3. 王宮 1
リリアナが病から回復し――即ち、声は失ったままであるものの、病に罹る前と同じくらいには活動できるようになってから一週間。リリアナは困ったような表情で、目の前に立つ戸惑いを隠せない侍女のマリアンヌを見上げた。
「ええ、ええ、お嬢様――おっしゃりたいことは良く、このマリアンヌも存じております」
リリアナの手元にあるのは、王都に居る父からの手紙である。存外動きが早かったな、という内心を押し隠し、リリアナはこの一週間で身に着けた「はかなく上品な中にも感情を表すが、貴族令嬢としての礼節の域を出ない表情」という高等技術を披露した。
(声が出なかろうと、王太子との婚約は白紙撤回しない――このまま婚約は継続するということね。お父様も、欲が深いわね)
すぐにでも婚約を解消したいと思っていたリリアナにとっては悪い報せだ。だが、その続きに書いてある内容は多少、リリアナの心を軽くさせるものだった。
(それでも、あと四年。わたくしが十歳になるまでに再び話せるようにならないのであれば、婚約解消もあり得る――ということは)
たとえ早々に声が出るようになっても、喋らずにいれば済む話だ。そうすれば、自動的にリリアナの婚約は解消となる可能性が高い。ゲームが開始したのはリリアナが十三歳の時、そして婚約破棄され破滅したのは十六歳の時だから、十分である。「解消する」と断定的に書かれていないところが気にかかる点だが、リリアナの父親は合理的で利益を重視する。どうにかして、王太子の婚約者候補にリリアナを残したいのだろう。
だが、現実はそこまで甘くないはずだ。
(わたくしの声が失われたままでしたら、お父様の思惑から外れることになる――十歳でわたくしは家なき子になる可能性が高いわね。願わくば、修道院に行けましたら宜しいのですけれど)
厳格な父親が、王太子の婚約者の座から滑り落ちた娘をいつまでも家に残しておくとは思えない。仮に良い縁談先を見つけられなかった場合、早々に厄介な存在として公爵家から放逐されることもあり得る。
もしリリアナが伯爵や子爵の令嬢であれば、政略結婚と称し公爵家に嫁がせることもできただろう。だが、残念なことにリリアナは三大公爵家の一つであるクラーク公爵家の令嬢だった。その上、話すことのできない令嬢を貰い受けたがる家があるとは思えない。あるとすれば、碌でもない腹しか持っていないに違いない。
「お嬢様、旦那様のお言いつけ通りですと明日は朝早く出立せねばなりません。どのドレスをお召しになるか、今から決めていただいた方がよろしいかと存じますが――」
マリアンヌの言葉にリリアナは頷いて手紙をテーブルの上に置き、椅子から立ち上がった。
声が出なくとも構わないから、王太子に会うため王宮に来るように、というのが父親からの連絡だ。会ったところで話はできないだろうに、一体何を考えているのか。そこまで考えて、リリアナはわずかに苦笑を漏らした。
今までも――声が出ていた時でさえ、リリアナは婚約者であるライリーとあまり話さなかった。共通の話題もなく、互いによそよそしかった。
(ゲームのリリアナも、確かにあまりライリー殿下と親しい設定ではなかったわよね。その割には、リリアナは殿下に執着していたようだったけれど。恐らく、ゲームの設定として必要だったのでしょう)
今のリリアナはゲームを思い出したせいか、それほどライリーへの執着心がない。
リリアナはマリアンヌを伴い、寝室に隣接したクローゼットルームに入ると、ざっとドレスを見て一番シンプルなものを選んだ。元々、リリアナは華美な服装が好きではない。ゲームのリリアナは華美でありかつ色気を意識していたはずだが、現実のリリアナは違った。
(もしかしたら、ライリー殿下への思慕を募らせるあまりに、衣装に凝ったのかもしれないわね)
他人事のように思いながら、ドレスに合わせて宝飾品も選ぶ。極力シンプルに揃えると、マリアンヌは楽しそうに笑みをこぼし、「きっとお嬢様にお似合いですわ」と告げた。リリアナは微笑を浮かべる。
あっさりと服を決めたリリアナは紙とペンを取り出して、マリアンヌにお茶を持ってくるよう頼んだ。
*****
翌日、リリアナは朝から王宮に向け屋敷を出た。
クラーク公爵家は、国境を守る領地の他、王都中心部と郊外に屋敷を構えている。リリアナが現在暮らしているのは王都郊外の屋敷だ。父親は仕事のため王都中心部の屋敷に滞在し、母親と兄は領地に住んでいる。祖父母は領地の屋敷だが、母親と兄とも違う邸宅で過ごしていると聞く。
王都郊外の屋敷は、リリアナが二歳になった時、王妃教育に利便性の良い場所――という意図で手が入れられた。元々はリリアナの叔父が住んでいたが、リリアナが生まれる前に亡くなってからは屋敷も放置されていたらしい。叔父が贅沢を好まなかったためか、領地にある屋敷と比べたら当然に、そして王都中心部にある屋敷と比べても手狭だ。とはいっても、一般的な屋敷と比べると広大であることに変わりはない。
侍女であるマリアンヌは留守番だ。代わりに、父親から寄越されている護衛二人を随行させる。
(心底、面倒だわ)
リリアナは辛うじて溜息を堪えた。下手なふるまいをすれば、馬車の御者席と後方に乗っている護衛に勘付かれる可能性がある。そうすれば、父親に報告が行くに違いない。リリアナにとって、“家族”とは決して落ち着ける場所ではない。
外から中が覗けないように下ろしたカーテンの隙間から、リリアナは外を眺める。空は嫌味なほどに晴れていた。
(雨だったら余計に気が滅入ったでしょうね。そう考えると、晴れて良かったのかもしれないわ)
早朝に屋敷を出ると、王宮に到着するのは昼過ぎだ。父親の手紙では、昼食に関しては記載がなかった。
元々、食事にそれほど興味がないリリアナにしてみれば特段気にすることでもなかったが、気を利かせたマリアンヌが持たせてくれた軽食のサンドウィッチを馬車の中で摘まんだばかりだ。小腹は満たされているから、食事が出されても出されなくても夕食まで十分しのげるだろう。
リリアナを乗せた馬車は王門を通過し、一般貴族が乗り入れできない場所まで馬車を進ませる。顔なじみになった王宮の騎士に挨拶をして、リリアナは護衛を待たせたまま中に入った。これまた馴染みの侍女が、待ち合わせ場所まで誘ってくれる。
向かう先は王族や限られた貴族のみが立ち入りを許されたサロンだ。普段であれば王妃教育の休憩時間に立ち寄る場所である。
「今しばらくお待ちください」
案内をしてくれた侍女が綺麗な所作で一礼し、入れ替わりに近づいて来た侍女が紅茶と菓子をテーブルの上に置く。コップは二セットある。リリアナと王太子の分だ。
さすがに王太子が来ない状況で飲食するわけにはいかない。リリアナはその場に立ち尽くしたまま、サロンに面する美しい中庭を眺めた。
中庭は四季折々の花が植えられていて、中央には噴水がある。時折、小鳥が飛び立ち、見ているだけで楽しい。中庭の先には、確か温室があったはずだ。そこでは薬草が育てられているという。好き勝手に入れる場所ではなく、事前に許可を得て、管理者の誰かと同行することが条件となる。リリアナもかつて一度だけ行ったことがあった。
(――あら?)
何気なく庭を眺めていたリリアナは首を傾げる。以前は気が付かなかったが、中庭には結界が張られている。温室の結界が一層強いものであるのは当然だと思うが、噴水の周辺も結界が強化されていた。
(独学とはいえ、魔術の訓練がさっそく活きるとは思いませんでしたわ……)
リリアナ・アレクサンドラ・クラークは魔術の才に秀でていた。
ゲームは恋愛に焦点が当てられていたため、わざわざヒロインの敵役である悪役令嬢の能力を取り上げることはない。だが確かに、風魔術が得意であるリリアナが闇魔術を駆使できるというゲーム設定は妙だった。冷静に考えると、リリアナにそれだけの力があったという結論に至る。
実際に、リリアナはこの一週間で魔術の能力を開花させていた。無詠唱で自由自在に魔術を使えるだけでなく、多少の得手不得手の差はあるものの、ほぼ全属性の魔術を使えることは確認済みだ。
結界を視認するには一定レベル以上の魔術能力が必要であるとされる。特に王宮に張られている結界は高度な術式を用いており、闇魔術をベースとした幻術を併用することで結界を見え辛くしている。そのため、結界を視認するためには魔導省に属する魔導士レベル――即ち、スリベグランディア王国の上位数パーセントに入る魔術の能力が必要だ。
だが、リリアナは既に難なくそのレベルを使いこなしていた。
(幻術――幻視の術は、蜃気楼と似て非なるものですけれど、畢竟、光の屈折率の問題ですわ)
結界の張り方に疑問は残るものの、今その謎を解明する時間はない。
リリアナは少し離れた場所から自分の方へ近づいて来る気配を悟っていた。ゆっくりとそちらに体を向ける。
それから数分後――リリアナの視線の先には、彼女の婚約者であるライリー王太子の姿があった。