11. 鼠の小屋 1
暗闇の中、ジルドは目を瞬かせた。飲んでいたスピリタスの瓶を足元に転がし、舌打ちを漏らして立ち上がる。ベッドの横に立てかけていた剣を片手に部屋を出た。
月の綺麗な晩だった。星が輝き、遠くには僅かに照らし出された王都の塔が見える。
「ったく、飽きねェなァ」
たまには休めと思うが、恐らく雇い主が別人なのだろう――そんなことを、気配を消しているつもりらしい暗殺者たちに思いながら、ジルドは気配を消す。武術に特化した傭兵であるジルドは、魔術は使えないもののその身体能力は抜きん出ていた。本業は傭兵稼業であり白兵戦を得意とするが、暗殺者の対処も一通り心得ていた。
気配を消して、ジルドは胡散臭い気配がする方へと近づく。本業であるにも関わらず、クラーク公爵邸に忍び込んだ暗殺者はジルドが接近していることに気が付いていない様子だった。
(下の上が一人と下の中が一人、ってとこかィ――)
数日前に相手をした暗殺者は下の下だった。その前は中の下。どうやら最近は碌な奴が居ねェらしい、と内心で呟きながら、ジルドは木の上に身を隠した“下の中”の背後に近づく。音もなく彼は地面を蹴り、一飛びで暗殺者の背後を取った。相手が気付いた瞬間にはその屈強な腕を相手の喉に絡ませ絞める。声もなく相手の意識と体を落とし、次の標的に狙いを定める。
“下の上”は、ジルドが肉薄する前に気が付いた。
「おっ――と」
茂みに隠れた暗殺者が投げた三つのナイフを軽く躱し、その勢いでジルドは宙に飛ぶ。敵は茂みに隠れている方が不利だと判断したのか、短剣を逆手に構え姿を現した。
(――毒、)
剣の形状から、どうやら短剣には毒が塗られているようだと推察する。命に関わるものかもしれないし、神経毒かもしれない。いずれにせよ切っ先に触れてはならない。
「――まァ、関係ねェけどよォ」
にやりとジルドは笑う。獰猛な牙が月光の下に晒される。剣を抜くことすらせず余裕を見せるジルドに、わずかに暗殺者が怯んだ――その瞬間を、ジルドは見逃さなかった。全身を研ぎ澄ましていたジルドの体が一瞬にして敵の間近に迫る。正面から迫るジルドに向け、反射的に暗殺者は短剣を振るったが、それこそジルドの狙い通りだった。ジルドの体が地面に沈み、長い脚が回し蹴りの要領で暗殺者の足を狙う。敵も咄嗟に避けたが、体勢は崩れる。地面に深く沈んだ体勢から飛び上がり暗殺者の背後に回ったジルドは、短剣を握った敵の右腕を背中に捻り上げていた。
「ぐぅ――っ!」
短剣を取り上げ肩の関節を外し、ジルドは刃に塗りつけられた毒を嗅ぐ。
「神経毒か」
手足が麻痺する毒を仕込んでいたらしい。
「これ、お前に試したら、喋れなくなるわけかィ?」
「――っきさ、ま――!」
「喋れンなら試してみてェンだけどよォ」
痛みに歯を食い縛り、肩越しにジルドを睨もうとする暗殺者を全身で抑えながらジルドは短剣を放り投げる。そこへ、男にしては高めの声が響いた。
「ちゃんと背後を吐くまでは丁重に扱え、ジルド」
「見てねェで手伝えや」
ずっとジルドと暗殺者の攻防を眺めていたらしいオルガは、苦笑しながら「暗殺者はお前の方が適任だ」と肩を竦めた。手にはちゃっかり縄を持っている。
「もう一人は?」
「縛って転がして来た」
どうやら、オルガはただ眺めていたわけではないらしい。ジルドは多少機嫌を直し、オルガから縄を受け取ると手早く下手人の体を縛った。
「捕まえても、多分裏は吐かねェぜ?」
「報告書に書く必要があるだろう。――おいお前、まさか書いてないとか言うか」
「――――まとめて出しゃ良いんだろ、まとめて」
口をへの字に曲げて苦々しく言うジルドを見たオルガは深い溜息を吐く。だが、ここで「自分が代わりにやる」とは言わなかった。暗殺者を発見し捕縛したのはジルドであり、オルガではない。報告書を出すまでが彼の仕事だ。
ジルドは片手で暗殺者を抱え、もう一人の暗殺者も拾いに向かう。さっさと二人を牢に閉じ込めて話を聞き、適当に処分するつもりだった。
「他のお貴族様の屋敷でも、こんなに暗殺者が来ることねェぞ」
オルガと別れて暗殺者たちをもてなした後、部屋に戻るジルドは憮然と呟く。貴族の屋敷に厄介になったことはほとんどないが、傭兵仲間の話を聞いてもこれほど物騒な環境で暮らす貴族はいない。その上、暗殺者たちは下請けらしく、本当の依頼主を知らない。
これは早急に手を打たないと自分の睡眠と酒を楽しむ時間が奪われる。ジルドは眉間に皺を寄せて、苦手な思考に更ける。そして、ふと一つの紙きれを思い出した。
「――そうだった、これの結果聞きに行くついでで、どうにかなるんじゃねえか」
ポケットに突っ込んだままの紙切れを引っ張り出す。くしゃくしゃになり殆ど文字も読めなくなっているが、そこに何が書かれているかは覚えている。
――タナー侯爵領に出入りしている商人について。
リリアナに調べて欲しいと言われていた案件だ。
*****
休暇を取ったジルドは、日が傾く頃に不機嫌な顔で王都郊外にある馴染みの店に立ち寄っていた。裏通りに面した店は入り口が小さく、普通に歩けば見過ごしてしまうように隠れている。実際、その店に用があるのはごく限られた客だけだった。
「よォ」
「来たか」
「来たか、じゃねェよテンレック。相変わらずしけた面してんな」
テンレックと呼ばれた壮年の男は、毒づくジルドを面白そうに見やった。中肉中背で髪の色は渋い灰色と、地味で目立たない風貌だ。体つきもジルドと比べると華奢で、平民がひしめく往来を歩けばあっという間に姿を紛れ込ませてしまう。物陰に隠れ存在も感じさせない。だが、その冴えない見かけで判断すると非常に危険な男であることも事実だった。だから、仲間は男のことを一種の畏怖も込めて鼠と呼んでいる。
ジルドは彼の本名を知らない。古い知人の一人であり、彼の能力が飛び抜けていることは良く知っていた。
「あの狼狩人がとうとう飼い主を見つけたって、界隈じゃあ有名だぜ」
「んな訳あるか。魔物襲撃に巻き込まれて金がねェんだよ」
「そういうことにしておいてやる」
ニヤニヤと楽し気に笑っている男は全てを把握しているに違いないと、ジルドは苦い顔を隠せなかった。ジルドをクズリと呼ぶのもそのせいだ。一時期同業者から恐怖の眼差しと共に呼ばれた異名は既に封じているというのに、テンレックは時折嫌がらせのようにその名を口にする。
だが今更文句を垂れることもできなかった。そもそも依頼した内容が内容だ。貴族を毛嫌いしている男が何故そんなことに気を回すのか――と考えれば、答えは自ずと明らかだということに違いない。
「まず一つ。お前からの依頼分だ」
そう言って差し出された紙を、ジルドは乱暴に引っ掴む。ちらりと内容を斜め読みして、彼は鼻を鳴らした。
「許可証、持ってたのか」
手渡されたのは、国外の商人がスリベグランディア王国内で商売を許可する許可証の写しだ。恐らく原本を魔術で複写したものだろう。勿論、本来の持ち主には内密に行われたに違いない。
「ああ。だが、お前の雇い主は面白いところに目を付けたもんだな」
「――どういう意味だ?」
ジルドがテンレックに頼んだのは、タナー侯爵家が懇意にしているという商人に関する情報一切だった。リリアナから調べて欲しいと頼まれたのは、その商人がスリベグランディア王国内での商業許可証を得ているかどうかという一点だったが、テンレックは昔のよしみで更なる情報を調べてくれたらしい。
テンレックは酒の瓶を掴み、一口煽った。本心を悟らせない曖昧な表情で淡々と言葉を続ける。
「その商人はユナティアン皇国の布製品を扱ってる。が、接触している客が偏ってんだよ。まァ、お貴族相手の商売ってのは知り合いに紹介して貰うのを繰り返して販路を増やすもんだって相場が決まってるからな、そう考えれば妙ではないかもしれんが……それにしても偏りが激しい」
「具体的には?」
「国王派と旧国王派の貴族には一切、近付いてない。近づいてる場合は、次期当主が中立派だ」
思わぬ説明に、ジルドは歯を剥く。
「――面倒臭ェな」
「俺としては関わらないほうが良いと思うが、お前の雇い主としてはそうもいかねえだろうなぁ」
国王派は現国王とその嫡男であるライリーを正当な王家として支持する派閥である。
一方、旧国王派はエアルドレッド公爵家が正当な王族であると主張する派閥だ。遡れば、先々代の国王――即ち、鬼神と呼ばれた先代国王の父王の時代に辿り着く。先々代の国王には、同い年の男兄弟が居た。双子ではない。先々代国王は王妃の息子であり、兄弟は妾の息子だった。問題は、王妃が他国の王族であり、妾がスリベグランディア王国の公爵家令嬢だったことだ。妾の実家は祖先を追うとスリベグランディア王国の王族に辿り着く。そのため、旧国王派はエアルドレッド公爵家に正当な王位継承権があるとしていた。即ち、他国の王女との間に出来た子よりも、祖先に我が国の王族を持つ公爵家令嬢との間に生まれた子供の方が血が濃い、ということである。
そして、エアルドレッド公爵家が管轄している領地を治める貴族たちで構成されているアルカシア派は、大多数が旧国王派だった。
スリベグランディア王国の二大派閥である国王派と旧国王派の貴族を除いて商売をするなど、不自然極まりない。自ら客を絞っているようなものである。他に目論見があるのではないかと懸念を抱いてもおかしくはない。
だが、ジルドは苛々と溜息を吐いて小さく首を振った。考えるのは性に合わない、と言わんばかりである。
「まァ良い、俺の仕事は情報を嬢ちゃんに渡すことだけだ」
「随分懐いてるな」
「目が腐ってやがんじゃねえのか」
吐き捨てるジルドを楽し気に見やり、テンレックは笑いながら足を組んだ。
「お前が王都で一年間、護衛の仕事をするって子鼠から聞いた時は、別人じゃないかと思ったもんだが」
「――――二度と来るつもりはなかった」
「だろうな。だが、色々話を聞いて思った。面白い雇い主見つけたじゃないか」
「しつけェ」
今度こそ、テンレックは声を立てて笑った。非常に愉快そうな様子に、ジルドの機嫌は更に低迷する。しかし、テンレックは全く気に留めなかった。しばらく笑い続けていたが、ジルドの「それだけか?」という視線を受けて、ようやく笑いを引っ込めた。真面目な表情で鋭くジルドを見やる。
「もう一つ――あの一族が動き始めた。気を付けろ」
「火元は?」
「そりゃもう、至る所から」
テンレックはお道化て肩を竦める。ジルドは睨みつけるようにテンレックから目を離さない。
「どっちが動き始めた?」
「両方」
あっさりとした答えだ。ジルドは痛烈な舌打ちを漏らす。
「十七年前と一緒か」
「あの頃より悪いだろうな」
「ンだと?」
ジルドが目を眇める。テンレックは意味深にジルドを見やり、更に声を潜めた。
「一昨年に、上が代替わりしたらしい。お陰で本家と分家が対立状態だ」
「混乱するってことか」
「残念ながらな。面倒が嫌なら王都から離れた方が良い――と言いたいところだが、国境も危ないだろうな」
沈黙が落ちる。ジルドが放った殺気が店内の温度を下げる。
テンレックが告げた内容は、ジルドにとっては衝撃だった。歴史の表舞台には決して出て来ないあの一族は、しかしだからこそ時代に影響を与える。ジルドは直接関わらなかったものの、十七年前の政変の折には“あの一族”が時の国王を勝利に導いたのだとすら実しやかに囁かれていた。
「それは情報があってのことか? それともテメェの直感か」
「まだ俺の直感だ」
ジルドは溜息を吐く。苦々しい表情は未だ健在だが、殺気は収まっていた。舌打ちを漏らし、乱暴に頭を掻く。テンレックはそんなジルドを見て、再び笑みを浮かべた。以前までのジルドであれば、一も二もなくテンレックの言葉を聞いて王都を離れたに違いない。だが、今のジルドがその道を選ばないだろうことは、テンレックも気が付いていた。
「――当然、お前の雇い主も身辺が騒がしくなるだろうな」
何と言っても婚約者候補筆頭だ、とテンレックは嘯く。ジルドは顔を顰めた。少し考えて、ジルドはテンレックに尋ねた。
「もし、嬢ちゃんが言ったらの話だが――影を用意するならどれだけ集められる」
その問いはテンレックにとって予想外の質問だったらしい。一瞬目を見開き、彼にしては珍しく言葉を失う。やがてほとほと呆れたような表情になり首を振るが、ジルドが本気だということは理解していたようだ。静かに首を振る。
「今はどこも人手が足りない。魔物も増えてるし、優秀な奴らはたいてい何処かに手が取られてる。俺が声を掛けても長期間働ける奴は一人か二人、ってところだ」
「足りねェ」
不十分だ、とジルドは唸る。予想していたのか、テンレックは肩を竦めた。少し考えて、ジルドは更に尋ねる。
「それなら、嬢ちゃん本人に訓練を付けられる奴は?」
「本気かよ」
「その方が手っ取り早い気がして来たぜ」
テンレックは今度こそ呆れ顔を隠さない。ジルドは至極真面目な顔で頷いた。
下手に技術の足りない影や護衛を付けるよりも、リリアナ本人が技術を高めた方が生存率は上がるのではないかと思った。ジルドとオルガが教えられるのは、暗殺者や間諜への対処法でも騎士としての戦い方でもない。武器を持った敵が襲って来た場合の、逃げるための護身術程度である。だが、“あの一族”が動き出したというのであれば、暗殺者や間諜の技術に通じた人物の教えを乞うのが確実だ。
普通の貴族令嬢であれば不可能だろうが、リリアナならばできるのではないか――魔物襲撃の時からずっとリリアナを間近で見て来たジルドがそう思うのも無理はなかった。
だが、情報としてだけリリアナ・アレクサンドラ・クラークのことを知っているテンレックが俄かに信じられないのも致し方ないことだ。ジルドは無言でテンレックの言葉を待つ。テンレックは唖然としていたが、しばらくして額に手を当てて小さく首を振った。
「頭でも打ったか、って言いたいところだが」
「本気だ」
「余計に性質が悪いぜ」
溜息を吐いたテンレックだったが、少し考えて口を開く。
「それなら、カマキリはどうだ。金は高いが技術的にも身分的にも問題ないだろ」
「カマキリか――確かに、あいつなら良いんじゃねえか」
ジルドも頷く。決まりだ、と言うテンレックに、ジルドはリリアナに確認してからだと念を押す。勿論だと請け負ったテンレックに、ジルドは礼を言った。
「確定したらまた連絡する。カマキリにはその後に言っといてくれ、押しかけられたら不味い」
「分かってる」
テンレックが頷いたのを確認してから、ジルドはポケットから礼金を取り出す。袋に入ったままテンレックに放り投げると、テンレックは難なく左手で袋を掴んだ。机の上に金をばらまき、金額を確認する。そしてニヤリと笑った。
「まいどあり」
ジルドは無言で踵を返すと、店を出て行く。気配が店の前から消えたところで、テンレックは表情を消した。途端に、存在感が薄くなる。
「おい」
声を掛けると、部屋の暗がりから小さな人影が出て来た。テンレックはそちらを見ずに告げる。
「カマキリの居場所を探しとけ。それから、デス・ワームもだ」
「――奴は今、分家の仕事を手伝ってるはずですが」
テンレックの言葉に、小さな人影は一瞬躊躇う。だがテンレックは構わなかった。
「引き抜きの話が出てるとでも伝えてやれ」
「承知」
小さな人影は、するりと店から出て行く。その後ろ姿を見送ったテンレックは葉巻を捨て立ち上がった。ジルドの前では見せなかった、見る人を総毛立たせるような暗い笑みを浮かべて嬉しそうに呟く。
「さあ、稼ぎ時だ」
その言葉は誰もいない、暗い空間に響いた。