75. 闇に堕ちた少女 2
リリアナが右手を掲げ、掌をライリーに向ける。次の瞬間、強大な竜巻と共に、全てを葬り去る闇の力がライリーを襲った。
「ライリー!」
オースティンの声が聞こえる。逃げろと言われたのかもしれないが、ライリーは避けなかった。咄嗟に剣を抜き放ち、結界を張った。己の体内にある火の魔力が破魔の剣によって変換され、光へと変わる。襲い掛かって来た闇の力は全て消滅した。リリアナが深紅に染まった目を見開いたのが見えるが、その程度のことで心が折れる少女ではない。寧ろ、楽し気に破顔一笑した。
リリアナの満面の笑みを見たライリーは、瞠目する。珍しい表情に心奪われたのではない。その表情は、ライリーが幾度か破魔の剣によって見せられた魔王レピドライトの笑みに酷似していた。
「――随分と、侵食が進んだようだね」
焦燥を隠しながら、ライリーはリリアナに声を掛ける。先ほどライリーがリリアナの名前を呼んだ時に、リリアナの様子が変わったと、ライリーは気が付いていた。自分が話し掛けることで少しでも魔に染まる時期を遅らせられるのであればと、ライリーは必死だった。
ライリーに話し掛けられたリリアナの反応は鈍いが、ひっきりなしに闇の魔力がライリーを襲う。その力はあたかもライリーたちを守るようにして張られた結界を破壊しようとしているように動いていた。
本来であれば結界を破壊することなど滅多なことでは出来ないはずだが、威力が大きく回数も多いからか、結界が軋んでいる。ライリーは必死に結界を保とうとしているが、このまま維持し続けることは難しい。もし攻撃に転じるのであれば、結界を今の状態で張り続けることは出来ない。
ライリーだけでなくオースティンやクライド、エミリアも、状況のまずさは理解していた。
今、この場に居る面子の中で、光魔術の使い手はエミリアだけだ。エミリアであれば光の魔力で構成された結界を張ることができるが、まだ完全に魔術を使いこなせるわけではない。通常の戦いであればエミリアの結界でも十分耐え得るものの、魔に染まりかけたリリアナの攻撃を防げる水準の結界を張れるかどうかは確証がなかった。
ライリーは冷や汗を掻きながら、リリアナに呼びかける。まだ、彼の知るリリアナの意識は表層に留まっているはずだった。
「ねえ、サーシャ。お願いがあるんだけど、良いかな」
言葉が届いているかどうかも、最早ライリーには分からない。だが、リリアナの魂に届いていると信じたかった。ただ、リリアナの意識が保たれている間に、リリアナが魔王に乗っ取られないよう何をすべきかなど、今のライリーには分からない。
破魔の剣が闇の力と瘴気に反応しているせいか、魔王を封印する方法は何となく理解できる。しかし、その方法は最後の手段だった。
「結界を張って、サーシャの中に闇の力と――恐らくは魔王の記憶かな? そこら辺のものが、入らないようにして欲しいんだ。貴方になら出来るよね」
先ほどは断られたばかりの願いだ。今度も拒否される可能性が高い。
しかし、ライリーたちを攻撃している間は、周囲に充満している闇の力も、噴水からあふれ出ている色とりどりの光も、リリアナの体内に入り辛い様子だった。恐らくリリアナの魔力が外へと向いているため、逆流して体へ入るほどの力はないのだろう。
一縷の望みを掛けたライリーの頼みにも、リリアナは反応しない。わずかに瞳の色が緑に戻ったが、すぐに深紅へと変わる。恐らく瞳の色が、闇の力の侵食度合いを示しているのだろうと、ライリーは判断する。つまり、最早残された時間はないということだ。
その時、背後からエミリアの囁く声が聞こえた。ベラスタの仕業か、頭に直接響くように感じる。恐らくリリアナには届かないよう、幻術で細工を施しているのだろう。
『殿下、私が結界を張ります』
『頼む』
ライリーは歯を食いしばる。リリアナを助けるのは自分しかいないのだと、そう思えば何でもできる気がした。
エミリアの魔力が膨れ上がると同時に、ライリーは結界を消す。時を置かずして、ライリーは剣の切っ先を上にして、眼前に構えた。
だが、その瞬間に素っ頓狂なベラスタの声が響く。
「うわっ、珠もやばい!」
一体何が起こったのかとライリーは思うが、視線はリリアナから逸らせない。逸らしてしまえば、リリアナの精神を乗っ取った魔王が自分たちを殺そうと執拗な攻撃を仕掛けて来るだろうことが予想出来た。
『情調の珠からも何かが溢れ出し始めています、ベラスタが結界で抑えていますが恐らく――そう長くは保てません』
『分かった』
クライドの説明に一つ頷いて、ライリーは口中で詠唱を唱える。緊張のせいか、額から一筋の汗が流れ落ちた。
ライリーが本来持つ魔力は火の適性が高い。しかし、破魔の剣を持つ今、彼の魔力は全てが闇の力に対抗できる質に変換され、更に十分量になるまで増幅されていく。
炎のように大きく広がったライリーの魔力は芝生の上に次々と生まれ、リリアナとライリーたち蓋を囲い込むように円蓋を作った。つまり、一種の結界だ。だが、結界のように防御を目的としたものではない。
円蓋の外にある瘴気は内に入って来れず、炎に触れる端から浄化される。そして内側にある瘴気も、円蓋に触れたら浄化され、濃度が薄くなる。
そのことに気が付いたのか、リリアナの顔が憎々し気に歪められた。ライリーを思い切り睨み、リリアナは口を開く。
『貴様――、許サン。殺シテヤル』
既に、リリアナの口から発せられる言葉は人間のものではなかった。同時に、ライリーは既にリリアナの意識が闇に飲み込まれ始めたのだと直感する。最早、呼びかけてもリリアナの心に声が届く可能性は限りなく低い。
次の瞬間、ライリーが作り出した炎の円蓋を巻き込んで闇の力が大きく膨らみあがった。一瞬にして消えた円蓋の代わりに、中庭と王宮を覆うようにして大きな黒雲が立ち込める。
雷鳴を轟かしながら、黒雲から次々と雨が降り始めた。その雨に触れた草花が、瞬時にして枯れる。一見すると雨にしか見えないそれが、動植物にとって悪影響しか齎さない物質なのは明らかだった。
だが、エミリアによって結界を張ったライリーたちに雨は当たらない。
「やめろ、サーシャ! 雨を止めるんだ!」
『愚カナ人間ヨ、イツマデ、コノ女ガ生キテイルト信ジル』
やはりリリアナの意識は闇に呑まれたらしいと、ライリーは歯を食いしばった。荒れ狂いそうになる感情を、必死に押しとどめる。感情に流されてしまえば、ただでさえ劣勢の状況が更に悪化することは目に見えていた。
ライリーやオースティン、ベラスタの魔力を全て集結しても、今眼前に居るリリアナの――否、魔王の元となる存在の力には及ばない。体内にしか使える魔力を持たないライリーたちと違って、眼前の存在は、空気中にある瘴気も全て我が物のように扱うことができるのだ。
「――でも、まだ魔王にはなっていないようだね」
『何ヲ言ッテイル』
冷たく言い放ったリリアナの黒髪は、水中で揺れているかのように動いている。風はなくとも、魔力の揺らぎが影響しているらしい。
ライリーの背後では、オースティンやクライドたちが顔色を失くしていた。
確かに一度、オースティンもクライドもリリアナのことを疑った。大公派に寝返った裏切り者だと心の底から信じたが、今となっては仲間だとしか思っていない。その上、クライドにとっては大切な妹だ。過去に置き去りにしていた親愛の情が、心の中に蘇っている。
「リリー……」
嘘だろうと掠れた声で呟いた。オースティンが「くそっ」と毒づく声も、ライリーの耳に届いていた。
どうすれば良い、と、ライリーは心の中で必死に破魔の剣に話し掛けていた。
ライリーの仮説が正しければ、破魔の剣は持ち手の魔力を変換し、増幅させ、魔王を封印しやすいよう場を整える役割だけだ。そしてかつての英雄たちはそれぞれの封印具を手に、魔王を封印した。
――王宮の地下迷宮に魔王の魔力を、宝玉に感情を、そして水鏡に記憶を。
破魔の剣の役割は、魔王の体から魔力と感情、そして記憶を切り離すこと。そして、魔王の魔力を地下に封じること。この二つだ。
過去の三傑と同じような使い方をすれば、封印が成功したと同時に、リリアナの体は消滅する。それはライリーの望むところではない。
だが、他の使い方など分からない。他の使い方をしてリリアナが死なないように試したところで、成功する確率も全く分からない。
それでも、ライリーは決意した。何もせずに失うくらいなら、最後まで足掻きたかった。こんなところで、リリアナを失うのは嫌だった。
『ベラスタ、ヴェルクでヘルツベルク大公から逃れた時のことを覚えてる?』
逡巡する間も惜しかった。ライリーはベラスタに尋ねる。ベラスタは直ぐには答えなかったが、ライリーが何を言いたいのか理解したらしい。
『えっと、あの、オレが開発した魔術のこと?』
ベラスタが開発した魔術、それは時を止める術だった。
闇闘技場でヘルツベルク大公から破魔の剣を奪った後、執拗に大公から追われた。あと少しで捕まると言う時、ベラスタが力を振り絞って追手の足を止めた術だった。
一歩間違えれば禁術となり得るが、構築された術式自体には禁術に当たるものはない。ただし非常に膨大な魔力を消費するため、改良が必須とされていた。その研究を、ベラスタはヴェルクから王国に戻る道中にも続けていたはずだ。ライリーがベラスタに頼んだのは、利用できる術者を限定する価値を付け加えることだけだったが、ベラスタのことだ。魔力消費量を抑える方法や、術を掛けた対象に悪影響がないよう、改良を重ねていたに違いない。
『そうだ。あれを、合図と同時に使えるかな? 対象はサーシャだけど、恐らく今のサーシャでは効かない。だから一旦、私が破魔の剣で受け止める』
ライリーの言葉は、ベラスタだけでなくクライドやオースティン、そしてエミリアにも届いている。皆が絶句する気配がするが、ライリーは構わなかった。
ただ、対象の時を止めるわけではない。ライリーが言ったのは、破魔の剣を経由して術を変質させた後、リリアナに放つという荒唐無稽な荒業だった。当然、ベラスタも試したことすらない――否、想像したことすらない方法だ。
しかし、ライリーは他に術を思いつかなかった。そしてベラスタたちも、他の方法を提案しようにも全く良案が思い浮かばない。
だから、ライリーは薄く笑った。目は笑っていなくとも、微笑を浮かべるだけで心が落ち着く気がした。
『頼んだよ』
反論は許さないというように言えば、わずかな沈黙の後、はっきりと『分かった』という言葉が返される。
ライリーは再度剣を構えて、リリアナの内に作り出された魔王の卵に対峙した。
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