11. 鼠の小屋 2
カマキリと名乗る小柄な男がクラーク公爵邸に訪れたのは、とある日の真昼のことだった。細身で体には深い皺が刻まれている。常に笑んでいるように見える垂れた瞼から垣間見える瞳は、底知れない鋭さを放っていた。この上なく胡散臭い。屋敷の使用人に見られては面倒なことになるだろうと指示したリリアナによって、裏口から人知れず侵入した男は離れの部屋に通されている。男が茶を飲みながら待っていると、少しして清楚なワンピースに身を包んだリリアナとジルド、そしてオルガが姿を現した。
「初めまして、便宜上カマキリと名乗らせて貰いますよ、お嬢さん」
「お嬢様は声が出ないので、何かあれば筆談で伝えることになる。ちなみに、ここに我々しか居ないのは貴殿の身分を慮ったお嬢様のご厚意だ」
「へえ、そりゃあ有難ェこってですな」
オルガの言葉に、カマキリは口をへの字にして見せる。若干面食らったようにも見えるが、リリアナは気にせずにっこりと笑みを浮かべ、軽く会釈してみせる。オルガとジルドには、未だ声が戻ったことは教えていない。そのため、ここでの会話は筆談だ。
カマキリはつるりとした顎を撫で、首を傾げた。
「ジルドから聞いた話だと、そこのお嬢さんに暗殺者に襲われた時の対処法を教えて欲しいってことだったと思うんだが――」
まさしくその通りだ。リリアナは頷いた。カマキリは呆れた様子になる。貴族から――それも年端も行かない令嬢からそのような依頼が、裏社会を生きて来た自分に齎されるとは思ってもみなかったのだろう。そして今も半信半疑に違いない。だが、それでも警戒心を露わにしないのはさすがだった。騎士たちに奇襲を受けたとしても、自らの身を守り逃走するだけの自信があるのだろう。
「基本的に、暗殺ってのは騎士と違って決まったお作法があるわけじゃない。そもそも証拠を残さないように標的を殺るのが暗殺だからな。毒殺も勿論そうだが、暗器を使う場合もある。事故か病死、自殺に見せられるんだったら手段は問わないわけだ」
つまり、対処法を学ぼうにも出来ることは限られる、とカマキリは結論付けた。リリアナも勿論それは承知していた。そして、カマキリにそう言われることも予想済みだ。実際にジルドと話をした時、彼自身も疑問に思ったらしくリリアナに問うて来た。手元に紙を引き寄せ、リリアナは手早く文字を連ねる。
〈ええ、その通りでございますわ。ですが、彼を知り己を知れば百戦殆からず、とも申します。貴方様には、ご存知の暗殺方法をご教授願いたいのです。また、もし存在するのでしたらその対策も〉
カマキリはリリアナの文章を読んで目を眇めた。曖昧な笑みは消え去り、探るようにリリアナの様子を窺う。リリアナは堂々とその視線を正面から受け止めた。教えを請う立場であるためリリアナはそれ以上言葉を重ねなかったが、カマキリはリリアナの意図をほぼ正確に汲み取ったのだろう。リリアナが望んでいるのは、それぞれの暗殺方法に対する個別の対処法ではなく、共通する対策――たとえば殺気や害意を事前に察する方法、殺気を消した暗殺者に気付く方法、暗殺に適した状況や環境を学ぶことだ。
実際に、前世でも割れ窓理論でも知られる環境犯罪学と呼ばれる学問があった。その理論に基づけば、環境を変えることで犯罪発生率を減らすことができる。同様に考えれば、暗殺に適した状況や環境を極力避けたり減らしたりすることで、暗殺される可能性を下げることができるはずだった。
やがて、カマキリは真っ直ぐに自分を見つめるリリアナから視線を先に逸らした。
「――分かった。中には呪術や魔術を使う奴もいる、その場合の対抗方法は魔術しかねぇ。声が出ないんじゃあ、術は使えないだろ? それはどうする」
〈魔導士の知人が居りますから、その方にお願いいたしますわ〉
無論、リリアナは自分で全て行う腹積もりである。だが、一時の講師をお願いしたに過ぎない相手に手の内を明かす気は更々なかった。
一瞬リリアナの背後に佇むジルドとオルガが複雑な表情を浮かべるが、カマキリはリリアナの文字を読むことに気を取られ気が付かない。
初日は、暗殺の手段を種類別に教えて貰う。暗殺と言えば毒殺だけでなく、事故死や自殺に見せかけた殺害方法が主だろう。リリアナの前世では特にそうだった。だが、どうやらこの世界では違うらしい。カマキリは淡々と告げた。
「暗殺者っていうのは大まかに二つに分かれる。一つが完全に夜闇に乗じて殺る奴。これは特に病死や事故死に見せかける必要はない。ばっさり斬られて明らかに誰かに殺されたって分かっても、肝要なのは下手人が――もしくは依頼人が分からないってこった」
リリアナは頷く。この世界で殺人事件がどのように調査されるのかは分からないが、前世であったような科学的な事件捜査は行われていないはずだ。そうなると、多少派手な手段を用いても足が付かないのだろう。
「もう一つは、昼最中に殺る方法だ。これはちょっと毛色が違う。明らかに怪しいと思われちゃあ、すぐにお縄だからな。暗殺者は一般人に擬態し、殺害方法も血が出なかったり事故に見えたりするように、ちょっと凝る必要がある」
毒殺なんかは後者だな、とカマキリは笑う。
リリアナは別の意味でも感心していた。カマキリの説明は非常に分かりやすい。さすがに直接確認することはできないが、もしかしたら後継者でも育てたことがあるのかもしれない。暗殺者の育成とはあまり褒められたものではないかもしれないが、この世界が師弟制度を基本に成り立っていることを考えれば決して的外れな推察でもないだろう。
カマキリは、ジルドが連れて来ただけあって優秀な暗殺者だった。既に引退していると本人は言うが、その知識は恐らく現役の暗殺者をも凌ぐに違いない。
「派手な仕事をする奴らは、殺気を隠さない。だから、気付くためにはそういうのに慣れた護衛を雇えば良い。そこの二人で十分だ――最高級の腕を持った暗殺者相手じゃ厳しいだろうが」
にやり、とカマキリはオルガとジルドに視線を当てて笑う。オルガは表情を変えなかったが、ジルドは苦虫を潰したような顔で黙り込む。リリアナは首を傾げてカマキリに尋ねた。
〈最高級の腕を持った暗殺者方は、この国と近隣諸国含めて何名くらいいらっしゃいますの?〉
「――暗殺者にも敬語使うかい、徹底してるねェ」
何を思ったかカマキリは苦笑を隠さない。だが、すぐに答えてくれた。
「そんなに居ねェよ。三、四人程度か? 基本的にそいつらは俺が育てたからな。一人だけ例外はいるが――そいつが一番性質が悪ィや」
〈性質が悪い、とは?〉
「誰にも手綱が握れねェ。獲物を甚振る。暗殺ってのは、標的を殺しゃ良いんだ。獲物を甚振るのはいただけねェよな」
なるほど、とリリアナは頷く。
ただ、どうやらその暗殺者は他の優秀な暗殺者と比べても格段に優れているらしく、恐らく他の優秀な暗殺者を複数相手にしても圧勝するだろう、とカマキリは纏めた。世の中は不公平だとでも言いたげである。暗殺者という闇に暮らし血に手を染めた存在であるにも関わらず、カマキリにも何らかの倫理観というものが備わっているらしい。
(確かに、前世でも連続殺人犯は何らかの規範を持っていましたわね。ただ、その規範が一般には受け入れられるどころか理解もされず、かつ社会秩序を乱すものである点が問題とされておりましたけど)
そんなことを考えるリリアナを置いて、カマキリの講義は続く。
「そういう例外的な一人を除けば、夜闇に乗じた暗殺者に関しては結界も使えばほぼ防げる。殺気に反応する護衛、それからそいつらに防げない攻撃魔術を防ぐ結界――これで万全だ。寝てる間まで警戒する必要もねェしな」
〈ええ〉
リリアナは頷いてカマキリに同意を示す。勿論、リリアナとしてはその結界をさらに強化する心積もりだ。もしかしたら、カマキリの言う“例外的な一人”がリリアナを襲う可能性もある。その一人に対する策を練る必要があった。
「もう一つの、真昼間から狙ってくるケースは色々方法がある。一番知られてるのは呪術だが、そんな手間暇と金を掛けるくらいなら、物理的な方法に頼る方が簡単だ」
〈毒、ですか?〉
「毒もそうだが、そいつも入手が面倒だったりするし、何より標的に接触しなきゃいけねェのが一番の問題だ」
霧状の毒は周囲に被害が出る可能性もあるし、物に塗って標的の手に毒を付着させ、目や鼻、口の粘膜から体内に摂取させようとするのは成功率が下がる。皮膚から吸収させる毒もあるが、やはりそれも周囲への被害がゼロではない。飲食物に混入させる方法は、やはり標的に接触する危険性を冒すことにも繋がる。
そこで用いられるのが、暗器の中でも暗殺に特化した道具だと言う。
「例えば、これ」
カマキリが懐から取り出したのは、何の変哲もない縫い針だった。
「これも、熟練の術者が使うとこうなる」
そう言ってカマキリは軽く手を挙げた。知り合いに挨拶するような気軽さだったが、その指先から縫い針は消えている。背後でジルドとオルガが一瞬警戒したのが伝わってきたが、すぐに二人とも力を抜いた。
「見えるか?」
リリアナはカマキリが示した先を見る。リリアナたちが座っているテーブルから数メートル先。小屋の壁に作られた棚に飾ってある石の置物だ。そこに、きらりと細く光るものが刺さっている。どうやら、カマキリは軽く針を投げただけで、本来は刺さるはずのない石の置物に針を突き刺したらしい。
さすがに目を丸くするリリアナを見て、カマキリは面白そうに笑ってみせた。
「技術によるが、慣れりゃあ十メートル先まではこれで標的を殺れる」
他にも、カマキリは様々な道具を見せてくれた。恐らく、貴族子女の中で暗殺者から直接暗器の指南を受ける者はリリアナ以外にないだろう――そう思うと、リリアナは失笑しそうになる。だが、やはり敵のことを知ることで対抗策を打ち立てることもできるだろう。
「あとは、お姫さんの体力勝負だな。ヤバいと思った時に逃げる体力と、助けが来るまで死なねェように戦えるだけの剣術と体術」
これは必須だ、と言うカマキリに、リリアナは当然だと頷いてみせた。にっこりと笑って、〈貴方にもご教授いただけたらと思うのですが、如何でしょう?〉と尋ねる。どうやらほんの数刻でリリアナの性格を把握したらしいカマキリは苦笑しつつも直ぐに頷いてくれた。
「護身用の得物もお姫さん用に準備してやるよ。金払いも良いからな、これは餞別だ」
〈まあ、それは有難いですわ〉
リリアナは本心から笑む。一瞬カマキリはその表情に目を奪われたようだったが、すぐに気の毒そうな視線を背後の護衛二人に向けた。だが、何も言わずに気を取り直して「あとは」と言葉を続けた。
「手近にある物を武器にする方法も、ついでだから教えてやるよ」
〈それは興味がございますわね〉
あくまでもリリアナは真顔だ。
常に武器が手元にあるわけではない。だが、敵はリリアナが武器を手にするまで待ってくれるわけではない。魔術を使えるから不要ではあるものの、万が一魔術を使えなくなった場合にある程度は闘えるよう備えておいた方が良いのは確かだ。
(それに、武術と魔術を組み合わせられるようになりましたら、わたくしの弱点も克服できるでしょうし)
さすがに、本格的に訓練を積んでいる騎士や百戦錬磨の傭兵、そして暗殺者を相手に武術や体術で勝てるはずもない。リリアナの特技は魔術だが、武術と魔術を組み合わせることで攻撃の種類も範囲も格段に広がるはずである。実際に、数はそれほど多くないものの、魔導剣士と呼ばれる存在がスリベグランディア王国にも居る。彼らは優れた剣術に自らの魔術を重ね、恐ろしいほどの戦闘力を有していた。
体力や剣術は彼らと比べて格段に劣るだろうが、護身術程度の武術であろうが魔術を組み合わせればそれなりには戦えるようになるはずである。それに、その方が敵の意表を突けるに違いない。敵の裏を掻くことは戦術として有効だ。
リリアナは喜々としてカマキリの講義を受け、積極的に質問を重ねる。そうしてリリアナが全ての講義を終えるまでに、およそ三ヶ月の時間がかかった。そして同時に、リリアナは秘密裏に魔術と武術を組み合わせた訓練を行う。理論はカマキリから習ったが、魔術を使えないと思っているカマキリに実技の教えを請うことはできなかった。
最終日、リリアナに見送られることとなったカマキリは苦笑を漏らしてしみじみと呟く。
「貴族のお姫さんにしちゃあ、筋が良くて驚いたよ」
〈色々と教えていただき、ありがとうございました。とても勉強になりましたわ〉
リリアナのお礼を聞いたカマキリは肩を竦める。あまり褒められることに慣れてはいないらしい。また会えれば良いが、リリアナは貴族であり、カマキリは引退したとはいえ元々裏社会に生きる男だ。きっとそんな日が来ることはないだろう――リリアナは、そう思っていた。