8. 射手の的 1
ヴェルクに滞在している貴人──第一皇女ヴァネサは、そろそろ堪忍袋の緒が切れ掛かっていた。元々、気が長い方ではない。その彼女にして、今回は耐えに耐えていた。
「まだか! ここまで私を待たせるなど、そ奴は私を馬鹿にしているのか!」
顔を真っ赤にして怒鳴る。スリベグランディア王国に侵攻して大怪我を負う前までは、彼女の態度一つで、周囲の人間は平身低頭し慈悲を請うた。だが、今やその権勢は翳っている。
第一皇女ヴァネサの供をしているその男は、数日前と変わらぬ態度で、しかし表面上だけは恭しく首を垂れた。
「殿下、どうぞ落ち着かれてください。予定の変更など、売れている商人には良くあること。彼の家はここヴェルクにあるのですから、気長にお待ちいただければ、必ずや戻って来るに違いありません」
「お前は数日前も、同じことを言っていたではないかっ!」
声高に罵り、ヴァネサは綺麗に整えられた爪先を噛む。
その双眸は怒りに染まり、この場には居ない敵をきつく睨み付けていた。
「こうやって手をこまねいているうちに、第二皇子や第三皇子の阿呆が、着実に権勢を手にしているのだぞ。その上、あの憎き王太子や王太子妃まで悠々と暮らしていると思えば、腹が立って仕方がないというものだ」
男は表情を変えない。全く動じた様子のない男はしばらく無言でその場に立ち尽くし、主である第一皇女の怒りが落ち着くのを待った。
皇女は激高しやすい性質だが、落ち着くのも早い。第三皇子マティアスとは正反対だ。マティアスはあまり感情を表に出さないが、執拗なほどこだわりが強く、怒りを抱けばずっとその感情を抱き続ける少年だった。
やがて、ヴァネサの怒りが多少静まったところで、男は「こちらはつい先ほど、入手した情報ですが」と切り出した。
「コンラート・ヘルツベルク大公が、皇都に本格的に戻られたそうです」
「叔父上が?」
ヴァネサが片眉を跳ね上げる。
ヘルツベルク大公はこれまでもしばしばトゥテラリィやヴェルクに立ち寄っていたが、あくまでも戦と戦の合間に骨休め程度、という雰囲気だった。だが、今回は使用人や部下も引き連れた本格的な帰還だという。
コンラート・ヘルツベルク大公は緋色の死神と名高い戦闘狂だ。戦を好む性質は、第一皇女と同類である。だが、なぜか二人はあまり相性が良くないらしく、互いに関わろうとはしていなかった。
「西方で小国を相手に遊んでいらしたのではないのか」
遊ぶとはこの場合、戦のことである。ヘルツベルク大公は自ら先陣を切って戦場に飛び込む男だ。ここ十数年は、西方の小国を相手に戦いを挑んでは勝利を収め属国にするという、皇国の領土拡大に貢献して来た。
男は頷いてヴァネサの質問を肯定しつつ、情報を付け加えた。
「一通り、西方諸国とは平和条約を締結いたしましたから、しばらくはご自身は必要でないとお考えになられたのでしょう」
「そうか。そういえば、陛下がそのようなことを仰っておられた」
もっとも、第一皇女が皇帝カルヴィンとそのような話をしたのは、彼女がスリベグランディア王国に侵攻する直前が最後だ。その時は、まだ「西方諸国をもうじき平定できる」という話だった。
ヴァネサが療養している間に、事態はかなり変わっていた。
彼女は唇を歪める。その目は爛々と輝いていた。
「叔父上が戻られたということは、マティアスの奴がそちらに掛かり切りになる可能性が高いということだ。ヴェルクには闇闘技場もないからな。叔父上がこちらに来る可能性は、万に一つもないだろう」
コンラート・ヘルツベルク大公がヴェルクを訪れていた一番の理由が、闇闘技場だった。西方諸国との小競り合いも一段落し、少しでも暇が生まれると、彼は遥々ヴェルクを訪れて自ら闇闘技場の剣闘士として憂さを晴していたのだ。
そして、陰湿な性質の第三皇子と、武力という分かりやすい強さを好む大公もまた、相性が悪かった。
「そういえば、叔父上は自らの手飼いを増やそうとされていたはずだが──お前は何か知っているか?」
ヴァネサは、無言で自分に付き従う男に顔を向ける。
先程まで散々不機嫌を撒き散らしていた皇女に対して嫌な顔一つ向けることなく、男は静かに答えた。
「閣下の手飼いであったゲルルフの行方は掴めておりません。閣下も彼には手を焼いていたらしく、探そうとする素振りも見えないとか」
長年、コンラート・ヘルツベルク大公は、私兵の拡充を目論んでいた。皇帝カルヴィンの不況を買うことのないよう細心の注意を払いながらも、一大公領の私設軍隊しては異例の戦力だった。
だが、その中心であったゲルルフという男が姿を消したという。
ヴァネサは鼻先で笑い飛ばした。
「叔父上も愚かなことをなさったものよ。下郎などを登用するから、形にならず両の手から漏れていくのだ」
ヴァネサが把握しているのは、ゲルルフという男が大公の右腕として破落戸や身元の知れない者たちを集めていたことだけだ。彼女が当初想像していたよりもゲルルフとその配下は強敵だったが、あっという間に瓦解したようだ。
宮廷で偉そうにしている大公の姿が脳裏に過ぎり、ヴァネサは皮肉な笑みを浮かべた。
「やはり、今のうちに件の商人とやらに会いたいものだ。皇帝でなければ手に入れられぬものを手に入れてこその皇位継承者だ。いつまでも隣国如きに拘泥するのではなく、一石二鳥を狙うべきだな。上手く奴と繋ぎが取れて私が力を得てからの話ではあるが、お前の献身には必ずや報いよう」
「ありがたきお言葉」
鷹揚なヴェネサの台詞に、部下は恭しい。そして、一瞬の機嫌の良さをすぐにかき消して、第一皇女は鋭い視線を投げかけた。
「だが、全ては商人と会ってからの話だ。早くお前のいう男を、首に縄を付けてでも引きずって来んか!」
「御意に」
部下は、反論はしない。ただ従順さを示すように、深々と頭を下げた。
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第一皇女ヴェネサや彼女の部下が待ち侘びているヴェルクの商人グスタフは、ヴェルクからわずか馬で一日分ほど離れた隠れ里で、面倒な客人を迎えていた。
グスタフは不機嫌さを押し隠して、愛想笑いを浮かべている。客人はグスタフの心情に気づいていないのか、それとも自身の背後に権力者がいる自信故か、落ち着き払い堂々としていた。
「なに、そう難しいことではございません」
丁寧ながらも、他人を従えることに慣れた不遜な口調である。
「我が主人が望むことは非常に簡単です。グスタフ殿ならば、すぐにでも対応できることでしょう」
「そう思うなら、俺に依頼する必要はないんじゃないですかね」
グスタフは唇を歪めた。だが、客人は「いえいえ」と首を振る。呆れ果てたと言いたげな様子だ。
「簡単というのは、誰にでも容易いということではありません。その道の人ならば、ということです。主人は──もちろん私もですが──貴方のように、世界の表のみならず裏にも通じているわけではありませんからね。我々が知りたいのは、世界の全てを知り尽くした貴殿だからこそ突き止められるであろうことです」
「買い被りすぎですよ。俺が知る世界は、表と何も変わりません」
「ご謙遜を」
断ることは許さない、とでも言いたげだ。グスタフは諦めた。
客人は身分を明らかにしていない。告げた名前も本名でないことは明らかだ。そして、彼の主人が一体誰であるかも、明言はしていない。
それでも、彼が誰の命令で動いているのかは明らかだった。彼が居留守を使おうとしたグスタフに見せた紋章が、皇族に連なる人間であることを示していた。緋色の死神──大公コンラート・ヘルツベルク。
皇子や皇女のように、グスタフにとって取るに足らぬと切り捨てられる相手ではない。グスタフの命運を左右できる地位の人間だ。
「それで? ご依頼の内容はどのようなことです?」
グスタフを訪れる皇位貴族の目的はそれほど多くない。だからと言って、グスタフは自分から言い出すつもりはなかった。
そして、グスタフの想像が正しければ、彼の本業に関する話ではないはずだ。
鋭く様子を窺うグスタフを前に、使者は動揺の欠片も見せない。それどころか、グスタフの反応を楽しむように目を細めて見せた。
「人を探しているのです」
「人を?」
「左様」
グスタフは虚を突かれた。目を瞬かせる。
彼に話を持ちかける貴人は、大禍の一族に依頼をしたいと言うのが常だった。グスタフに依頼をすれば、ほぼ確実に一族が依頼を引き受けてくれる──それを知る者自体ほとんど居ないのも事実だが、その上で、グスタフは客を選んでいた。一族に連絡を取りたいと考えても、グスタフが会うことを拒否すれば、彼らは依頼を口にすることすら叶わない。
たとえ客人に会うことにしても、一族に繋ぎをつける必要がないとグスタフが判断すれば、知らぬ存ぜぬを貫き通し、依頼を退ける。
だが、今グスタフの前にいる使者は、グスタフの予想を全く裏切った。
驚愕が一瞬にして彼の脳裏を過ぎり、次いで疑心が浮かび上がる。
人探しといっても、単純なものではないだろう。普通の人探しならば、わざわざ皇都トゥテラリィから遠く離れたヴェルクまで足を運び、グスタフに依頼をする必要はない。皇族に連なる──それもグスタフが想像する通りの依頼人ならば、配下に指示するだけで事足りるはずだ。
依頼人はグスタフの顔を静かに注視し、断らせる気はないと宣言するように、問答無用で言葉を続けた。
「年は恐らく十代の後半、女性。銀髪に緑の瞳を持つ、世界有数の魔導士」
グスタフは目を細める。依頼人の指し示す人物に、心当たりはない。それに、客人の背後にいる人物が探し求めるにしては妙な相手だった。
「魔導士を、お求めですか?」
「その通りとも言えますし、違うとも言えます」
魔導士であれば誰でも良いわけでありませんと、客人は断言した。
「我が主人は、ただの魔導士は所望しておりません。今申し上げた通りの、ただ一人の魔導士を探し求めております」
そして、彼は深い笑みを浮かべる。
「その人物を見つけて居場所をお知らせいただければ、金貨二十枚。捕らえて引き渡していただけるのであれば、金貨百枚」
さすがのグスタフも絶句した。あまりにも大金だ。金貨が一枚もあれば、平民であれば一生遊んで暮らせる。
だが、客人の提案はそれだけに止まらなかった。
「さらに、我が主人の恒久的な援助を。今上陛下亡き後もお約束いたしましょう」
グスタフは喉の奥で唸る。男の言う魔導士に、心当たりはない。だが、貴人が探し求めていると考えるには、あまりにも奇妙な探し人だった。
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