決して彼女の実力を信用しているからではない。そこで死んだとしても問題ないと上が判断しているのだ。本来であれば、生誕祭の場には長官か副長官のどちらか一方が居れば十分であるはずだ。
「ベン・ドラコ様。貴方はこの生誕祭、無事に終わると思われます?」
「――どういう意味かな?」
ふと胸に沸き起こった不安のまま尋ねれば、ベンは訝し気に質問を返して来た。リリアナは整った眉を僅かに寄せる。胸騒ぎと全身の毛が震えるような違和感は、リリアナの警戒心を呼び起こす。だが殺意を感じているわけではない。ただ危険が迫っているような気がしてならないだけだ。
それをどう説明すれば良いのか分からず、リリアナはただ「胸騒ぎがするのです」とだけ説明した。ベンは沈黙する。そして、「分かった」と頷いた。
「もう一度会場を調べてみるよ。何かが分かるかもしれない」
「ええ。わたくしに出来ることがありましたら、お声掛けくださいな。貴方に頂いた魔導石は持って来ております」
「それは助かる。僕は自由に動けないことも多いからね」
リリアナは以前、ベンにもらった魔導石も持って来ていた。これさえあれば、遠くに居るベンとも連絡を取り合える。非常事態にしか使う機会はないだろうが、あった方が安心だ。
ベンがその場から何気なく立ち去った後、鐘の音が鳴り会場が沸き立った――スリベグランディア王国王太子ライリー・ウィリアムズ・スリベグラード、そして国王代理として大公フランクリン・スリベグラードが会場に姿を現した。
*****
貴族たちの挨拶を順に受けたライリーは疲れているように見えた。リリアナはクライドと共に、ライリーへと挨拶する。父親であるクラーク公爵は今回主催側に立っているため、挨拶の列には並んでいない。冷たい父親の視線に晒されながらも、リリアナは変わらない微笑を湛えていた。声の出ないリリアナの代わりに、クライドが祝いの口上を述べる。その横顔が緊張を孕んでいて、リリアナはそっと笑いを堪えるため俯いた。クライドが緊張しているのは、王太子のせいではなく、明らかにクラーク公爵を意識しているからだ。
ライリーが他の貴族たちと変わらぬ態度でクラーク公爵の兄妹に対応してくれたため、二人は早々に列から外れた。父親の視線から離れた場所に立ったクライドは、ほっと息を吐く。リリアナの視線に気が付いたのか、横目でリリアナを見下ろしわずかに苦笑を漏らした。
「駄目だね、どうも――父上を前にすると緊張してしまうんだ」
リリアナは微苦笑を浮かべて緩く首を振った。「致し方ないことと存じますわ、あのお父様ですもの」というリリアナの無言の台詞を間違いなくクライドは読み取り、眉を下げる。
「本当はもっとしっかりしなきゃ――とは思っているんだけどね」
そう言われても、リリアナには答える術がない。だが、兄が気落ちしていることは分かる。ライリーも一度評していたが、今目の前にいるクライドは心優しい。ゲームの“腹黒いクライド・ベニート・クラーク”の片鱗も殆ど見えない、他人を慮ることのできる少年だ。少し考えて、リリアナは励ますようにクライドの腕を優しく撫でた。クライドは予想外だったのか目を丸くするが、すぐに嬉しそうに破顔する。
「ありがとう」
リリアナは首を振る。クライドに視線を向けるが、視界の端ではクライドの笑みに見ほれた令嬢たちが注目していることに気が付いていた。極力人目を避けたいリリアナとしては煩わしい。
その容姿とは裏腹に、リリアナは自分の気配を消すことに長けていた。魔術や呪術を人知れず使うため身に着けた特技だが、だからこそ他人の視線は鬱陶しいことこの上ない。本音を言えばクライドから離れたいが、宴が始まる前に知人たちと交流を済ませたクライドはまだリリアナから離れるつもりがない様子だった。
「食事は摂った?」
クライドは自分に向けられている周囲の視線に気が付いていないのか、後方に用意されている料理に顔を向けた。リリアナは首を振る。元々、それほど食事を摂る性質ではないから、今日の宴でも軽くサンドイッチを食べれば十分だと思っていた。しかし、リリアナとほとんど食事を共にしたことがないクライドはリリアナの事情を知らない。リリアナの腕を引いて後方へと向かう。
用意された食事は豪勢だった。既に貴族たちが手を付けているせいか、全体的に目減りしている。しかし構わず、クライドが手早く料理を取り分けてくれた。リリアナに好き嫌いを尋ねることも忘れない。リリアナにしては多い一皿だったが、大人しく礼を言って受け取った。クライドも自分用に料理を取り分け、嬉しそうにリリアナを見下ろす。
「よく考えたら、僕はリリーの好き嫌いも知らないなと思っていたんだ。今日、知ることが出来て嬉しいよ」
リリアナは曖昧に微笑み、誤魔化すように果物を口に入れた。
クライドの好みを知らないのはリリアナも同様である。兄の趣向として理解しているのはあくまでもゲーム知識に基づいた情報であり、実体験に基づいた内容ではない。だが、スポンジケーキが好きだというゲームの情報は正しかったようだ。
(それでも、わたくしはそこまでお兄様の御趣向を知りたいとは思っておりませんでしたわ)
クライドとは違う自分の感覚に気が付き、リリアナは目を伏せる。だが、クライドはリリアナが照れていると思ったようだ。優しく頭を撫でてくれた。リリアナは落ち着かずに視線を彷徨わせる。口にしたローストビーフに掛けられたブラウンソースの味がしない。
噛み応えの悪さに若干の不快感を覚えながら咀嚼していると、「あら?」という貴婦人たちのざわめきが聞こえて来た。リリアナは顔を上げる。声を上げた貴婦人たちは、揃って窓の外を見ていた。クライドも顔を上げ、貴婦人たちの視線を追う。
「――あれは、」
大半の貴族たちは気が付かなかったようだが、一部の貴族と魔導士たちは直ぐに気が付いた。そして、リリアナとクライドも――その正体を知る。
(瘴気――――!)
竜巻のように天空へ突き抜ける黒い靄――瘴気が、王宮から見えている。幸いにも王都からは少し離れているが、それでも近いことに変わりはない。下手をすれば魔物たちは王都にその牙を剥く。そして、はっきりと見える瘴気の濃さは魔物襲撃の規模を知らしめていた。
「王都に結界を張れ――――――――ッ!!」
誰かの声が遠くに聞こえる。
史上最悪かつ最大規模の魔物襲撃。それは、恐怖の暗黒時代を思い起こさせる。会場は、一瞬にして恐慌状態に陥った。