9. 絡む糸 8
ライリーの執務室を出たリリアナは、そのまま魔導省に向かった。毒殺未遂もあったが、そちらはライリーが後始末を付けると請け負ってくれたため、リリアナはライリーに一任した。だが、あの侍女を取り調べたところで黒幕は突き止められないだろう。
魔導省に到着すると、ペトラは前回と同じように門の前で待っていてくれた。一度通った道はリリアナも覚えている。人に見つからないよう気配を殺しながら、ペトラとリリアナは副長官室に向かった。どうやら解呪をするために必要な設備が全て整っている場所で、かつ他の魔導士たちに見られない条件を満たす部屋は副長官室の地下しかないらしい。
攻略対象者の関係者であるベン・ドラコとは極力関わり合いになりたくはないが、致し方がないとリリアナは腹をくくった。リリアナが使う魔術と魔力に興味を惹かれているらしい副長官の言動はペトラが諫めてくれることだけが幸いである。
「持って来た?」
地下に潜ったペトラはリリアナに尋ねる。リリアナは頷いて、魔術で見えないよう細工を施していた鈴蘭の鉢植えを机の上に置いた。術を解く。
「花はないんだね」
『今は花と茎は枯れておりますが、球根が生きて残っております。また季節が廻りましたら、再び花を咲かせますわ』
「へえ」
ペトラは花にはあまり詳しくないらしい。魔導士は薬草も扱うはずだが――とリリアナが内心不思議に思っていると、ペトラは苦笑した。
「本当は覚えなきゃいけないんだけど、どうもこの国の草花とは相性が悪いんだよね」
『まあ、そうなのですね』
草花との相性、とはリリアナの人生で初めて聞く言葉である。ペトラは少し優しい表情を浮かべて付け加えた。
「ベンはそこら辺、パーフェクトだよ。気持ち悪いぐらい知ってる」
ペトラは非常に口が悪い。特に嫌悪している他の魔導士たちに対しては容赦がない。ベンに対しても口汚いが、そこに込められた優しさと愛情はリリアナですら気付くようなものだった。なによりも、口調が違う。他の魔導士たちに対して発露する毒が、ベン・ドラコに対しては存在していない。
(ご本人方が気づかれていない様子が――なんとも言えませんけれど)
リリアナが思いを馳せている前で、ペトラは手早く準備を整え魔法陣を石台の上に白いチョークで描く。中心に鉢植えを置き、ペトラが取り出したのは人型に切り取られた白い紙だった。リリアナは、その白い紙に見覚えがあった。
『それは?』
「形代っていう呪具の一種。元々は東方式の呪具だけど、意外と便利だからあたしは良く使ってるよ。人に見立てるんだ」
(――やっぱり)
案の定だと、リリアナは内心で嘆息する。
前回ペトラと会った時に聞いた“東方式”の呪術。どうやら、前世の中華圏や日本の文化と共通しているようだ。ペトラが今日使おうとしている形代は、陰陽道や神道で使われているものに違いない。用途も合致する。となれば、“東方式”の呪術の基本理念もおおよそ理解できそうだった。
(森羅万象は陰と陽の二つに分類され、万物の生成消滅は陰陽に依るとする――ということですわね)
五行説は陰陽説の後から生じた説であり、陰陽五行思想と理解されることも多い。そして、火、水、木、金、土の五大元素は必ず陰と陽のいずれかに分類される。西方式――即ち、スリベグランディア王国でリリアナたちが使う魔術と同じ理論で構成される呪術は、四大元素の火、風、土、水から世界が成り立つとしている。東方式の基本概念である五大元素とは、全く違う概念だ。
(理解するのも難しい、と仰るのも当然ですわね。どうやら、魔導士の多くは頭が四角くていらっしゃるようですから)
つまり頭に柔軟性がない――もとい、頑固である、とリリアナは断じる。実際、時折ペトラに暴言を吐く魔導士たちの多くは重箱の隅をつつくような嫌味や見当違いの文句を垂れていて、お世辞にも頭が良いようには見えなかった。魔導省とは国でもトップクラスの優秀な者たちが集う場所だと思っていたが、その殆どは能力よりも縁故で認められた者ばかりのようだ。ベン・ドラコの「魔術と呪術の発展が阻害されている原因の多くは、あの連中だと思うんだよね」という言葉は実に的を射ているとリリアナは思う。既存の理論や規則の枠内で考えることも大切だが、かといって四角四面で考えたことに固執して、その考えを他者に押し付け貶めることは文化や技術の発展を妨げる。
内心でそんなことを考えているリリアナを尻目に、ペトラは鈴蘭の鉢植えに掛けられた呪術の解析を始めた。先日リリアナに掛けられた喉の術を解析する時にも生じた金色の光が、柔らかく鉢植えを包む。客観的に見ると非常に美しく幻想的な光景で、リリアナは目を奪われる。
やがて、魔法陣の上に不可思議な文様が現われる。時間経過と共に文様は様々に形を変えるが、ペトラは慣れた様子でその全てを読み取っていた。
「単純な術式だね。それほど難しくもない。術を掛けた人間は特定できないけど、あんたに近しい存在であることは確かだ」
『近しい、というのは、血の繋がりという意味ですの?』
「そう。魔力の質が似てる」
それならば、リリアナに呪術を掛けたのはフィリップではなく両親のどちらかだろう。リリアナはほっと息を吐いた。横目でリリアナを一瞥したペトラが、唇の端だけで笑う。
「ほっとしたみたいだね」
『ええ。正直申しまして、そうだろうと思っておりましたから。予想が当たって宜しゅうございましたわ』
「ほんと、全く年相応じゃないお嬢サマだよ」
ペトラは呆れたように肩を竦める。一般的な六歳の令嬢であれば、普通は肉親に呪われたと知れば嘆き悲しむところである。だが、リリアナはむしろ安堵したと言って憚らない。決して強がりでもなく、本心から言っていることが分かるからこそ、ペトラは苦笑するしかなかった。
しかし、リリアナにとっては警戒すべき対象が増えなかったことだけで僥倖である。もし新たな人物が自分を害そうと狙っているのであれば、その人物の特定から始めなければならないところだった。時間と手間が掛かりすぎる。
「それじゃあ、さっそく解呪するけど良い? ちゃんと呪術を仕掛けた本人には気付かれないようにする」
『お願いいたしますわ』
「あんたはそこに立って」
解析を済ませたペトラは、引き続き解呪に入ることにしたらしい。鈴蘭が置かれた石台のすぐ隣にある魔法陣の上に立つようリリアナを促す。リリアナは素直に従った。
リリアナの体が金色の光に包まれる。ペトラは準備した形代を魔法陣の上に魔術で移動させ、その形代が呪術者本人であると定める。そして、ペトラは絡み合った糸を解くように、鈴蘭に掛けられた呪術を無効化していく。無効化された術と対応する術式がリリアナの体から引き剥がされ、一つの完成された術式となって形代へと還る。返された術式は赤紫色の印となって白い形代を隙間なく埋め尽くしていった。
やがて、全ての呪術が解かれる。リリアナと鈴蘭の鉢植えを包んでいた金色の光は、霧が晴れるように消え去った。ぽとりと地面に落ちた形代は、ペトラの魔術によって燃え上がり浄化される。
「終わったよ。声、出る?」
ペトラは顔を上げてリリアナを見た。その顔には緊張が伺える。
リリアナはほんのわずかな緊張と共に口を開く。半年間、決して漏れることのなかった自分の声が一体どのような響きを持っていたのか、リリアナの記憶からは既に薄れていた。
「――あ、」
声が、出た。ペトラは目を瞠り、次いで嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
疑っていたわけではないが、まさか本当に声が出るとは思わず、リリアナは一瞬愕然とする。茫然とペトラの顔を見つめ、震える唇で囁くように告げた。
「出ます、わ。声が――、」
「よし、成功っ!」
ペトラの歓声がリリアナの言葉を遮る。
声が出るようになったとは言っても、久方ぶりに出したせいか掠れて聞き取り辛い。それでも、それは馴染んだ声だった。徐々に実感が湧いて、リリアナの微笑が本物に変わる。
ペトラは喜びのあまり、飛びつくようにしてリリアナを抱きしめた。
「――っ!」
リリアナは一瞬体を硬直させるが、戸惑いながらもゆるゆると持ち上げた両手をペトラの背中に回す。すぐにペトラはリリアナから体を離し、心底嬉しそうに間近でリリアナの顔を覗き込む。「良かった」と小さく漏れたペトラの言葉が、リリアナの鼓膜を揺らした。
初めて間近に人を感じたリリアナは困惑する。物心ついてから、リリアナを抱きしめる人はいなかった。体温が感じられるほど近くに他人を感じることも、ほとんどない。最近では、婚約者候補であるライリーくらいのものだ。だが、それもエスコートという大義名分がなければ果たされない類のものだった。侍女のマリアンヌはリリアナの身の回りの世話をするために体に触れることもあるが、それは単なる仕事の一環であって、感情の発露の一端としてではない。ペトラのように喜びのあまりリリアナに抱き着く存在は初めてだった。
それに――自分のことで、これほどまで喜んでくれる人など見たことがない。
動揺は押し隠し、リリアナは微笑で表情を取り繕い礼を言う。
「本当に、ありがとうございます」
「気にしなくて良いよ、十分金も貰ったし――正直、あんたなら金がなくても治してやったけど」
小さく付け加えられた言葉にリリアナは答えず、ただ笑みを浮かべる。ペトラから抱き着かれるという衝撃を抜けた今、徐々に胸の奥がふわふわと温かくなっていくのを感じる。そわそわと落ち着かず、いつもの微笑ではない笑みで頬が自然と緩みそうになる。
(これが、嬉しい――ということなのかしら)
生きて来た中で感じたことのない心境を的確に表す言葉が分からず、持てる知識を総動員して感情に付けるべき名前を推測する。
家族からプレゼントをもらった時でも、リリアナは何も思わなかった。彼女にとって家族とは単なる血縁者であり、それ以上でもそれ以下でもない。父親に至っては何を考えているのかも分からない、自分に害をなすかもしれない存在だ。誕生日プレゼントどころか、挨拶を交わしただけでも一体何を企んでいるのかと疑ってしまう間柄である。そんな父や母、そして関わり合いのない兄の手で声を取り戻したところで、嬉しいと思えたかは疑問だ。
(――ああ、そうですわね)
リリアナは一つの仮説に辿り着いた。
きっと、リリアナはペトラが喜んでくれたことが嬉しいのだ。
赤紫の髪をした魔導士が、リリアナの喉に掛けられた呪術を解呪できたことを心底喜んでいることはリリアナにも分かる。何故ペトラが他人であるリリアナの声を取り戻したことに、これほどまで喜ぶのかは理解できない。呪術の成功が嬉しいのかもしれない。だが、ペトラの“嬉しい”という感情だけは本物だと直感でリリアナは悟っていた。本心ではそう思っていないのではないかとか、その行動の裏にある本意を汲み取る必要がない。それがとても心安かった。
ほっと安堵した途端、喜びが胸に満ちていく――そう感じた瞬間、リリアナの頭に鋭い痛みが走った。頭痛とも少し違う反応に、リリアナは咄嗟に眉根を寄せる。だが、後片付けを始めたペトラは気が付かない。幸いなことに痛みは一瞬で治まり、リリアナは溜息を吐いた。
恐らく大したことはないのだろう。滅多にない体験をしたせいで、疲れがたまっただけに違いない。
リリアナはペトラの片づけを手伝うことにした。
「とりあえず、これで第一目標は達成したね」
「ええ、お陰様で。有難いことですわ」
声を取り戻せたことで、リリアナの懸念が一つ減った。だが、再び話せるようになったことを声高に言うつもりはなかった。あくまでもリリアナの最終目標は、ゲームのシナリオにあった破滅ルートを回避することだ。そのためには、まず王太子の婚約者候補から外れる必要がある。そのためにもリリアナは今後も人前では喋らないつもりだ。その上で魔術だけでなく呪術も習得し、万全な状態でゲームが始まる時期を迎えなければならない。
ゲームの知識も含めた前世の記憶に関してはペトラに話したことはないが、人前では声が出るようになったことも伏せておくつもりであること、そして呪術も学びたいことだけは告げている。
リリアナの喉に掛けられた呪術を解くという大仕事を終えたせいか、どこか高揚した口調でペトラがリリアナに尋ねた。
「それじゃあ、これからは呪術のお勉強?」
「できればお願い致したいと思っておりますの」
いいね、とペトラは笑う。どうやら自分が研究している呪術を他人に教えられることが嬉しいらしい。
「呪術好きなんて、滅多にいないからね。やっぱりこの国では魔術人気が高いよ」
「そうなんですの?」
「そう。呪術士の地位なんて底辺だよ、底辺」
確かに、魔導士の名はよく聞くが呪術士は滅多に聞かない。あまり良いイメージも持たれていないのも事実だ。呪術と言うと、闇魔術――ペトラは黒魔術と呼ぶが――と密接な関連があるという印象が強いからだ。リリアナはペトラを見上げた。
「だから、貴方は魔導士と名乗っていらっしゃるのですか?」
「その通り。一応、魔術も使えるからね。本当はあたしの得意分野は呪術なんだよ」
もしかしたら、ペトラが魔導省の中で差別されている理由の一つに、呪術が得意であるという理由も含まれているのかもしれない。女性で異国人というだけでは、あまりにも以前に出会った魔導士たちの態度は酷かった。
「そうなのですね。ですが、簡単にお話を伺った限りでは、呪術は奥が深そうですわ」
「良く分かってるじゃん」
好きな分野を好意的に見られて嬉しいのか、ペトラは満足気だ。そのことに微笑を洩らし、片づけを終えたリリアナはペトラと恒例のお茶会を楽しむことにした。