76. 闇に堕ちた少女と夢 1
リリアナは、暖かな空間に揺蕩っていた。自分の意識がまだ闇の力を押し留められる内に、ライリーたちの持つ封印具で魔王の復活を食い止めて欲しい――そう思ったものの、果たしてうまくいったかどうかは分からない。
随分と侵食が進んだようだね、というライリーの言葉に、ライリーたちも既にリリアナの状況をある程度把握しているのだと悟った。それならば尚のこと、ライリーはリリアナの意図を理解するのではないかという期待が頭をもたげる。
ライリーとは、婚約者候補であった時から長い間、一番長く語らった。リリアナにその気はなくとも、ライリーはリリアナに色々な相談を持ち掛けたし、リリアナの身近で起こった出来事を知りたがった。執務に関わる話だけではなく、今思えば王太子妃教育に無関係なことでさえ、ライリーはリリアナの事ならば何でも知りたいと言いたげに話を繋げていた。
定期的にライリーの声掛けによって開かれる二人きりの茶会に大して意味はないと思っていたけれど、もしかしたらライリーにとってはそうではなかったのかもしれない。
そんなことに気を取られていたせいか、ふと気が付けば既にリリアナの五感は喪われていた。慣れた屋敷の寝台に身を沈めて眠りに落ちた時のように、何も分からない。
目を瞬かせて自分の手を見れば、リリアナの意識にある体よりも多少、成長した姿に見えた。そう思った次の瞬間には幼い頃のふくふくとした手に戻り、また次の瞬間には老婆のような手になる。
どうやら自分の姿は安定していないらしいとリリアナが苦笑したところで、ふと彼女は自分の周囲に広がる景色に気が付いた。
(先ほどまでは、暗闇だったはずですけれど)
一体どうしたのかと首を傾げる。闇の力がリリアナの体を侵食し、リリアナの意識を塗り替えた時、自分の体に何が起こるのかリリアナには全く分からなかった。
前世という膨大な記憶を探ってみても、該当するものはない。一つの体に複数の人格がある場合、その内少なくとも一つの人格は、表に出ていない時でも、外界と自分の言動の記憶を持つらしい。しかし、今のリリアナにはその類型にも当てはまらないようだった。
(それにしても、ここはどこかしら)
首を傾げるものの、手懸かりとなりそうなものは何もない。
周囲には石造りの壁が聳え立ち、リリアナを取り囲んでいる。見覚えのある造りは間違いなく王都ヒュドールを筆頭としたスリベグランディア王国中心部の意匠だが、問題は具体的な場所と時期である。
立ち上がって触れてみれば、ひんやりとした感触が掌から伝わって来た。
これが夢であれば良いが、問題はそうでなかった時だ。
闇の力は、本質的にどのようなものなのか、一切研究が進んでいない。そもそも魔術自体も漠然とした基盤の上に綿密な理論体系を練り出したようなものだから仕方がない。だが、その中でも闇の魔術は、忌避されていることも手伝って全く解明されていないことが多くあった。
(わたくしの魂だけが体の外に飛ばされて、実体のような何かに取り憑いた――という可能性も無きにしもあらずかしら)
そんなことをリリアナは他人事のように思う。しかし、もしそうだった場合、非常に困ったことになる。
今リリアナが居る場所も、時代も分からない。仮にスリベグランディア王国内やその近くだったとしても、リリアナが生まれ育った時代だとは限らなかった。それこそ王国が建国されるよりも以前、魔王レピドライトが居た時代かもしれないし、ライリーたちが寿命を終えた更に先の時代かもしれない。
更に言えば、仮に魂が時空を越えられるものであれば、ここがスリベグランディア王国がある世界なのかも不透明だ。
(それに、大公閣下の例を見ても、魔力は肉体に付随することは確実ですもの。わたくしの今の肉体が魔力持ちでなければ、わたくしは魔術を使えないということですわ)
見下ろした体は不安定で、先ほどから子供のようになったり妙齢になったり、果ては老婆のようになったりしている。女体であることに間違いはないようだが、溜息を吐くしかなかった。
もし不安定なこの体が他人の目に晒されてしまえば、厄介なことになることはほぼ確実だろう。
そこまで考えて、ふとリリアナは一つの可能性に思い至った。即ち、体が不安定ならばこの場所から別のところに行くことも容易いのではないか、ということだ。
転移の術が使えるかどうかは定かではないが、少なくとも、自分の肉体を駆使して高い壁を乗り越えなくとも良いのではないか。
そう思った瞬間、リリアナの足は地面から離れた。ふわふわと漂いながら、高い石造りの壁上部まで辿り着く。顔を巡らせたリリアナは、広がる景色に瞠目した。
(どこもなにも、王宮ではありませんか)
見覚えがあるのも道理で、リリアナが居る場所はスリベグランディア王国王都に聳える、王宮だった。先ほどまでライリーたちと対峙していた中庭も、視界に映っている。しかし、リリアナの記憶にある光景とはどこか違った。
(晴天ということ、それから見覚えのない花や建物がありますわね)
首を傾げて、一つずつ確認する。
リリアナの知る王宮中庭にはデルフィニウムが多く咲き誇っていたが、今、リリアナの目に映っている中庭の花は赤が多い。更に首を巡らせて周囲を確認したリリアナは、王都の道を行き交う人々が、一定の方角を目指していることに気が付いた。
(どこかに向かっている――? 何か催し物でもあるのかしら)
もし何かしらの行事があるのであれば、そこに行けば状況が分かるかもしれない。それならば、皆が目指している場所に行ってみようと、リリアナは考えた――瞬間、視界が切り替わる。
先ほどとは全く違う場所に現れたリリアナは、思わず憮然としていた。
(思っただけで移動するなんて――転移の術より便利ではございませんか)
だが、今はそれを考えても詮無いことだ。改めて周囲を見回すと、そこはどうやら嘗て一度ライリーと共に訪れたことのある円形闘技場だった。隣国のローランド皇子が来国した際、武闘大会が開かれた場所である。
円形闘技場は嘗て、膨大な魔力が爆発して出来たと言われている大穴の上に建てられた。仔細は言い伝えられていないものの、今では魔の三百年の始まりに魔王が地上へ顕現した場だと信じられている。剣闘士や猛獣の戦いが見世物として楽しまれていたが、時代の移り変わりと共に衰退し、リリアナの生きていた時代には音楽祭や歌劇、大道芸といった催しが行われるようになっていた。
(今日は音楽祭だか歌劇だかがあるのかしら)
そんなことを思っていると、リリアナの耳に男の声が飛び込んで来た。周囲に人は居ないが、どうやら魔術か魔道具で広範囲に声が届くよう細工しているらしい。
『紳士淑女の皆さま、本日はようこそいらっしゃいました!』
独特な言い回しは歌劇のそれだ。どうやら今日は歌劇が行われるらしいと、リリアナは納得する。だが、何故今の自分がここに居るのかは分からない。もしかしたら、大して理由はないのかもしれない。
結局、リリアナは魔王復活へ挑み敗れたのだ。最終的にはライリーたち攻略対象者が魔王復活を防いでくれていれば、試合には負けても勝負には勝ったことになる。それで良しとするつもりだったが、今ここでリリアナはぞっとするような可能性に思い至った。
(もし、このまま魂が尽きるまであらゆる場所を放浪する羽目になってしまったら――?)
魔術も使えず、ただ様々なものを見て、聞くだけ。
他人と話せないことは大して苦には思わないが、魔術や呪術を自分で試したり開発できないことは苦痛だった。それに、リリアナ亡き後、婚約者は新たな相手を見つけて結婚するのだろう。その姿を見て平静でいられるか、正直なところ自信はなかった。
(いつの間にか、ウィルの隣はわたくしの場所だと――そう思っていたようですわ)
婚約解消を目指していたはずの当初から、随分と違う場所まで来てしまったようだ。思わず自嘲が漏れる。
エミリアをライリーに近づけておきながら、そして乙女ゲーム通りに彼らが共にヴェルクへ行くよう手筈を整えておきながら、リリアナはライリーとエミリアが仲を深めていく過程を見たくはなかった。だから、ライリーたちがヴェルクに行った後も、あまり彼らの様子を窺うことはしなかった。
そして愚かなことに、その理由を考えることも、しなかった。
『魔の三百年、この地には魔王が降り立ったと言われております。その魔王が名はレピドライト、そしてこの地に絶望をまき散らし人々を恐怖のどん底に陥れた魔王は我らが崇高なる国王陛下の祖、英雄とその仲間によって討伐されました』
司会者の言葉に、客席が湧く。歓声が何を言っているのかは分からないが、少なくとも観客たちがこれから始まる劇を心から楽しみにしていることは直ぐに分かった。
そして、続く台詞にリリアナの心臓が――存在しないはずの臓器が、どくりと鳴る。司会者は、滔々と言葉を続けた。
『遥か時は流れ、今。再びこの地に魔王が降臨せんとしたことは、我々の記憶には新しいことです』
もしかしたら、とリリアナは唇を噛みしめる。
今リリアナが居る場所、時代は、リリアナが死んでそれほど時間が経っていない頃なのかもしれない。
魔王復活にリリアナは対処できずライリーたちとの戦いで命を落とし、そしてライリーやオースティン、エミリアたちが魔王の復活を阻止した。そして取り戻した平和を称える歌劇が、これから開幕するのかもしれない。
もしそうならば――と、リリアナは息をのむ。
(ウィルたちも、この歌劇を見に来ているのかしら)
だが、さすがに王族ともなれば簡単に歌劇を見に行くことはない。基本的には劇団の人間を王宮に招き、万全の警備を整えた上で観劇することが普通だ。
『そして! 魔王を召喚しこの世を支配せんと企んだ悪しき魔女は、火あぶりの刑に処されたのです』
途端に、観客席から先ほどまでの比ではない歓声が起こる。同時にリリアナは、咄嗟に“違う”と思っていた。
リリアナは、火あぶりになどなっていないはずだ。もしかしたらリリアナの記憶がないだけで、魔王によって操られたリリアナの体が火あぶりに処されたのかもしれない。しかし、その可能性は低いとリリアナは直感していた。
それよりも可能性として高いのは、今リリアナが居る場所が、本来リリアナが生きて来た世界ではないという仮説だ。
(王太子の分岐でハッピーエンドを迎えた時、悪役令嬢は火刑に処された――)
もし今が、その後のことなら――そこまで考えたリリアナの視界が揺らぐ。耳には司会者の声と客席の歓声がひっきりなしに飛び込んで来る。
『これから演じまするは、この世界に復活した英雄と救国の聖女の物語にございます。実際に魔王と魔女を滅ぼした王太子殿下と、その婚約者となられた救国の聖女も、此度の初演に向けてご足労下さりました。皆々様にも楽しんで頂けるよう、我が一座心を込めての一幕、開演致します!』
次の瞬間、リリアナの視界が切り替わる。
そして眼前に現れたのは、英雄と呼ばれた王太子ライリー・ウィリアムズ・スリベグラード、そして救国の聖女として広く知られるようになったエミリア・ネイビー――否、王太子とのハッピーエンドを迎える時にはカルヴァート辺境伯の養女となる、エミリアだった。
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