80. 進軍 4
リリアナの身支度は、存外早く済んだ。騎士服は当然持っていないため、手持ちの衣服の中で最も簡素で、動きやすいものを選ぶ。とはいえ、公爵家の令嬢が保有している衣装の中で戦場に相応しいものなどあるわけがない。しかし、リリアナは全く構わなかった。
「この格好で行けば間違いなく目立ちますよ。悪目立ちというか」
頭が痛い、という表情で言うのはベン・ドラコだ。オルガは勿論、ベン・ドラコまでが、リリアナがケニス辺境伯領に行くのならば同行すると言い張っていた。
「間違いなく最初に標的になるでしょうね。どう考えても騎士でも兵士でもないですし。魔導士というには地位が高くみえますから」
オルガも真剣、もとい深刻な表情でリリアナの全身を見つめている。しかし、リリアナは笑って二人の懸念には取り合わなかった。
「攻撃がわたくしに向いたら、それはそれで良いことだわ」
リリアナは勿論本気で言っている。敵の気がリリアナに向けば、これ以上戦いやすいことはない。自分に向けられる敵意全てに反撃すれば良いだけだからだ。しかし、そんなリリアナに不安しかないのか、ベン・ドラコとオルガは複雑な表情を隠さなかった。
それでも、二人共リリアナとは長い付き合いだ。リリアナが言い出したら聞かない性格であることは重々承知している。ここは下手に反対して一人で戦地に赴かれるよりも、随伴してリリアナの身を護った方が良いという判断に至ったようだった。
オルガとベン・ドラコの魂胆にリリアナは気が付いていたが、ケニス辺境伯領に行けるのであれば供が居ようと構わない。必要とあらば、オルガとベン・ドラコを振り切ることなど容易いのだから、今のところは二人の好きにさせるつもりだった。
「準備はよろしくて?」
リリアナはオルガとベン・ドラコの不安をあっさりと無視するように笑み、小首を傾げてみせた。諦めたように、二人は首を縦に振る。
転移陣も、詠唱ですらリリアナには必要ない。転移の術を使うベン・ドラコやペトラ・ミューリュライネンでさえ他人と共に詠唱する時は直ぐ傍に居る必要があるが、最早リリアナにとってはそれすらも不要だった。
誰を転移させるか、誰と一緒に転移するのか。それさえ決めてしまえば、後は魔力を練り術式の通り動かすだけだ。
「それでは参りましょう」
その台詞と共に、リリアナとベン・ドラコ、そしてオルガの姿は王宮から消える。王宮に張られた結界は、内部で使われる魔術さえ抑制する。しかし、リリアナはそんな制限など傍からなかったように、あっさりと術を成功させた。
*****
転移を成功させたリリアナは、転移が完了した途端に自分とベン・ドラコ、オルガの周囲に防御結界を張る。勿論、ベン・ドラコもオルガも、すぐにリリアナが為したことに気が付いていた。
ベン・ドラコは呆れた目をリリアナに向ける。通常、大掛かりな魔術を連続して行使することなど出来ない。大掛かりな魔術は一つ行使するだけでもかなり精神力が必要とされるため、二つ目の術を行使するに当たっては多少の時間をおいて精神力を回復させなければならないのだ。それに、そもそも普通は魔力が枯渇するからでもあった。
勿論、防御結界も一般的なものであればそれほど魔力を消費することはない。だが、リリアナが今張った防御結界は、魔術攻撃や物理攻撃の一切を無効化し敵に反撃するという、かなり高精度なものだった。
「――ここまでする必要あるか?」
周囲を見回したベン・ドラコは、呆れに満ちた口調で尋ねる。リリアナがどこを目標地点にしたのかベンたちは知らないが、三人はどうやら王国軍の本陣が見える程度の位置に転移したらしい。
「攻撃が飛んで来ないとも限らないでしょう。転移直後の事故が一番多いのではなかった?」
リリアナは平然としている。ベン・ドラコは一瞬言葉に詰まった。リリアナの発言は、最近魔導省から発表されたばかりの研究論文の内容だった。
「まぁそれは確かに、その通りだな」
だからといって、無詠唱で三人同時に、遠距離の転移を成功させた後、防御結界を張る芸当など誰もやろうとは思わない。実質的に不可能だからだ。
ベン・ドラコはどこか諦めたような面持ちで、自分たちを囲む結界に目を向けた。
「随分と高性能な結界だな。どういう術式使ったか、戻ったら教えてくれる?」
「相変わらずですわね。構いませんわよ」
戦場だろうが研究室だろうが、ベン・ドラコの行動原理は変わらない。興味を引かれる魔術があれば熱中するのがベン・ドラコだ。その性質はベラスタも同様だが、ベラスタより年長で人生経験も豊富だからか、一応は自分が置かれた状況を理解し行動することができる。
「よし。なら取り敢えずは敵をさっさと叩きつぶそう」
あっさりと気持ちを切り替えたベン・ドラコが言えば、リリアナは苦笑した。先ほどまで、王宮の部屋でリリアナが戦場に赴くことに難色を示していた男の台詞とも思えない。オルガもリリアナと同じような心境だったようで、横目でベン・ドラコを睨んだ。
オルガの視線に気が付いたベンは片眉を上げる。そして、飄々とした口調で言った。
「来てしまったのはもう仕方ないし、このお嬢さんも引く気はない、となるとさっさと終わらせるに越したことはないよな」
「――甚だ不本意だが、同意はする」
ベンの言葉に、オルガは苦虫を噛み潰したような表情で頷いた。そして、オルガは目を眇めて周囲を確認する。目で視認できる範囲では、辛うじて戦いの気配が見えるだけだ。詳細な戦況や、どこに誰が居るのかまでは分からない。それでも、オルガは百戦錬磨の傭兵である。戦場ではリリアナを先導し、その身を護る役目が己にあると自覚していた。
だが、リリアナはここでもオルガの予想を超えた。何をしていたのかオルガには分からなかったが、おもむろに一方向を指し示す。
「わたくしはあちらに参ります。オルガは付いて来てくれる? ベン・ドラコ、貴方はあちらへ」
リリアナがベン・ドラコに示したのは、自分がオルガを引き連れ向かうと言った場所とは違う方向だった。思わずベンは渋面になる。ベンもまた、オルガと同様リリアナの身を護るためにこの地へ来たのだ。それにも関わらず別行動を指示されては、本来の目的を達成できないと思ったのだろう。
実際、ベンが口にした反論はその通りのことだった。
「僕が君と別行動なんて意味がないだろう。僕は君の無茶を止めに来たんだ。君を危険から守らないといけない」
だが、リリアナは動じなかった。ふっと笑みを浮かべて、自分より身長の高いベン・ドラコを見上げる。
「わたくし、ジルドのところへ行きますの。そちらに居る皇国軍は魔術が効きませんのよ。でしたら、オルガが適任でしょう。貴方には殿下の助太刀に入って頂きます」
リリアナの言葉に、さすがのオルガとベンも絶句する。
百戦錬磨のオルガと天才魔導士のベンですら、そこまで細かいことは分からない。それにも関わらず、リリアナはあっさりと戦況を理解していた。まるで既に見て来たようだ――と考え、ようやくベンは一つの可能性に思い至った。
「――魔術か」
身体強化に似た術でも使ったのだろうと、ベンは見当をつけた。リリアナは微笑を深めるが、答えはしない。
元々、索敵や探索、遠耳といった術を駆使してきた。今回もそれらの術を無詠唱で瞬時に発動させ、状況を確認しただけだった。
尤も、通常であればそれらの術を使ったところで、正確に状況を理解できるわけではない。入手できる情報が多ければ多いほど、その処理や正確な判断は難しくなる。しかし、リリアナはそれを難なくこなしていた。
「行ってくれるわね?」
リリアナは詳しいことは言わず、再度ベンに言う。ベンは肩を竦めたが、諦めたわけではなかった。
「魔術が効かないならなおさら、君が行くわけにはいかないだろう。君から魔術を奪えば、僕以上に非力だ」
オルガもベンに同意するように頷いている。
確かにリリアナから魔術をなくせば、非力な少女でしかない。ジルドたちが戦っている相手はアルヴァルディの子孫であり、身体能力も高く、普通に考えればリリアナは一瞬にしてその命を奪われるだろう。
しかし、リリアナは引くつもりはなかった。
「ええ、その通りですわね。でもわたくし、負ける戦はしないことに致しましたの」
おっとりと聞こえる口調で、リリアナは言う。ベンはそんなリリアナに胡乱な目を向けた。あまり信用されていないらしいと、診れば分かる。しかし、だからと言ってリリアナが前言を撤回することはない。
穏やかな笑みを浮かべ続けたまま、リリアナはベンに言い聞かせるように言葉を続けた。
「ウィルの方は善戦しています。まだ余力はあるでしょう。けれど、ジルドの方は随分と苦戦を強いられているようです。ジルドたちが破れてしまえば、魔術の影響を受けない敵兵がウィルたち本隊へと向かう。それは避けねばなりません」
「――君がその、ジルドでさえ苦戦する相手をどうにかできると?」
ベンの声は、これまでに聞いたことがないほど低くなっていた。魔術にしか興味のないベンは、基本的に怒りを露わにすることはない。しかし、今のベンは間違いなく腹を立てていた。
リリアナが自ら死地に飛び込もうとしているように見えるのだろう。
しかし、リリアナは自信ありげに微笑んでみせる。
「ええ、勿論。それではベン、また後ほど」
優雅な挨拶と共に、リリアナとオルガ、そしてベンの姿が同時にその場から消える。三人はリリアナが目論んだ通りの場所へと転移していた。
瞬きをした一瞬で、ベンは王国軍本隊のすぐ近くに転移させられていた。眼前には、ケニス辺境伯の後姿が見える。経験を積んだ猛将なだけあり、ケニス辺境伯は侍従より早く、背後に現れた人物に気が付いた。剣に手を掛け振り向き身構える。一瞬遅れて辺境伯の周囲を見守っていた騎士たち反応するが、そこに居るのがベンだと気が付いた瞬間彼らは愕然と目を瞠った。
「くっそ、同時転移とかあいつ何考えているんだっていうかいつの間にこんな事出来るようになったんだ――!」
がりがりと両手で頭を掻きむしりながら、ベンが毒づく。しかしベンの呟きの内容よりも、ケニス辺境伯たちはベンが突然姿を現したことの方に気を取られていた。
「ベン・ドラコ殿、か――?」
幻覚ではないだろうなと、ケニス辺境伯が確認するように呟く。深々と溜息を吐いたベンは、取り敢えず後であのお嬢ちゃん締める――と物騒な決意を胸に秘め、対外用の笑顔を顔に張り付けた。
「はいどうもー。僕が手伝えることあったら手伝いますけど、まず敵将片っ端から潰せば良い感じですかね? それとも後方支援? どっちでも承りますよ」
投げやりなベンの言葉に、騎士たちは呆気にとられる。さすがのケニス辺境伯も呆気に取られて声が出ない様子ではあったが、堪え切れなくなったのか、やがて腹を抱え呵々と笑い始めたのだった。