76. 闇に堕ちた少女と夢 2
リリアナは両手を固く握りしめる。胸が引き裂かれそうになり、顔が歪む。けれどリリアナ本人に自覚はない。
ライリーとエミリアは寄り添い、その背後には近衛騎士となったオースティンが立っていた。
「――ライリー様」
エミリアがライリーに声を掛ける。ライリーは返事をせず、リリアナの体を通り越してその先にある舞台を凝視していた。どうやら、今の彼らにリリアナの姿は見えないらしい。
肘掛に置かれたライリーの両手はきつく握り締められ、それを宥めるようにエミリアが手を撫でている。
そこでようやく、リリアナはそこに居る三人が纏う異様な雰囲気に気が付いた。
ライリーの表情は厳しく、エミリアの双眸も悲痛を纏っている。オースティンは平静を保ちながらも、気遣わし気な視線を主に向けていた。
乙女ゲームで描かれていた物語は、リリアナが火刑に処された後、攻略対象者とヒロインが幸福な結末を迎えた、というところで終わっている。それ以降の出来事は描かれていない。
今リリアナが居る場所は、乙女ゲームでは描かれていない、その後の出来事なのではないだろうかと思い至った。
(でも――乙女ゲームであれば、物語が終わった後の話などあり得ないはず)
それなのに何故そのような場面を見ているのかと、リリアナは戸惑うしかない。
今リリアナが居る時間は、本来であれば存在しえないものだった。仮に乙女ゲームの後日談が実は存在したとしても、そもそも記憶にないものを夢に見られるのだろうか。
混乱するリリアナはそのままに、時間だけが進んでいく。
舞台は開幕し、最初に描かれる場面は悪役令嬢を模したと思われる魔女が魔王に魂を捧げるところだ。王太子と結婚し王太子妃から王妃に上り詰めた後、魔王の力を借りて夫を弑し、王国を魔王と共に支配する――そんな野望を持つ悪女。
乙女ゲームの悪役令嬢でさえそんな悪女ではなかったと、リリアナは茫然と考える。しかし、その後の物語を効果的に魅せるためか、歌劇で描かれる魔女は酷く醜悪で残忍な性質を持っていた。
「――なにが、」
低い唸り声がライリーの唇から漏れる。ライリーたちの活躍を描いた物語なのに、ライリーもエミリアも、オースティンも、ここに居る誰一人として楽しそうでも幸せそうでもなかった。
何故、とリリアナは思う。
リリアナが生きて来た世界のライリーたちではないのだから、眼前に居る三人の心境は分からない。それでも、乙女ゲームで描かれていた全てのハッピーエンドは、ヒロインと攻略対象者たちの幸福そうな様子で締められていた。
それなのに、今リリアナが目にしている三人は全く幸福そうではない。それどころか、ライリーに至っては自分たちを褒め称える歌劇にすら苛立ちを隠せていなかった。
幼少時から感情そのままに振る舞わないよう、教育されてきたとは思えない態度だ。それほどまでに、心中に生まれる激情を御しかねているようだった。
「ライリー様」
エミリアが再度ライリーに声を掛ける。その声にもまた悲しみが滲んでいた。
耐え切れぬというように、ライリーは目を僅かに伏せる。遠目から見れば、王太子がこれほどまでに歌劇に苦痛を覚えているとは気付かれないほど、わずかな仕草だった。それでも、エミリアやオースティンだけでなく、リリアナにもライリーの心境は明らかだった。
(どうして、そんなに――)
悲しそうな顔をしているのだろう。
全く理解できず、リリアナはライリーに手を伸ばし掛ける。しかし、それよりも先にエミリアが動いた。ライリーの手に触れていたエミリアは、慰めるようにライリーの肩に手で触れる。リリアナは宙に浮いた手を再び体の横に下ろし、拳を握った。ただ、その目はライリーに向けられたまま、動かすことすら出来ない。
「リリアナは――彼女は、悪女などではなかった」
微かな声で、ライリーは呟いた。懺悔するように、彼は更に言葉を紡いだ。
「こんな形で、貶められて良い人ではない」
「はい、ライリー様。私も――私も、よく分かっています」
込み上げるものを耐えるように歯を食いしばったライリーに、エミリアが声を掛ける。ライリーの手に触れていた指先に、エミリアは力を込める。ライリーは肘掛を壊しそうなほど強く握り締めた。
「もう、他に方法はなかった――でも、本当は、」
ライリーは言葉を飲みこむ。本当は何だったのだろうとリリアナは思う。その続きを聞きたい、けれど聞きたくない、そんな不思議な心境だった。
静かにエミリアが続ける。
「私も、リリアナ様には生きていて頂きたかったと思います」
そうしたらきっと、色々なことを語れただろうと、エミリアは言う。笑みを浮かべるものの、その瞳は泣きそうに歪んでいた。
「私、リリアナ様のことはずっと尊敬していたのです」
ぽつりぽつりと、エミリアは呟く。語られる思い出は、乙女ゲームで描かれていたものだけでなく、リリアナが知らなかったものも含まれていた。
「辺境伯様の元で教育を受けて一介の令嬢になれたつもりでも、リリアナ様には到底及びませんでした。恥ずかしいと思うことがあっても、リリアナ様は笑ったりはなさらなくて」
言い方は厳しく、同年代の少年少女たちには反発されても、荒れくれ者を多く見て来たエミリアには全く恐ろしいものではなかった。寧ろ、カルヴァート辺境伯ビヴァリーを思い出して嬉しかったと、エミリアは言った。
舞台上で魔女が魔物を召喚し、禍々しい音楽が流れている。それとは全く見合わない優しくも美しい思い出が、エミリアの口から語られる。静かにエミリアの言葉に耳を傾けていたライリーの表情は、いつしか穏やかなものになっていた。
背後で警護を続けているオースティンも、目元を緩めている。
それでも、乙女ゲームで描かれた物語は、そんな悪役令嬢には優しいものではなかった。魔王の復活を企んだ稀代の悪女として、最後は裁かれる。ヒロインが選ぶ相手によっては死刑を免れても、結局残された道は幽閉や国外追放、時期が多少遅いか早いかの違いだけで、結局は死を宣告されているようなものだ。
エミリアの言葉が止まる。舞台上では、魔女が魔王の召喚に成功したところだった。魔女の狂気に満ちた迫真の演技に、観客たちが恐れ戦いているのが見える。
『さあ、我が闇の僕たちよ、魔の王よ、我が血肉を糧としこの世に顕現せし数多の闇の力よ、我が憎き仇王太子を殺すのだ!』
『ああ、ああ、我らを召喚せし闇の女王よ、魔の女王よ』
そして舞台のもう一方では、魔王の復活を聞いた王太子たちが仲間と共に、魔王討伐のための支度を整えていた。
『いざ行かん、我らの国を救う時、我らの民を救う時、崇高なる使命を帯びていざ共に行こう』
『我らが英雄よ、彼が居れば百人力、彼の行く手を遮る魔は全て葬り去ってみせよう』
そんな台詞が美しい旋律と共に紡がれる。先ほどまでエミリアの言葉で穏やかな表情になっていたライリーの顔から、再び表情が消えた。エミリアもまた、わずかに顔を強張らせる。
もうそろそろ歌劇も終盤を迎えようとしていることが分かった。つまり、時期に稀代の悪女と呼ばれた魔女は英雄である王太子に討伐され、処刑される。
「――――リリアナは、最期に何かを言っていた」
ライリーが、ぽつりと呟く。その最期が、火刑の瞬間だとリリアナは直ぐに理解した。乙女ゲームでヒロインが王太子を選んだ時、悪役令嬢は火刑に処される。
舞台上でも、魔女を火刑に処すため、騎士たちが場を整えているところだった。
「あの時の彼女は、私の良く知る彼女だった。幼い頃と、全く表情の作り方も――変わらなかった」
再びきつく握り締められたライリーの拳から、ぽとりと血が滴り落ちる。あまりにも力を入れすぎて、掌が傷ついたらしい。それに気が付いたエミリアが慌てて手巾を取り出すが、ライリーは無反応だった。
眼前の舞台では、とうとう王太子たちが魔女を捕らえる。魔術封じの枷を付けて、稀代の悪女は処刑場に連れて行かれる。
「一人の少女も救えず、何が王だ」
ライリーのその言葉は、自分に言い聞かせるかのようだった。
「ただ一人で、悪名を背負って、悪の役に徹して」
悪女に扮した女優は必死の形相で、世界全てを憎むかのような表情で、その場から逃げようと暴れ回っている。興奮した観客たちは舞台上の民衆役と共に、早く悪役を殺せと叫び、喚く。足元に落ちていた小石を投げる者もいるが、その石は舞台上には届かない。
けれど、悪役令嬢が本当に火刑に処された時は、民衆たちの投げる石にその肌を傷つけられたのだろう。そして、そのような目にあって死を迎えながらも、本来リリアナが目論んでいたはずの“自らの肉体と共に魔王を滅ぼす”という目標は達成できなかった。その事を後悔しながら、悪役令嬢は死んでいった。
尤も、そのような些末事は乙女ゲームでは描写されるはずもない。
「本当は、私が気が付くべきだったのに」
――魔王の復活が、迫っていると。
「一言でも、言ってくれたら」
――その器に、自らの体が選ばれてしまったのだと。
言葉にならないライリーの悲嘆が、リリアナの心に響いて来る。
その理由も分からないまま、そうだったのかと、リリアナは悟った。
リリアナの良く知るライリーは、ずっと手を差し伸べていてくれた。その手は、リリアナには見えなかった。ずっと傍に居ようとするライリーのことを、“サーシャ”と呼んで隣に並ぼうとするライリーのことを、ただ不思議に思っていた。
彼は何をしたいのだろうと、そう思っていた。
(でも、本当は)
きっと、ライリーは助けてくれた。
どうしようもないのだと、ただ破滅を待つしかないのが恐ろしいのだと、助けてくれと手を延べれば、ライリーは共に歩もうと言ってくれた。
けれど、もう間に合わない。リリアナの体は闇に侵食され、そして意識は闇に飲み込まれた。今リリアナが見ている夢は、どこまでも果てしない、魂だけが行くことの出来る世界なのだろう。
(ウィル、ごめんなさい)
差し伸べてくれた手を無視したのは、リリアナだった。気付くことすら、できなかった。
自分一人でするしかないと勝手に決めて、己の血を流すことを躊躇いなく選んだ。乙女ゲームの知識があってもなお、リリアナは乙女ゲームの自分と同じでしかなかった。最初から最後まで、自分本位のようでいて、結局はライリーあっての人生だった。自分が破滅しないようにと言いながら、結局最後に選んだのは、ライリーが無事に魔王を討伐し生き延びることだった。
(でも、他に方法を知らなかったの)
感情を封じられ、何が嬉しくて悲しいのかも、分からなかった。感情がない中で、自分の身を本気で守りたいと心から思えるわけがない。生存本能というそれらしい言葉でただ突き進むには、リリアナには知識が多すぎた。
善悪の判断は、頭の中にある知識で行うしかなかった。自分が取るべき道を悩んだ時、判断基準は全て知識だった。倫理観や道徳観も、ただ知識を元に機械的に判断していただけだった。
その知識の中に、人に頼る方法はなかった。人を信じるという心の動きも、人を愛するという意味も、存在はしていなかった。そして、それを学ぶ機会さえ、見過ごしていた。
(何の未練もない、といえば嘘になるけれど)
声を上げて泣きたい気もする。だが、リリアナは泣き方など分からない。これまで、泣いたことなど一度もないのだから。
(――もう遅いわね)
初めて如実に迫る感情が、これほどまでに大きな後悔と悲哀だとは、予想もしなかった。
全てが飲み込まる感情の渦を制御する方法も知らず、リリアナの視界はライリーたちから遠ざかっていく。
遣り切れなさに打ちひしがれたくとも、最早思い通りになる肉体はない。
これから先、どれほどになるかも分からないほどの悠久の時を、独りで往くしかないのだろう。
1-1
68-4









