10. 魔導士と謎 2
足元の部分が凹んだ扉を見たポールが一瞬口元を引き攣らせる。しかし、ポールは空咳を一つすると、何事もなかったかのように扉を三度、軽く叩いた。
「旦那様、お客様がいらっしゃいました」
「ミューリュライネンとリリアナ嬢だよね? 通して」
「承知いたしました」
ポールに促され、ペトラとリリアナは部屋に入る。室内は雑然としていたが、魔導省の副長官室よりは整頓されていた。恐らくポールが定期的に整理整頓と掃除をしているのだろうとリリアナは推察する。それほど付き合いも長くないのにもかかわらず、何となく普段の様子が想像できるようで、リリアナは遠い目をした。
ペトラとリリアナを出迎えたベン・ドラコは、魔導省で会う時と全く同じ服装――即ちローブを着ていた。ペトラの私服姿は見たことがないが、もしかしたら魔導士は常にローブを着ているものなのかもしれない。そんなことを考えているリリアナに、ポールはソファーへ掛けるよう勧める。どうやら主人は気の利いたことを言えないだろうと気を回したようだ。苦労性の家宰である。ペトラとベン・ドラコもソファーに腰かけ、ポールは手早く紅茶を淹れてくれた。
「この家にはポールしか居ないからね。執事と侍従と家宰と秘書と御者をやってくれてるんだよ。時々庭師と菓子職人と、ついでに護衛も」
「私の体は一つしかないと常々申し上げておりますが。もう少しご自分のことはご自分でなさってください」
「またあのお菓子食べたいな、ババ? だっけ」
「――ラム酒かキルシュヴァッサーを購入すれば作れますよ」
ポールは素っ気なく答える。リリアナは目を瞬かせた。ポールは“ババ”と言うが、ラム酒かキルシュヴァッサーを使った菓子で思い付くのはサヴァランだ。ラム酒はサトウキビを原料とした蒸留酒、キルシュヴァッサーはサクランボを原料とした蒸留酒であり、いずれも紅茶味のシロップを染み込ませ冷やしたブリオッシュに掛ける。その上から果物を乗せればサヴァランと呼ばれる菓子の出来上がりだ。
(そういえば、サヴァランは元々、“ババ”と呼ばれていたんでしたっけ――?)
“ババ”は祖母という意味だ。そして、フランスの食の批評家の名を取ってサヴァランと呼ばれるようになったのが前世での歴史である。前世のリリアナが好んで食べていたかどうかは記憶にないが、一口食べれば口内に酒の香りが広がり、アルコールが苦手な人にはあまり好まれない菓子でもあった。つまり、ベン・ドラコは酒好きなのだろう。もしかしたら、アフォガート――アイスクリームに酒を掛けても好きかもしれない。だが、あいにくとリリアナは生まれてこの方、この世界でアイスクリームを見たことはなかった。東方の書物では乳を凍らせた菓子があるという記載もあったが、真偽のほどは定かではない。高貴な身分の美食家の屋敷では、水魔術を使える料理人がいればシャーベットのような氷菓子が出されているようだが、一般的ではなかった。
しかし、ポールはそれ以上主人の軽口には取り合わず、「仕事がありますので」と告げてさっさと部屋を出て行く。扉が閉められた後、足音が聞こえなくなってからようやくペトラが口を開いた。
「――あの扉、凹んでたけどどうすんの」
「あー、あれねー。ベラスタがやっちゃったんだよね。感情が荒ぶると直ぐに物理に訴えるの、止めた方が良いよって言ったら、更に怒っちゃって」
「怒らせて楽しんでるんでしょ」
「可愛いよね、年の離れた弟って。反抗期だけど」
あ、妹も可愛いよ、とベン・ドラコは悪びれない。無言で二人の会話を聞いていたリリアナは、ベンの言葉に僅かに首を傾げた。妹――という言葉に引っかかる。リリアナの反応に気が付いたのはペトラだった。
「ああ、さっきのベラスタって双子でさ。姉貴のタニアってのも居るんだよ」
「ドラコ家の一番下の子たちで、皆可愛がってるんだよ」
「まあ」
ペトラの解説をベン・ドラコが補足する。リリアナは「可愛らしいのですね」と微笑を浮かべたが、内心ではタニアという名前に反応していた。
(タニア・ドラコ――忘れていましたわ)
ゲームの中で、彼女はベラスタルートのライバル役だ。彼女は悪役令嬢のように破滅の道は進まないが、事あるごとにヒロインを邪魔する。しかし、ベラスタを攻略するためにはタニアの好感度も上げなければならず、ヒロインはタニアと切磋琢磨することで成長する。様々な意味で重要なキャラクターなのだ。タニアは気も強いが、最後にはヒロインと良い友人関係を築き上げることもできる好敵手だった。
「それで、今日の予定なんだけど」
ペトラが口を開く。ベンは「うん」と頷いた。
「大丈夫、全部準備してるから」
「よろしく」
リリアナは、今日はこの屋敷で呪術の実技を受けるという話しか聞いていない。そして、呪術関連の書籍は禁書とされているものも多く、焚書の対象となるものも多い。だが、“研究馬鹿”と自他ともに認めるベン・ドラコはそういった類の書物を優先的に自宅で管理しているのだと言う。
「それに、あんたも呪術の研究してることは知られたくないでしょ? 毎回魔導省に行ってたら、その内バレそうだしね」
ペトラがにやりと笑う。確かに、姿を消しているとはいえ、怪しまれる可能性は上がるだろう。特に魔導省長官であるニコラス・バーグソンはリリアナの父親とも交流がある様子だった。
リリアナは頷いてペトラの指摘を肯定する。
「それじゃあ、始めようか」
ベン・ドラコが立ち上がる。ペトラと共に、リリアナも慌ててベン・ドラコの後ろを追って隣室に通じる分厚い扉を潜った。
******
リリアナがベンの部屋で呪術の講義を受けている頃、屋敷の一階にある部屋では腕を組んだポールが椅子に座ったベラスタを見下ろしていた。
客人たちの前でポールは家宰としての態度を崩さず、ドラコ家の人間に対しても主従の関係性をきっちりと守っている。だが、ベンと乳兄弟として育った彼は、ベラスタにとってはもう一人の“兄”だった。
「さっきの態度は何だ、ベラスタ。相手が公爵令嬢だってこと以前に、人としての礼儀がなってないぞ」
「――だって、あの二人だってオレじゃなくて、兄貴に会いに来たんだろ」
「それと挨拶とは全く別の話だろう」
ポールは溜息を吐く。ベラスタは唇を引き結んで俯いてしまった。六歳になったばかりの少年が、今年二十四歳になる長兄に対し複雑な感情を抱いていることは、ポールも良く知っている。だが、そのせいで一般より早めの思春期を迎えている末子に、ベンだけでなくドラコ家の大人たちは皆手を焼いていた。そのことで余計にベラスタが苛立っているのだが、何分ドラコ家は研究者肌の人間が多いばかりに、少年の繊細な心持ちを理解できる者がいない。
(タニアも、あんな性格だからな)
ベラスタが繊細であるならば、タニアは豪胆だ。言葉も達者で、大人相手にも引けを取らない瞬間もある。ポールにとっては“生意気”だが、年取ってから出来た末娘なだけに、両親や親戚の年長者たちにとってはそんな姿も可愛らしく映るようだ。
一方のベラスタは、癇癪を起こすことはあっても、自分の想いや感情を表現することがあまり得意ではない。双子であるにかかわらず、六歳の時点で二人の性格には大きな差が出ていた。
その上、ベラスタの周囲にいる女性は皆、我が強い。先ほど玄関ホールで挨拶をしたリリアナのように、清楚な少女と会ったのは今日が初めてだ。初心な末弟が目元を染めて緊張していたことにも、ポールは気が付いていた。きちんとした挨拶ができなかったのも、咄嗟のことで頭が真っ白になってしまったからだろう。
だが、ポールは指摘しなかった。幼い少年の心を悪戯にからかうつもりはない。
「それに、扉を凹ませるのも止めろって言ったよな」
「扉があるからいけないんだ」
「足で蹴るな、足を魔術で強化すんな。それができないから、魔力の制御をできるようにちゃんと毎日練習しろって言われてるんだろうが」
「……できるようになって来てたんだ、最近は上達したって先生も」
言ってた、と蚊の鳴くような声でベラスタは漏らす。まだ幼さの残る頬をぷくりと膨らませて俯く姿を見れば、ベラスタの母などは相好を崩して「なんて可愛らしい天使」と言うだろう。だが、最近のベラスタは“天使”と呼ばれることも嫌がる。身近な存在が優秀であるからこそ一層、子供であることにもどかしさを覚えるのだろう。
「感情が荒れて制御ができなくなるなら、それはまだ練習不足だってことだろ」
ポールの指摘は尤もだった。自分でも良く分かっているからか、ベラスタはふくれっ面のままポールから視線を逸らしたままだ。ポールは痛み始めた頭を支えるようにこめかみを人差し指で押さえる。そして、本題に入った。
「それで、今日は何の話をしに来たんだ? 最近じゃお前、ベンに用がないとここに来ないよな」
「――別に、大したことじゃないんだ、けど」
ベラスタは言葉を濁す。ポールは辛抱強く、少年が口を割るのを待った。やがて、ベラスタは小さな声で打ち明ける。
「タニアが――魔術の勉強、本格的に始めるって、聞いて」
なるほど、とポールは納得した。タニアは早々に魔力制御を覚えたと、ポールも聞いている。だから魔術の勉強を本腰を入れて学ぶことが決まった。
ドラコ家では、年齢に応じた勉学は行わない。本人に資質があり、適切な時期が来たと判断されたら随時新たな分野の勉強が始まる。特に魔術と呪術に関しては、その傾向が強い。魔力制御ができるようになれば、年齢は問わずに家庭教師を雇う。ベン・ドラコに魔術の専属家庭教師が来たのは彼が五歳の時だった。一般的に魔力制御ができるようになるのは十歳前後と言われているから十分早い。
それを考えるとベラスタも焦る必要はないのだが、姉とはいえ双子のタニアができるようになった魔力制御をまだできないことに自尊心が傷ついたのだろう。
「自分も家庭教師を付けて欲しいと言ったのか?」
「――――駄目だって言われた」
そりゃそうだろうな、とポールは遠い目をする。
ベンはドラコ家の中でも研究家としての資質が強く、他人に興味がない。それでも彼なりに家族のことは大切に思っているし、年の離れた弟妹のことは特に可愛がっている。しかし、その思いが正確に伝わっているかと問われたら、ポールは首を傾げる他なかった。ベンは、決定的に言葉が足りない。口は良く回る癖に、重要なことは口にせず余計なことを口にするのだ。それに付き合える人間は数少なく、ポールですら時折勘違いしたり腹が立つ。ほぼ正確にベンの考えや言いたいことを理解できるのは、彼の両親とペトラだけだった。
ベラスタは目を真っ赤にして歯を食い縛っている。ベンに断られた時の悔しさを思い出しているに違いない。ポールは、小さな男の自尊心を傷つけないように溜息を堪えた。
「――俺は魔術は得意じゃないが、魔力制御が苦手な奴には三種類いる、と聞いたことがある」
ベラスタは目を瞬かせて顔を上げ、初めて真正面からポールの顔を見た。泣くのを我慢していたのか、薄っすらと涙が滲んでいる。
ポールは淡々と、ベンから酒の肴として聞いた豆知識を披露した。ドラコ家では、常識として話題にすらならない基礎知識だ。人間とは呼吸をするものだ、というのと同じ程度で当たり前だとされているから、教えようという発想にすらならないのだ。ベラスタやタニアが知らないのも当然である。恐らくタニアも、家庭教師から学ぶことになるはずだ。
「一つは、元からセンスがない奴。もう一つは、攻撃魔法が得意な奴。そして最後に、魔力量が膨大な奴だ」
案の定、ベラスタは初めて聞いたというように大きな目をさらに大きく見開いている。
やっぱり言ってなかったな、あの研究馬鹿――と内心で乳兄弟に毒づきながら、ポールは何気ない表情を保ったまま続けた。
「お前がその内のどれかは知らんが、一般的には魔力制御ができるようになるのも十歳前後だって言うし、お前はお前のペースで良いんじゃないか」
ベラスタは小さく頷く。多少立ち直ったように見えるが、それでもまだ完全には納得できていない顔だ。だが、これ以上ポールには打つ手がない。あとはベラスタが自分で乗り越えるべき壁である。
優秀な家族を持つと大変なのは分かるぜ、と内心でベラスタに同情しながらも、ポールは一切そんな思いを勘付かせることなく、ベラスタについて来るよう促した。
「とりあえず、帰りの馬車呼ぶから。それまでクッキーでも食って待っとけ」
「――クッキー、また作ったの」
「作りすぎたんだよ」
いそいそと椅子から立ち上がったベラスタは呆れた視線をポールに向けたが、苦々しいポールの声音に何を察したか、気の毒そうな表情になった。
「また、ストレス?」
「言うな」
ベン・ドラコが研究に没頭する時間が増えれば増えるほど、ポールの仕事は増える。家のことだけでなく、ベンから指示される仕事――例えば遠い国から取り寄せなければならない特殊な薬草や鉱物、書籍などの手配で忙殺され、ポールの睡眠時間と精神力が削られていく。そのような状況が長く続けば、ポールはストレス解消と称して大量の菓子を作る癖があった。
「クッキーで済んでる内に、兄貴が正気に戻ってくれたら良いね」
「五段重ねのケーキ、作ったらまた呼ぶから食えよ」
「やだよ。しばらく生クリームは食いたくない」
うえ、と顔を顰めるベラスタの顔に年相応の表情が戻って来たのを確認して、ポールは頬を緩める。乱暴に頭を撫でてやれば、ベラスタは嫌がるように首を振って足早にキッチンへと向かったのだった。