14. クリムゾンと商人 10
夕食の席で、リリアナは忸怩たる思いを抱えていた。
(――失敗した気が――非常に、強く、致しますわ)
何がと言えば、ライリーへの対応である。視察に関して感想を求められ、素直に思うがまま特許と不正競争防止に関する私見を述べた。勿論、前世の知識であるため現状には即さない部分も多い。その点は大いに変更したが、基本的な考え方は変わらない。
これまでも茶会の度に色々な話をして来たが、今回の会話が決定的だったような気がする――ライリーがリリアナに向ける態度が、確実に変わった。元々他者を尊重する態度を崩さない少年だったが、リリアナに対しては更に尊敬が加わったと思うのは、リリアナの思い過ごしではないだろう。それは即ち、王太子妃に一歩近づいたという意味でもある。
(貴族の義務には共感いたしますし、理解しやすいですからその規範に従っておりましたが――未だこの世界では貴族の義務という観念が一般的ではないことを失念しておりましたわ)
王太子妃としての資質を見せつけてしまえば、婚約者候補から脱落することもできなくなる。多少は加減しなければ、他の候補たちから抜きん出てしまうのは間違いない。だからと言って、みすみす国や民にとって不利益となる状況を見逃すこともできない。声が出ないことは婚約者候補としては重大な瑕疵であるはずだが、果たしてそれだけで足りるだろうかと、リリアナは微笑の下で考える。もしかしたら、もう一つくらい欠点を付け加える必要があるかもしれない。だが、あまりにも重大な瑕疵であってはならない。塩梅が難しいが、ゆっくりと考えれば何かしら見つかるだろう。
それに、現時点ではライリー本人にも力はない。彼がリリアナを婚約者にしたいと言ったところで、有力貴族たちの同意がなければ難しい。
初心を忘れないよう自らを戒めたリリアナの耳に、祖母バーバラの声が届いた。
「エイブラムも、今では想像もできないかもしれませんけれど、恋愛結婚でしたのよ」
「あの宰相が、ですか」
ライリーが驚いた声を上げ、咄嗟にリリアナは顔を上げる。見ればクライドも驚きに目を瞠っていた。
祖父は酒が回ったのか顔をほんのりと赤く染め、そして祖母も機嫌よく笑みを零していた。
「ええ、そうですわ。ベリンダが良い、ベリンダ以外は要らないとさえ言っておりましたの。ベリンダは最初は嫌がっておりましたけれど――エイブラムが何度も求婚して、その末に婚約となりましたのよ」
ベリンダはリリアナの母の名前である。そして、祖母が口にしたのはあまりにも意外な話だった。恋愛や熱愛ほどあの父に似合わない単語はない。その上、今の父母はほとんど会話がない。共に過ごす時間も皆無に等しいのではないだろうか。母も父のことを極力避けているように見えるし、父も母には構っていない。
先ほどまでリリアナを苛んでいた後悔は驚愕に押し流され、リリアナのカラトリーを持つ手は止まっていた。
「それほど――熱愛だったのですか」
「ええ、エイブラムの方が熱を上げておりましたけどね。ベリンダも憎からず思っていたようでしたわ」
だが、ここでライリーには疑問が湧き起こったらしい。首を傾げて「昨日」と口を開いた。
「クラーク公爵家嫡男は一人を唯一と定める、と仰っていましたよね。当主は王をその唯一とする、と。ですが、たとえば奥様を愛した場合――その“唯一”は奥様のものとなり、矛盾してしまうのではありませんか?」
「まあ」
バーバラは楽しげに笑い声を立てた。歩き始めたばかりの幼子がする可愛らしい質問を耳にした時のような反応だったが、あっさりと答えを口にする。
「その唯一は間違いなく“王”に捧げられますわ。唯一には敬愛も尊敬も憧憬も献身でさえ、ありとあらゆるものを捧げるというもの。ですが、人の心とはそれだけではございませんでしょう。事実、私は夫からこの上のない愛情をいただいておりますし、そして夫が王のためにその身を散らしても、誇らしいと思うことこそあれ恨みに思うことなどございませんわ」
「――なるほど」
ライリーは頷くが、納得したようには見えない。リリアナはそっと視線を兄に移した。一番家族との接点が多い彼は、バーバラの言葉にはライリー以上に違和感を覚えている様子だ。一瞬ではあるものの、はっきりと顔を顰めていた。
(お兄様、表情に出ていらっしゃいますわよ)
リリアナは内心で指摘するが、幸いにもリリアナ以外はクライドの表情に気が付いていない様子だ。
バーバラはそれでは良くとも、ベリンダは――母はどうなのか。人の心は決して決めつけられるものではない。バーバラのように、夫の“唯一”が自分でなくとも愛を感じられたらそれで良いと考える人もいる。一方で、それが公爵家の習わしと言われても“唯一”が自分ではないことに腹を立て嘆く人もいるに違いない。クラーク公爵に対する母の態度を見れば、ベリンダは後者であるような気がしてならない。
(ずっと愛を囁かれ求められ結婚した相手が――実はその全てを“王”に捧げていると知った時、絶望を覚えるものかしら)
母の心境を考えるが、リリアナは首を振って早々に諦めた。恋愛感情ほどリリアナに向いていない題材はない。しかし、垣間見た恋愛小説の内容を振り返るに、もしベリンダが主人公の女性たちと同じ感性の持ち主であるならば、自分が二番手であることに耐えられないのではないかと思えた。恐らく祖父母にとっても父にとってもそれは当然のことで、妻を二番手としているとは露ほども思っていないのだろうが、ベリンダがそう受け取っているのだと考えると父母の間に流れる不和も理解できる。
だが、いつまでもクラーク公爵夫妻の話題を続けるわけにもいかない。すぐに領地の経営に関する話題に移り、ライリーは視察中に気になっていたという疑問を口にした。
「視察している中で移民がちらほらと見えましたが、クラーク公爵領では移民が増えているのでしょうか」
「“北の移民”ですな」
答えたのは祖父のロドニーだった。不機嫌に目を細めている。
「息子は移民も登用しようと躍起になっているようですがな。どこまで使えるか、分かったものではない。染色特区でも雇用させようとしていましたが、機密情報に関わるような仕事には携わらせていません。まあ、関わったところで奴らの頭では理解もできんだろうし、本当なら毛皮産業でもさせれば良いと思うが」
最後は吐き捨てるような声音だった。毛皮製品を作る仕事は忌避されており、染色以上に働く場所が限定されている。ロドニーは“北の移民”がクラーク公爵領に流入することに不快感を覚えている様子だった。
「移民の数はどの程度増えているのでしょう」
「移住は制限するよう言っていますからな。具体的なことを知りたければ、息子かフィリップに訊けばはっきりと分かるでしょう」
フォティア領の屋敷に居る執事のフィリップは家宰の役割も担っている。どうやら移民の状況についても把握しているらしい。公爵を退いたとはいっても、ロドニーは公爵領の運営にある程度影響力を持っているのだろう、簡単に言ってのけたロドニーに対し、ライリーは素直に「わかりました」と答えて引き下がった。だが、その両眼には訝し気な光が浮かんでいる。
ライリーが何かを疑っているように見えたが、リリアナには見当がつかなかった。内心で首を捻るが、尋ねることはできない。祖父母や兄に聞かれるわけにもいかないし、リリアナが興味を持っているとライリーに知られるわけにもいかなかった。あまりにも首を突っ込みすぎると、婚約者候補から外れられなくなる可能性が高くなる。しかし、リリアナは“北の移民”とクラーク公爵領という二つの単語を、脳裏に刻み込んだ。その二つの関係性に心当たりはないが、“北の移民”という言葉には嫌になるほど覚えがある。
ジルドと共に助けたケニス辺境伯騎士団のイェオリという少年のことを、リリアナは思い出していた。
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夕食を終えたライリーは、ロドニーとバーバラ、そしてリリアナと別れた後、クライドを一人呼んだ。
「クライド、頼みがある」
「――はい」
「“北の移民”のことだ」
クライドの顔色が変わる。クライドは、ライリーから“北の移民”の誘拐事件が相次いでいると以前言われたことがあった。
カルヴァート辺境伯とケニス辺境伯が“北の移民”の増加と誘拐に関してライリーに報告したところによると、“北の移民”の増加に伴い誘拐事件も増えているらしい。実際に報告を上げたのはその二つの辺境伯だけだが、エアルドレッド公爵領とクラーク公爵領も広大な領地を有する以上可能性は否定できない。だが、両家共に報告が上がっていなかった。エアルドレッド公爵領に関してはオースティンが調査を進めているが、クラーク公爵領に関しては手の打ちようがなかったのが事実だ。クラーク公爵も報告するつもりがなさそうだったため、今回の視察で糸口を掴めないかとも考えていたのだ。
「クラーク公爵領での実態を知りたい。公爵本人に確認してもはぐらかされるだけだろう。フィリップという男とは親しいのか」
「フィリップは――フォティア領におりますが、父の執事です。家宰の役割も担っておりますので、知っているかと思いますが――私自身も、まだ彼に認められているとは言い難い状態です」
クライドは言いづらそうに、しかしはっきりと答えた。青炎の宰相と呼ばれるほど優れた父に忠誠を誓う執事は、年若いクライドを半人前だと軽んじている。将来、クライドはフィリップの上司になるはずだが、彼にとっては取るに足らないことらしい。
ほぼ正確にクライドの言葉を理解したライリーは、王宮での己の処遇と照らし合わせて苦い表情になった。クライドだけでなくライリーも、歴戦の猛者である貴族たちからは青二才だと舐められている。信頼されていないだけでなく、軽視されているのは自尊心も傷つけられるし苛立ちもした。見縊られているということは、国政に関わる重要な事柄を適切な時期に耳に入れて貰えないということでもある。
「そうか。移民が増えていないのであれば報告がないのも道理だと思っていたが、あの口振りだと増えているようだ。誘拐事件がなければ報告をしないのも理解できるが、仮に本当に移民が増えているのだとしたらその裏が気になる」
「はい。私もそう思います。残念ながら私はまだ領地経営の根幹には携わっていないのですが――恐らく資料もフォティア領にあるかと。閲覧を願ってみようとは思いますが」
「無理はするな。ここで軽率に動いて睨まれても敵わないからな」
「承知いたしました。殿下も――あまりご無理が出ませんように」
ライリーの言葉に、クライドは素直に頷き、挙句の果てには心配までしてみせる。そのことに擽ったい気持ちになりながら、ライリーはクライドと別れた。どうやらクライドに気付かれる程度には疲れが顔に出ているらしいと、自戒を込めつつ頬を手で擦る。
オースティンの助言も踏まえて、ライリーは親しくなった者たちの中から能力が高く信頼に値しそうな少年たちを数人見繕っていた。クライドはその内の一人だ。見込んでいた通り、ライリーの言葉を少し聞けば全体を理解できる聡明さと、全体を見通す視野の広さを兼ね備えている。知識の深さも尊敬に値するほどで、ライリーと対等に会話できる数少ない相手だった。
そして何よりも、クライドの最も魅力的な資質はその“優しさ”だろう。顔色一つ変えずに厳しい裁定を下す公爵の息子だと言われても信じられないほど、クライドは相手に寄りそうことができる。
――リリアナにはない資質だな。
ライリーは心中で呟いた。二人とも同じように線が細い印象の容姿だが、会話すればクライドのほうが態度や表情に温度があると分かる。リリアナは常に優しく儚げに微笑しているが、よく見れば常に表情は変わらない。嬉しいことがあっても、恐怖を感じることがあっても、彼女は変化を見せないのだ。
一方で、クライドは良くも悪くも感情が素直に表に滲み出る。他の令息や令嬢たちと比べると平静に見えるが――リリアナの方が、年不相応なほど感情を制御しているのだ。ライリーの婚約者候補たちに施されている王太子妃教育の成果と考えるには、リリアナだけが感情の制御を完璧にしているという点で不自然だ。彼女自身の資質と考えるべきだろう。
「――――?」
部屋に戻ろうとしたところで、ライリーは視界の端に何かが映った気がして足を止めた。だが、目を凝らしても異変はない。首を傾げたが、気のせいだろうと考えなおす。その後ろ姿を物陰から見つめる黒い影に、ライリーどころか彼の護衛すら気が付くことはなかった。
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