12. 魔物の正体 1
その日、リリアナは王宮で王太子妃教育を終えライリーとお茶をした後は屋敷に戻る予定だった。
ジルドが操縦する馬車に乗り込み、慣れた道を揺られる。車窓からゆったりと流れる夕闇に飲まれつつある王都の街並みを眺めながら、リリアナは小さく溜息を吐いた。
未だに声が出ない振りをして過ごしているが、婚約者候補からリリアナを外そうと言う動きは見えない。国王の容体が思わしくない現在、宰相であるクラーク公爵の発言力が大きくなっている。だからこそ、昨年声を失った時に通達された“十歳になっても声が出なければ婚約者候補から外れる”という条件が早められるのではないかと考えていたのだが、病床の国王と王太子本人がリリアナを婚約者候補に留めたいと主張しているらしい。
(そして、エアルドレッド公爵もわたくしが婚約者候補から外れることをご懸念されているとか――)
その話は、今日初めてライリーから聞いた。エアルドレッド公爵とクラーク公爵は三大公爵家としてそれぞれ権力を有しているが、特に現当主たちは相容れない間柄だ。何かと対立しているのはリリアナも聞き及んでいる。普通に考えれば、リリアナを婚約者候補としたいクラーク公爵と反対するエアルドレッド公爵という構図になるはずだが、現実はその逆――リリアナを王太子の婚約者から外したいクラーク公爵と、据え置くべきだと主張するエアルドレッド公爵という関係図になっている。
(意味が分かりませんわ)
父親の考えが読めないと思っていたものの、ここへ来てエアルドレッド公爵の思惑も理解できなくなってしまった。次にオースティンに会った時に尋ねてみようかと思案しつつ、同時に次男であり現在は騎士団見習いとして忙しくしているオースティンが知っている可能性は低いとも思う。
「お嬢様、どうやら事故が起こっているようですね。裏道を通りますが宜しいでしょうか?」
オルガが窓を開けて声を掛けて来る。リリアナは頷いた。
王都であれば裏道もそれほど危険ではないし、万が一無頼漢に襲われたとしてもオルガとジルドが居る。正直なところ、以前の護衛二人よりオルガとジルドの方が安心感があった――決して彼らも腕が劣っていたというわけではないのだが。
リリアナを乗せた馬車は裏道に進む。今彼女たちが居る場所は王都の中でも高級な地区、即ち高位の爵位を持つ貴族たちの家々が建ち並ぶ場所だ。だから表の通りは非常に綺麗に整えてある。だが、一方で裏手はそうではない。貴族たちの家に仕える使用人たちが使う裏道は大通りほど整備されていないし、清潔に保たれているわけでもない。
(――あら?)
だからこそ、リリアナはその場所に黒塗りの馬車が停まっていることに違和感を覚えた。
黒塗りの馬車には紋章が付いていない。だが、どこからどう見ても高位貴族のお忍びだ。リリアナは窓にカーテンを引く。馬車自体に紋章が付いているので完全に隠れられるわけではないが、見ていることを悟らせない必要があった。
カーテンの影から馬車を注視する。案の定、ちょうど屋敷の裏口から人目を憚るように長身の男が出て来たところだった。ローブを目深にかぶっているが、仕立てが良い。その後ろで扉に隠れ、縋るような眼差しを男に向けている女性には見覚えがあった。
(フィンチ侯爵夫人? ということは、このお屋敷はフィンチ侯爵家の邸宅ですのね)
フィンチ侯爵はエアルドレッド公爵家の傍系に当たり、夫人はライリーとリリアナの教育係だ。勿論、オースティンとも既知である。普段はきっちりと髪を纏め隙のない身なりをしている夫人の髪が乱れていた。その夫人の元へお忍びで訪れる男と来れば、夫人と男の関係性は火を見るよりも明らかだ。
となれば、気になるのは相手の男の素性である。リリアナは目を凝らす。フードの下に隠されている顔が見えれば、どこの誰だか分かるはずだ。
リリアナは逡巡する。関わらないという選択肢も選ぶことはできる。だが、既に身辺がきな臭くなっていることは事実だ。ライリーやオースティンの話だけでなくペトラやベン・ドラコの講義、そしてジルドが時々話してくれる雑談からもそれは察せられる。
(【吹風】)
迷ったのは一瞬だった。リリアナは心中で詠唱を唱え、男のフードが外れるように瞬間的な風を起こした。フードが浮き上がり、男の顔が露わになる。男は慌ててフードを押さえ顔を隠し周囲を窺うが、既にリリアナを乗せた馬車は男たちを後ろへ置き去りにしていた。
その馬車の中で、リリアナはその目を見開き絶句する。フードを被った男に会ったことはない。だが、その姿絵は見たことがあった。
(フランクリン・スリベグラード大公――!?)
先代国王の庶子であり、現国王の義弟――そして王太子の叔父だ。若かりし頃は社交界に浮き名を流した色男として知られている。一方、武の才も魔術の能力も政に関する情熱もなく、早々に王家直轄領へと追いやられた男であると一部の人は噂する。現時点では、彼を次代の王にしようと考える貴族はごく少数であるはずだ。実際に、彼は大公となり王都から離れた十年前からこれまで王都には滅多なことでは立ち寄らなかった。社交界シーズンには顔を見せたが、それ以外の時期に来たことはない。
フィンチ侯爵家はエアルドレッド公爵家の傍系であり、アルカシア派であるはずだ。その侯爵家と一体どういう関係があるのか――単なる愛人関係であれば話はまだ単純だ。いっそのことそうであって欲しいとリリアナが願ってしまうのも致し方がないだろう。
(殿下にお伝えしておくべきかしら――いえ、でも殿下はまだ九歳ですし、お伝えしたところで何がお出来になるのか)
その上、ライリーと話していれば度々父親の話が出て来る。リリアナと共通の話題になるから、というのも理由の一つだろうが、ライリーとクラーク公爵の距離はリリアナと父親の距離よりも近い。ライリーがどの情報をクラーク公爵に告げてしまうか確証がない現時点で伝えることは憚られた。
そう考えると、リリアナの周囲で政治的な助けになる可能性がある大人はベン・ドラコとペトラの二人のみである。しかし、魔導士であり基本的に研究に没頭したいと考える二人は政治になど興味がない。
リリアナが権力関係に興味関心を持つのは自分が王太子の婚約者候補であり、己の未来に直接的に影響するからだ。ヒロインが表舞台に出て来た後に迎える悲惨な運命を辿るより前に、命を落とすわけにはいかない。
無言で考えていたリリアナだったが、馬車は勝手に進んで行く。取り留めもない思索の挙句に結論も出ないまま、リリアナは屋敷に到着する。部屋に戻り簡素なドレスに着替えたところで、リリアナはベン・ドラコから貰った魔導石が光ったことに気が付いた。部屋に防音の結界を張った後、手を翳して魔力と反応させる。魔導石から流れて来たのはペトラの声だった。
『お嬢サマ、今動ける?』
「ええ、動けますわ。如何致しました?」
『魔物襲撃じゃないんだけど、ちょっと面倒なことになってさ。人助け、来てくんない? 転移であたしの場所まですぐ来れるかな。プローフェンの森なんだけど』
リリアナは首を傾げた。ペトラにしては珍しい要請だ。しかし、普段からペトラには世話になっている。断ると言う選択肢は、リリアナの中にはない。
「勿論、すぐに伺いますわ」
『助かるよ、ありがとね』
ペトラの通話が切れる。リリアナは防音の結界を消し、マリアンヌを呼んだ。優秀な侍女は即座にやって来る。リリアナはにっこりと笑って紙を差し出した。
〈王宮でお茶菓子をたくさん頂いてしまいましたの。ですから、今日の夕食は結構ですわ〉
「まあ、そうなのですね。承知いたしました」
〈ええ。それから、今日はちょっと疲れたので休もうと思います。準備を貴方、手伝ってくださる?〉
「勿論ですわ」
マリアンヌは快諾する。本来であれば寝間着に着替える必要はないのだが、既に休むと言った以上避けては通れない。さっさと寝る準備を整えたリリアナは、マリアンヌに呼ばない限りは誰も部屋に来ないよう言いつける。そして扉に鍵を閉めると、すぐに簡素なワンピースに着替えた。
(それでは、ペトラの元に参りましょう)
転移で来い、とペトラは言った。つまり急ぎかつ内密の案件ということだ。リリアナは姿を消し転移の術を発動させる。ペトラの魔力は既に身に馴染んでいる上に、プローフェンの森に居ることも確認が取れている。本来であれば転移する場所を具体的に知らなければ転移できないが、リリアナはペトラ本人を目印と定めた。ペトラの魔力は把握しているし、転移先を間違えるということはないはずだ。
だが、転移した瞬間、術に失敗したと思った。
「――――っ!」
全身がぞわりと総毛立つ。転移を終えた瞬間、リリアナは反射的に自分の周囲に結界を張った。
視界に入ったのはペトラとその背後に隠れる少女、そして二人とリリアナを囲む無数の赤い目――そして瘴気の闇。
ペトラは空気が揺れたことに気が付いたのか、冷や汗を額から垂らしつつ独り言のように呟いた。
「ありがと、ちょっとコレさすがにあたし一人じゃ厳しいなって思ってたんだよね」
『ベン・ドラコ様はお手隙では?』
ペトラの背中に居る少女が気になり、リリアナは姿を消したまま念話でペトラに尋ねる。ペトラは首を降った。
「通じなかった。多分、魔導省に居る」
「――ペトラ姉様? どなたかとお話になってるの?」
ペトラの背中に隠れた少女が震えながらもペトラに尋ねる。姿が見えない存在に不安を覚えているらしい。ペトラは励ますように少女の頭を軽く撫でた。
「あたしたちの仲間だから安心しな、タニア」
その言葉を聞いたリリアナは目を瞬かせ、周囲を囲む魔物たちの存在すら一瞬脳裏から消え失せた。まじまじと少女の姿を見つめる。確かに、少女の顔立ちにはゲームに出て来るライバル役タニア・ドラコの面影があった。少し吊り上がった目は子猫のように愛らしく、勝気な性格が表れている。
ペトラは改めてリリアナに向け告げた。
「魔物がこれ以上近づけないように結界張ったんだけどさ、これ以上瘴気が出てきたら結界でも防ぎ切れないし、魔物連れて行くわけにもいかないから転移も迂闊に使えないし」
それに前出くわした魔物襲撃の時よりも個体の知能が高い、とペトラは付け加える。確かに、とリリアナは納得した。
魔物たちは皆ペトラやリリアナ、タニアの出方を伺っている。以前、魔物襲撃に遭った時の魔物たちは動く生物を片っ端から襲っていた。今、目の前にいる魔物たちのように敵の様子を見るなどということはしていなかった。
(魔物って、知能がある存在でしたの?)
リリアナの手を借りずとも、ペトラほどの術者であればタニアと二人で転移することなど簡単だ。だが、結界と転移は相反する存在である。実際、リリアナはペトラの元に転移したにも関わらず、ペトラが張った結界の外側に居る。そして、ペトラが転移する際には結界を解除する必要があり、タイミングが一瞬でもずれたら魔物共々転移する羽目になる。
つまり、ペトラとタニアが現状から脱出するためには周囲の魔物を全て討伐もしくは浄化するしかないのだ。元々ペトラは魔導士ではあるものの、それほど戦闘能力が高いわけではない。どちらかと言えば防衛と呪術に特化した存在だ。
それに――と、リリアナは瞠目する。このまま三人で逃走できれば良いが、知能がある魔物であれば今後の動きが読めない。人里に出てしまっても困る。魔物襲撃ほどの規模ではないとはいえ、視認できるだけでも三十は下らない。村の自警団は勿論、街道に点在する主要な街の衛兵たちでは十分に対抗できないだろう。
(確かに、魔物襲撃ではないものの助けが必要な状況――ですわね)
ペトラ一人であればこのような窮地に陥ることはなかっただろう。タニアが居るから、ペトラは魔物たちから逃げ遅れたに違いない。しかし、ここでペトラに尋ねてもタニアの前で答えるとは思えなかった。
リリアナは改めて周囲を見回す。
木々の生え方から、あまり人の入らない場所だと言うことはわかる。土の感覚からしても陽が当たらない場所、匂いと湿度から近くには水場がある。耳を澄ましても激しい水音は聞こえないから、あるとしても湖か川程度――滝ではない。
ざわ、と空気の澱みが深くなる。魔物たちが徐々に包囲網を狭め始めた。攻撃の準備に入ったことは明白である。リリアナは少し考えた。
前回魔物襲撃に遭った後、魔物を討伐する方法についてもいくつか調べた。聖魔導士が行う浄化でなくとも、魔物を倒す方法はある。魔物襲撃の際は基本的に、魔物との戦闘訓練を重ねた騎士団が戦い、死体を火や光魔術で浄化するのだという事も確認できた。そして同時に、大規模な魔物襲撃でない場合に以前リリアナが用いた魔術を用いることは非常に効率が悪い事も確証を得た。
(蠅を殺すためにミサイルを用いるようなものでしたわね。この世界にミサイルはございませんけれど)
蠅を叩き潰すのであれば、蠅叩きでも十分である。慣れたら輪ゴムでも仕留められるし、一々威力の大きな武器を持ち出す必要はない。
そしてもう一つ、リリアナには目的があった。ペトラも口にはしないが、リリアナと同じ考えに至ったからこそ彼女を呼び出したのだろう。
『死体を残せば、この魔物が自然発生的なものかどうか分かりますかしら?』
リリアナはペトラに尋ねる。ペトラは何も言わなかったが、はっきりと頷いた。
それならば、やはり遺体が残るように始末せねばなるまい――リリアナはわずかに高揚を覚えていた。貴族令嬢として生きている以上、実戦の経験はなかなか積むことができない。魔物に囲まれているという現状は、リリアナにとって数少ない実力を試す機会でもあった。
(【空間分析】、そして【記録】)
素早く空気の構成成分を分析し記録する。魔物に攻撃される直前、一瞬の早業だった。先んじて攻撃して来た一頭の魔物を軽くいなし、リリアナは集中して体内に流れる力を練り上げる。魔物襲撃の時と違い、魔力的にも精神的にも十分な余裕がある。魔力が体中に充満していくのを感じながら、リリアナは十分に魔物たちをひきつけ、詠唱を唱えた。
(【鎌風】)
それは、触れるもの全てを切り裂く――――風の魔術。