14. クリムゾンと商人 3
※グロテスクな表現を含みます。
馬車の中からリリアナの姿が消え――そして、彼女の名を叫び咄嗟にリリアナの腕を掴んだライリーが忽然と姿を消した途端、襲撃者たちは仲間を放置し一斉にその場から走り去った。護衛たちは敵を迎撃するのが仕事であり、追撃はしない。特に今回は取り残された敵が居るから、調査は十分に行える。
だが、馬車に一人残されたクライドは茫然自失の体で、妹が座っていた隣を凝視していた。王太子が連れ去られたことは大問題だが、それよりも大きな衝撃がクライドを襲っていた。たどたどしく手を伸ばし触れた座面はまだ温かくて、未だに可愛い妹が消え去った現実に頭が追い付かない。
「――リリー……」
掠れた声がぽろりと口から洩れた。
――僕は、いつまで経っても可愛い妹を助けられないままなのか。
ぎり、と噛み締めた唇から血の味がした。
父に無視され母からは暴言を放たれる小さな小さな妹。助けたいと思いながらもクライドは何もできないまま、リリアナと離れて暮らすことになってしまった。己の無力さに絶望し、どうにかしたいと足掻いて来た。昨年フォティア領で久しぶりに会った時も、改めて妹を助けようと己に誓った。それにも関わらず、クライドはリリアナのために何もできていない。
今回も、クライドはリリアナを助けられなかった。ライリーのように共に転移することもできず、取り残された。
今後のことを考えれば、クライドは共に行かないほうが良かった。頭では理解している。こちらに残って後始末をし、最寄りのコイラード子爵領に応援を頼まなければならない。
いつまでも落ち込んではいられないと、拳を握って己を鼓舞する。だが、感情は別だった。
――自分が張った結界が、破られないほどに強力なものであったなら。
転移でリリアナが連れ去られる前に、敵を制圧できていれば。
荒れ狂う嵐のような後悔と憤怒がクライドを襲う。力を入れすぎたのか、頭が酷く痛み視界が赤くそまる。必死に深呼吸をし、平静を保つよう心掛けた。
馬車の周囲から結界は消えたようで、乱暴にリリアナの護衛二人が馬車の扉を開く。
「おい、嬢ちゃんはどこに消えた!?」
「落ち着けジルド。恐らくは転移で連れ去られた可能性が高い」
ジルドと呼ばれた護衛を窘めた男装の麗人だが、その双眸には焦りが見える。クライドは二人を見据え、口を開いた。
「状況を報告していただけますか。殿下とリリーを――リリアナを、奪還します」
声は掠れていたが、その口調には決意が満ちていた。
******
ふと、リリアナは目を覚ました。周囲は暗い。体が痛い。眉間に皺を寄せて目を凝らす。徐々に目が慣れて、今自分がどこにいるのか把握できるようになった。
(ここは――小屋、かしら)
近くに厩舎があるらしいことは臭いから分かる。小屋の隅には藁や薪が積み上げられ、酪農に用いるのだろう道具も乱雑に放置されていた。襲撃された場所はコイラード領のすぐ傍だった。そこからそう遠くないのならば、飼われているのは山羊か馬だろう。谷間の村が多いコイラード領に、牛や羊を飼う習慣はない。
気を失う直前の記憶が確かならば、リリアナは呪術によって強制的に転移された可能性が高かった。紫色の靄は呪術が発動したことの証左だ。そして、敵はご丁寧にもリリアナの体を縄で縛っている。魔術を使えるとは知らないのか、何の変哲もない縄だった。魔術を使えないよう細工が施されているわけでもない。
「リリアナ、大丈夫か」
リリアナが身じろいだことで意識が戻ったことに気が付いたのか、近くから馴染んだ声がする。視線を向けて顔を確認し、思わずリリアナは呆れた。
(ライリー様、なぜ貴方までいらしているのです)
まさかとライリーも誘拐の標的だったのか――と一瞬疑うが、そんなはずはないと直ぐに否定する。紫色の靄はリリアナしか包んでいなかった。最もあり得るのは、リリアナが姿を消す瞬間にライリーがリリアナの体に触れて、転移に巻き込まれた可能性だった。
『ええ、何の問題もございませんわ』
あっさりとリリアナは答える。念話用のブレスレットが外されていなかったのは幸いだった。
リリアナの答えが聞こえたらしく、ライリーがほっとした様子が伝わって来る。リリアナは藻掻きながらもどうにか体を起こし、その場に座った。
『いつお目覚めになられていたのです?』
「少し前だよ」
ライリーは既に体を起こしている。彼もまた後ろ手に体を縛られていた。リリアナは溜息を内心で吐きながらライリーに謝罪した。
『申し訳ございません。巻き込んでしまいましたわ』
だが、ライリーはその端正な眉を寄せてリリアナを見やった。
「何故、リリアナが謝るのかな? リリアナは被害者だよ」
『敵の狙いは初めからわたくしのようでした。ライリー様とお兄様は巻き込まれただけでございます』
「――リリアナ、」
僅かに咎めるような響きのライリーの言葉を、リリアナは頑として聞き入れない。ライリーはわずかに顔を顰めたが、その双眸にはリリアナを気遣うような色が見え隠れしていた。しかし、リリアナは気が付かない。ライリーは更に言葉を重ねた。
「そんな風に自分を責めることはない。こうなったのは、私が咄嗟に貴方の腕を掴んだからだ」
だが、その言葉にリリアナは感激するどころか呆れを強くする。つまりライリーは、偶然巻き込まれたのではなく故意に巻き込まれたのだ。それは、リリアナからすれば王太子としての自覚に欠けた行為にしか思えなかった。
『僭越ながら、ライリー様。共にいらして頂けたそのお心遣いは有難い限りですが、軽率に過ぎると存じますわ』
「――リリアナ、貴方は私の大切な婚約者だ。一人で連れ去られるのを黙ってみている訳にはいかない」
『まだ婚約者候補でございます。わたくしは公爵家の人間ではございますが、ライリー様は王太子――次期国王であらせられますわ。命の軽重は比べるべくもございません』
言外に、自分の命を守るために己の身を危険に晒すなとリリアナは告げる。瞠目するライリーを尻目に、リリアナは視線を周囲に巡らせ、脱出の手段を考え始めた。ライリーはわずかに口を開いたが、諦めたように口を噤む。そして、わずかな溜息と共にリリアナに囁いた。
「私が目覚めた時には、周囲に人の気配はなかった。今もないようだが――次に人が来るのがいつになるのかは分からない。恐らく、あそこにある転移陣が目印となって私たちは強制的に転移させられたんだろうね」
ライリーの視線を辿ると、小屋の壁に文様が書かれていた。リリアナも初めてみる形だ。呪術として用いられる文様には文字が用いられることが一般的だが、初めて見る形だ。
『あれは――呪術ですか?』
「ああ。私たちは転移を魔術で行うが、東方の地域では呪術で行う。私もあの形は初めて見るが、似たものを以前報告書で見たことがある」
スリベグランディア王国では、能力がある者は詠唱で転移の術を発動させ、そうでないものは魔術で作った転移陣を用いるのが一般的だ。リリアナは、ライリーの説明に僅かに反応する。
(報告書――ということは、最近執務でご覧になったということかしら)
ライリーが執務に携わるようになったのはここ一年弱のことだし、それ以前の報告書を漁るような余裕があるとはあまり思えない。それならば、リリアナに見覚えがないのも当然だ。勿論、呪術に関してはその全てを網羅できているわけではないし、ペトラやベン・ドラコからはまだまだ入門の段階だと言われることだろう。無言になったリリアナに何を思ったか、ライリーは微笑を浮かべた。
「あの術では長距離を移動できない。それほど遠くではないはずだから、安心して良いよ」
『そうなのですね』
「ああ。近くに馬小屋があるし、馬もいるようだから――ここから出られたら馬に乗って戻ろう」
あっさりと言ってのけたライリーは、縛られているという状況が見えていないようにさえ思える。リリアナは逡巡した。魔術を使えば、脱出は可能だ。だが、ライリーの前で魔術を使うわけにはいかない。
(関節が痛くなるから嫌なのですけれど――でも致し方ありませんわね)
ジルドが連れて来た元暗殺者カマキリの特訓では、縄抜けの授業もあった。関節を外して縄を抜ける術は心得ているが、どうしても体は痛む。魔術を使えば体の痛みもなく良いのだが――と思いながら、リリアナが手に力を入れた時、視界の端のライリーが動いた。
(――え?)
リリアナは目を瞬かせる。ライリーはいつの間にか自由を得ていた。手と足を縛っていた縄がぱらりと床に落ちる。ライリーは安心させるようにリリアナに笑ってみせ、立ち上がるとリリアナの背後に回った。手早く縄を解いてくれる。
「一通り、捕らわれた時の対処法は心得ていてね」
あっさりと告げたライリーの手によって、リリアナも自由を得る。リリアナは差し伸べられたライリーの手を取って立ち上がった。縛られていて血流が悪くなっていたのか、足元がふらつく。だが、ライリーが体を支えてくれた。二歳しか違わないにも関わらず、ライリーの体はしっかりと筋肉がついていて危なげがない。
「さあ、行こう」
ライリーに促されてリリアナは自分の足で歩き始める。だが、二人はほぼ同時に外から聞こえる蹄の音に気が付いていた。ライリーは素早く扉に近づいたが、開かないよう外側からつっかえ棒をしてある様子だった。致し方がないと壁に耳を付けるライリーを見て、リリアナも無言で術を使った。
(【索敵】)
小屋の外には三人――いずれも馬に乗っている。間違いなく彼らが向かっているのは、リリアナとライリーが居る小屋だった。十中八九、リリアナを誘拐した集団と関係があるに違いない。ライリーも、同じタイミングでリリアナと同じ結論に達した様子だった。壁から離れて、リリアナの二の腕を掴み小屋の隅に積み上げられた藁の方へと誘導する。
「敵は三人だ、恐らく馬に乗っている。狙いはこの小屋だろう。リリアナ、申し訳ないが藁の影に隠れてくれないか」
『――ライリー様は如何なさるおつもりですか?』
リリアナが魔術を使えば、接近戦だろうが後方支援だろうが何ら問題なく行える。素直に藁の影に隠れるよう移動しながら尋ねれば、ライリーは苦笑と共に、靴の中に仕込んでいた短剣を手にした。
「これでも鍛えているんだよ。三人くらいなら、どうとでもなる」
ライリーの言葉にリリアナは目を瞬かせる。王太子として剣術や武術を嗜んでいることは知っていたが、彼の腕前がどの程度であるのかは全く知らなかった。前世の乙女ゲームでは剣士としても名を知られる存在だったが、九歳の彼が大の男相手に健闘できるのかは疑問である。
しかし、頭から否定することも不敬にあたるし彼にとっては侮辱だろう。
(危ない時は、わたくしも加勢できますし――様子を見ましょうか)
リリアナはそう判断して、素直に藁の影に身を潜めた。勿論、索敵の術は継続したままだ。ライリーが気が付かない敵の存在にいち早く気付く必要は未だ無くならない。
ライリーはリリアナがしゃがみ込んだのを確認すると、扉を開けた時に死角になる場所へと移動した。息を整え、ライリーとリリアナが未だ縄に捕らわれていると信じているだろう敵が入って来るのを待つ。
その二人の耳に、微かではあるが男たちの声が届いて来た。
「女だけって話だったろうが。何で男の方も転移させたんだ? 王都の魔導士ってなァそこまで使えねェ奴らばっかなのかよ、救えねェなァオイ」
「知らねェよ、向こうがちゃんと準備するって話だったじゃねえか。でもまあ取り敢えずよ、兄貴。女の方は買い手が決まってンだろ?」
「ああ、だけどオメーらがヤりてェなら止めねェよ。生娘じゃなきゃならねェって指示は受けてねェからなァ。まァ、俺ァもっとエロい女の方が好きだから要らねェけどな」
その会話に下卑た笑いが続く。ライリーは嫌悪に顔を顰めていた。一方のリリアナは、大して衝撃を受けることもなく男たちの言葉を聞いている。
(わたくしが目的であることは、これで確認が取れましたわね。大方、わたくしが婚約者候補から外れることを目論んでいる方の仕業かしら)
その筆頭が父親であることが悲しいが、次点で黒幕の可能性が高いのはタナー侯爵家だ。断定するには早いだろう。だが、今回の視察は突然決まった。確実に予定を知っているのはリリアナの父親であるクラーク公爵であり、それを考えるとほぼ確実にクラーク公爵が黒幕である気がする。
「クソガキの方はどうする、見目麗しいンだろ?」
「男のガキが好きな奴も居るからな。売りゃあ良いだろ。それに、娘の方だってそうだ。買い手が決まってるとはいえ、俺らの元に娘は居ンだからな。言い値も払えねェなら、男の方と一緒に売っ払えば良い。まァ、上手くやるさ」
声が近づき、どさりと重たい音が響く。男たちが馬から降りたのだろう。ライリーの緊張が高まる。リリアナは改めて意識を集中し、いつでもライリーのサポートができるよう準備を整えた。
扉が開く――その瞬間を、ライリーは待ち構えていた。
身長は男たちに届かないが、その分ライリーには柔軟性と瞬発力があった。二人の男を敢えて小屋の中に入れ、三人目の右肋骨の真下に短剣を刺す。
「ぐっ――――う、」
男が激痛に呻く。短剣を抜いた瞬間どっと血が出た。異変を感じた二人が振り向いた時には、既にライリーは次の体勢を整えている。短剣の柄で二人目の膝を強打し膝蓋骨を破壊すると、男は闘うまでもなく崩れ落ちる。最後の一人は痛烈な舌打ちを漏らして毒づきながら剣を抜くが、その時既にライリーは男の横をすり抜け、背後から右手の肘後部を斬りつけていた。腱を斬られた男は剣を取り落とす。なおライリーを攻撃しようと左手を繰り出すが、それも読み切ったライリーは男の鳩尾に柄を打ち込む。途端に男は意識を失い崩れ落ちた。
(まあ――あっという間ですわ)
物陰に隠れて様子を窺っていたリリアナは、ライリーの強さに目を瞬かせる。いつでも手助けできるよう構えてはいたのだが、ライリーの攻撃は舞のように美しく、そして容赦がなかった。
既に無頼漢を倒したのだからこの場を立ち去っても良いはずだったが、ライリーは小屋の隅に放置されていた縄で男たちを手早く縛り上げる。リリアナはそっと藁の影から出てライリーに近づいた。顔を上げたライリーは困ったように眉を下げる。
「あまり見たくはないだろう? 隠れていた方が良い」
『構いませんわ。それよりも、そちらの方は手当てをしなくても宜しいのでしょうか』
最初にライリーが刺した相手は顔色が悪くなっている。ライリーが狙ったのは全て人体の急所だ。特に一人目は肝臓から出血している。このまま放っておけば多量出血で死ぬだろうし、仮に治療を施しても多臓器不全に陥り結局は命を落とすことになるだろう。だが、リリアナは敢えてライリーに尋ねた。
(裏稼業に手を染めている時点で、助ける気は――わたくしにはございませんが)
だが、ライリーがどのような心積もりかは分からない。ここで慈悲を示すのか、それとも切り捨てるのか――リリアナはライリーを見極めるつもりだった。
男たちはこれまでも人身売買に手を染めて来たはずだ。七歳の少女と九歳の少年を売ることに躊躇いがないことを考えても、継続した商売相手がいるに違いない。売られた先で、子供たちがどのような目に遭うのか彼らは一切考えていない。考える頭や同情する心があれば、そもそも人身売買には手を出さないだろうが――もし、男たちが自分は悲劇の蚊帳の外にいるのだと信じているのであれば。
(笑止千万ですわね)
リリアナは悔し気な顔の男たちを微笑のまま見下ろす。それは捉え方によっては嘲笑にも見えた。
男たちを縛ったライリーは立ち上がって、妙に静かな目でリリアナを見返す。
「貴方は、どうしたい?」
『――わたくし、ですか?』
ライリーは逆にリリアナに問うて来た。リリアナは首を傾げる。目を瞬かせ、再度男たちを見下ろす。リリアナの言葉は男たちには聞こえない。だから、ライリーは三人の処遇をどうするかリリアナに尋ねているように見えるだろう。
リリアナはわずかに笑みを深めた。
『わたくしは、ライリー様のご判断に従いますわ。この者たちを倒されたのはライリー様ですし、高位であるのは貴方様でございます』
通常であれば、狼藉を働いた者たちに対する処罰はその土地の領主が判断する。勿論今回の場合は正当防衛が認められるだろうが、私情で彼らの処遇を決定することは認められない。ただし、王太子であるライリーであれば例外的に処罰を決定することも認められる。もし今回の誘拐をなかったことにしたいのであれば、領主に男たちを突き出すのは悪手だ。
ライリーはわずかに渋い顔になる。リリアナの返答が思ったものと違ったのか、その真意は分からない。
リリアナの表情に何を思ったか、ライリーは溜息と共に短剣を元に戻した。そしてハンカチで拭った手をリリアナに差し出す。
「最初に依頼主を聞いて、それから領主に突き出し、馬を拝借してクライドたちと合流する。それでどうかな?」
『ええ、それが宜しいかと存じますわ』
ライリーの提案にリリアナはにっこりと得心の笑みを浮かべ、その手を取った。