10. 魔導士と謎 1
声が出るようになったとは言っても、リリアナの送る日々に変わりはない。相変わらず声は出ないという体で過ごしているから、必要以上に人と接触することもなく、ライリーとの会話も魔道具を通じて行っている。そして、ペトラからも定期的に呪術の講義を受けていた。お陰で、魔導省副長官ベン・ドラコとも度々交流を持つ羽目になっている。
(結局、ペトラだけでなくベン・ドラコ様もわたくしの声が戻ったことを知っておしまいになりましたものね……)
リリアナとしては不服だったものの、副長官室の地下を使って解呪をしたせいでベンには知られることとなってしまった。ペトラもベンにだけは話しておいた方が良いと譲らず、リリアナは話すことに同意した。
ベンはリリアナの持つ魔力と魔術に並々ならぬ興味を抱いていて、ペトラが居ない時でもリリアナを気軽に呼びつけようとする。リリアナはあの手この手を使ってベンからの呼び出しを避けていた。だが、毎回避けられるわけではない。
七歳の誕生日を迎えたリリアナは、家族から例年通り送られて来たプレゼントをペトラに解析して貰ったその日、次の講義の際には魔導省ではなくベン・ドラコの屋敷にペトラと共に来るよう言われていた。
(嫌ではないのですが、熱量が凄すぎて疲れてしまいますわ。基本的にわたくしが使っている魔術もこの世界の術式に則ったものですから、そうでない術式に関して説明を求められてもご理解いただける気がいたしません……)
ペトラはリリアナがどのような術を使えるのか、目撃した全てをベンに話したわけではないようだ。だが、地下室を借りる際にある程度のことは話さなければならず、結果的に声が出なくとも魔術を使える――即ち、リリアナの魔術は詠唱を声に出す必要がないという点も伝えていた。
ペトラの勘違いだと誤魔化そうにも、実際にベンは声の出ないリリアナが風魔術で姿を消せることを知ってしまったし、魔術のこととなると天才的な閃きを見せるベン・ドラコに言い訳は通用しない。
だからといって、全てを包み隠さず話すこともできなかった。リリアナが前世の知識を活用し、魔術の効率化と使える種類を拡大していることは事実だ。現在一般に使われている魔術の術式には無駄が多く、一部を前世の知識に従った術式に書き換えることで魔力消費を大幅に効率化できる。現在の魔術では、理屈を説明できない事象を無理矢理起こすためにこじ付けとも取れる理論を当てはめることがあり、その部分に大幅な魔力を消費しているのだ。同様に、できないとされている魔術も、前世の知識を使えば可能になることが多々あった。だが、無詠唱で魔術を行使できる理由はリリアナにも分からない。
(今日は、珍しく彼のお宅へとご招待されてしまいましたし)
がたがたと揺れる馬車から窓の外を眺めながら、リリアナは心中で呟いた。
今日のリリアナはベン・ドラコの別宅にペトラと共に招待を受けているが、招かれたのはドラコ本家の屋敷ではなく、魔導省に勤めるため私費で購入した彼個人の自宅だった。王都中心部の貴族のみが居住を許された地区からは外れているが、裕福な商人が住む一画に居を構えているという。場所を確認すると、王宮からリリアナの住む屋敷に戻る道から少しだけ外れた場所だった。
最初は、さすがにリリアナも拒否した。ベン・ドラコの自宅に招かれるような関係でもないし、そもそも行きたくもない。だがペトラ曰く、魔導省に置いてはおけない魔道具や呪術書などを全てまとめて彼の自宅に置いているらしい。その中に呪術の講義に必要な資料が含まれているという。
だから一緒に行こうと言われては、リリアナも拒否できない。呪術の講義など趣味でしかないのだから取り合わなくても良いはずだが、リリアナは好奇心に負けた。
(だって……ゲームのリリアナのことを知るためには呪術にも通じなければなりませんもの。それに、昨年呪術を掛けられたことから考えても、呪術を習得することはわたくしにとって有益なことですわ)
言い訳がましく考えているが、結局のところリリアナは呪術の勉強に嵌っていた。魔術とは全く違う理論体系である上に、決まった公式が存在していない未知の領域はリリアナの好奇心を甚く刺激した。特に魔術と組み合わせた時に得られる可能性をペトラとベン・ドラコから示唆された瞬間、リリアナはその魅力に惹きつけられていたのだった。
「もうすぐ着くよ」
「ええ」
リリアナに声を掛けたのはペトラだ。御者はオルガが請け負ってくれている。ジルドは私用があるとのことで、今日は一日休みを取っていた。ペトラの言葉通り、やがて馬車が停まる。目の前に見えたのは、貴族たちが王都に構える屋敷よりは狭いものの、一介の商人のそれと比べると十分に大きい建物だった。造りこそ簡素だが、趣味良く庭も整えられている。副長官室の荒れ具合を考えれば、この屋敷を綺麗に保っている使用人たちの美意識が良いのだろうことは明らかだった。
「ベンは頓着しないから、ポールさんが全部仕切ってるんだよね」
「ポールさん?」
「そう。ベンの雇ってる家宰さん。ベンの乳兄弟だったんだよ」
貴族でもない家で家宰を雇っているのは珍しい。驚いたリリアナに、ペトラは笑みを浮かべた。
「ベンは一応長男だからさ、家のこともしなきゃいけないんだけど、あの通りドが付く研究馬鹿だから。ポールさんが居ないと家のことが何も回らないんだよ。一族の仕事も終わらないし」
それを言われると納得してしまう。リリアナは小さく頷いた。家宰と言っても、諸般の家事や使用人の雇い入れといった典型的な仕事よりもむしろ秘書としての役割が強いのかもしれない。この世界に秘書という概念はないが、その認識で間違いないのではないだろうとリリアナは見当をつけた。
リリアナとペトラは停まった馬車から降りてベン・ドラコの門の前に立つ。ペトラは慣れた様子で門を開けて中に入った。庭は可愛らしい花で統一されていて、あまりベン・ドラコのイメージにはそぐわない。目を瞬かせるリリアナに、ペトラは耳打ちした。
「ポールさんの趣味が、前に来た時よりも色濃く出てる」
「――ポールさんという方は、可愛らしいものがお好きなのですか?」
「刺繍とか恋愛歌劇とか大好きだよ。この前なんて五段重ねのケーキ作って食べさせられたって、ベンが青い顔してた」
ポールさんという人は有能である一方で少女趣味であるようだ。リリアナは納得した。
ペトラは勝手知ったる顔で玄関扉を開け、室内に入る。ロビーには大きな花瓶や押し花の額などが置かれ、リリアナの知る屋敷よりは幾分かこぢんまりとしているものの、うるさくもなくとても可愛らしい雰囲気で統一されていた。少女趣味の女主人が飾り付けと配置を考えたと言われた方が納得できるほどだ。思わずリリアナは目を奪われるが、ペトラにとっては見慣れた景色らしく、そのまま二階に向かおうとした。
「あ」
慌ただしく一階正面にある扉が開き、ペトラが間抜けな一言を発して足を止める。姿を現したのは、背が高く筋骨逞しい体をぴっちりとしたスーツに包んでいる年若い男性だった。
「ミューリュライネン殿、いらした時はお声掛けくださいと何度も申し上げました」
「別に良いでしょ、来客があったら大人しく別室に居るんだからさ」
「そういう問題ではございません」
苦い顔でペトラに苦言を呈した男は、改めてリリアナに向き直る。そして、優雅に一礼した。
「お初お目もじ仕ります、わたくし、家宰を務めておりますポール・パーセルと申します」
筋骨隆々の男性が可愛らしい庭を整え五段重ねのケーキを作っているのだと思えば、微笑ましい気持ちにすらなる。そんな内心を押し隠し、リリアナは優雅に微笑んでみせた。だが、自分からは名乗らない。ちらりと横目でペトラを見ると、リリアナの無言の訴えに気が付いたペトラが代わりにリリアナを紹介してくれた。
「こちらはリリアナ・アレクサンドラ・クラーク嬢。声が出ないから、気を使ってあげて。多分今後も、度々ここに来ることになると思うし」
「承知いたしました」
声が出ない演技は続行だ。だが、ペトラが告げた「今後も度々ここに来ることになる」という情報は初耳だったし、断固として抗議したいところだ。それでもポールの前でペトラに苦言を呈するわけにもいかず、リリアナは曖昧に微笑を浮かべ続けるしかない。
これで紹介は済んだね、とばかりにペトラは再び二階に足を向けようとしたが、それを再びポールが引き留める。
「お待ちください。お客人ではございませんが、今しばらくお待ちいただいた方が宜しいかと」
「誰か来てるの?」
「ええ――その、嵐が」
ポールは言い辛そうに言葉を濁す。ペトラはその比喩で直ぐに悟ったようだった。苦笑とも呆れともつかない、微妙な表情を浮かべる。
「あー……出直した方が良い?」
「いえ、いらしたのは二時間ほど前の事ですから、あと少しでお帰りになるかと思います」
「そっかー。それなら待っとこうかな」
ペトラの答えを聞いたポールは、それならばと先ほど自分が走り出て来た扉にリリアナとペトラを案内しようとした。しかし、一歩踏み出したところで派手な音がする。扉が乱暴に開けられ、まだ幼い少年の甲高い怒鳴り声がホールに響いた。
「兄貴の癖に親父面すんな! 何も知らないくせに! ただの研究馬鹿なのに、知ったように言うなよ!」
思わずリリアナは声がした方向――ロビーから見える二階の回廊部分を見上げた。視界の端で、ポールが「あーあ」というように右手で顔の半分を覆って俯いている。どうやら彼の言う“嵐”とは、今の叫び声の持ち主らしい。そして、回廊を走りロビーに通じる階段を駆け下りて来た少年を見て、リリアナは瞠目した。
(――――あら、なんてこと)
リリアナの知るその人はもっと成長していたが、面影はある。そしてこの屋敷がベン・ドラコの屋敷であること、そして先ほど屋敷中に響き渡るほどの大声で告げられた内容から考えても、間違いなくその少年は攻略対象者の一人だった。
「お坊ちゃん」
階段を下り切った少年はリリアナを一瞥して一瞬顔を紅潮させたが、ペトラの顔を見ると口をへの字に曲げてそのまま無言でロビーを突っ切ろうとする。しかし、それは叶わなかった。
「ぐえっ」
「おい小僧、躾なおしてやろうか」
低く早口で告げられた言葉は、はっきりとリリアナの耳に届いてしまった。他の誰でもない、ポールの口から出た台詞である。どうやら怒ったポールは見た目に釣り合った言葉遣いになるらしい。
ポールは素早く少年に近づくと、その襟首をしっかりと左手で掴んでいた。少年は暴れるが、体格差もありポールは全く意に介していない。それどころか、ポールは飄々と少年を片手で押さえつけると、恭しくリリアナに向き直った。
「躾が行き届いておりませんで、誠に申し訳ございません。こちら、ドラコ家末男のベラスタ様でございます。ベラスタ様、ミューリュライネン殿はご存知でしょうから割愛致しますが、こちらはクラーク公爵家がご息女リリアナ様でございます。――――ご挨拶は?」
最後の一言はドスがきいていた。ちゃんと礼儀正しく挨拶できんだろうな、アァン? という副音声すら聞こえてきそうだ。さすがにベラスタもポールの物騒な気配に気が付いたのか、首筋を撫でながらも渋々とリリアナに頭を下げた。
「――ベラスタ・ドラコです。宜しくお願い致します」
(やはり攻略対象者のお一人でしたわね)
リリアナは内心で嘆息する。ベラスタルートでは、リリアナに待ち受ける結末は二通りある。ヒロインのハッピーエンドルートではベラスタと戦い、攻撃魔術で殺害される。バッドエンドルートでも、リリアナは暗殺され死亡する。いずれにせよ回避したい未来だ。
一方のベラスタは、まさしく不承不承といった体だ。ポールの額に青筋が立つ。地獄の底から這いあがるような声で、ポールは「――大変申し訳ございません、再度躾直してまいります」と唸る。ベラスタの顔が若干青くなったようにも見えるが、声が出ないリリアナは苦さを織り交ぜつつも、優しく微笑むことしかできない。話せる設定であれば如才なくフォローもできるが、攻略対象者に声が出せることを教えるつもりもない。そして何より、ベラスタの礼儀はあまりにもなっていなかった。早い段階でポールに躾けられた方が、本人も幸せに違いない。
(ゲームのベラスタ・ドラコは魔導省に入省して、兄のベン・ドラコの副長官就任の史上最年少記録を打ち破るはずですもの)
ゲーム開始当初は優秀な兄に対するコンプレックスと自信のなさに苛まれていたベラスタだが、ヒロインと関わる中で自信を取り戻し過去を乗り越えていく。その結果、彼が得るのが名声と名誉、地位、そしてベラスタルートの場合はヒロインの愛だ。他のルートでも、最終的にベラスタは魔導省の最年少副長官として地位を確立する。
魔導省の副長官ともなれば、貴族とも交流する機会が増える。その時のために、礼儀作法は徹底的に磨いておいたほうが本人のためだ。
リリアナがそんなことを考えているとは露知らず、ベラスタは目の前でたおやかに微笑むリリアナをちらっと見ては目尻を赤く染め目を逸らす。どうやら緊張しているらしいと、リリアナは冷静に攻略対象者の様子を分析していた。ポールは小さく――他の誰にも気づかれないよう鼻を鳴らし、そしてベラスタに待っておくよう言いつけ別室に向かわせた。そして襟元を但し、「それでは、旦那様の部屋にご案内申し上げます」とリリアナたちに向き合った。
「別に良いのに、場所知ってるし」
ずっと傍観者の体で居たペトラが呆れたように言うが、ポールは頑として聞き入れない。特に言い争うものでもないと判断したリリアナは、ペトラを促しポールに続いた。二階の回廊を歩き、少し奥まった場所にあるベン・ドラコの部屋に向かう。ベラスタが大きく開け放ったらしい重厚な扉は、ちょうど足元の部分が大きく凹んでいた。