74. 運命と宿命 4
ライリーに、一体何と答えようか――メラーズ伯爵は心中で呟く。
リリアナ・アレクサンドラ・クラークの居場所を知っているかと問われたら、正確な答えは持ち合わせていない。リリアナに関してはグリード伯爵が対応することになっているからだ。
リリアナに関しては、メラーズ伯爵は大して気に止めていなかった。王太子が出奔してから大公に乗り換えようとした時は呆れ果てたが、所詮は小娘の為すことである。大して自分たちの企てに影響があるとも思えない。
しかし、グリード伯爵だけは妙にリリアナを気にかけていた。もし大公派に害を為すようであれば処理して良いかと、雑談のように尋ねられたから、大公派に類が及ばないようにするのであれば好きにすれば良いと答えた。
「リリアナ嬢――ですか」
メラーズ伯爵は曖昧に言った。そんなメラーズ伯爵を、ライリーは妙なほど静かに見つめていた。
確かにリリアナはクラーク公爵クライドの実妹であり、上手く扱えばクラーク公爵家も大公派に取り込むことができる。しかし、クライドはライリーの側近候補であり、ケニス辺境伯の息子ルシアンのように何処か掴みどころがない人物だった
あくまで直感でしかないが、クライドは御し難い。クラーク公爵家を取り込むことに賛成ではあるが、クライドの扱いをメラーズ伯爵は決めかねていた。とはいえ、リリアナとクライドは貴族らしい育ちのせいか、それほど交流がない。直接本人に確かめた時も、やはりクライドとは馬が合わないらしいと見て取った。実際に二人共、兄妹よりも王太子との方が過ごす時間が長いことは分かっている。
それならば、リリアナ本人のみを取り込み、兄は何らかの理由をこじつけて表舞台から消えて貰った方が良い、というのがメラーズ伯爵の判断だった。
クライドを失墜させて、かつクラーク公爵の爵位や財産を大公派に取り込むためには、リリアナの存在を有効活用した方が効率的だ。そのため、クライドが失墜するよりも前にリリアナを大公派の貴族に嫁がせ、クラーク公爵家から切り離しておいた方が良い。リリアナの希望が大公に嫁ぐことのようだから、多少面倒はあるものの、するからには早い方が良いだろうと考えた。
しかし、リリアナがフランクリン・スリベグラード大公と婚姻するためには、王太子ライリーの署名が必要となる。貴族の婚約に関する書類は神殿が保管しているし、婚約相手の死亡が立証された場合はその署名は不要だ。しかし、リリアナの婚約相手が一介の貴族ではないというのが面倒だった。さすがに、王太子の死をでっち上げることは出来ない。
そのため中々思うように物事が運ばず、忍耐強さに自信のあるメラーズ伯爵でさえ時折苛立つことがあった。
とはいえ、本当にリリアナが大公と婚約する羽目にならず良かった、と思ったのは最近のことだ。グリード伯爵から、リリアナが自分たちの計画を邪魔する心積もりだったという証拠が手に入ったという報告を受けた。どうやら大公が命じた、魔導石を王都中にばら撒くという計画を阻止しようとしていたらしい。未遂で止めたが、今後邪魔をされるのも不味い。そのため、リリアナ・アレクサンドラ・クラークは病気になり領地に戻った、という報告を受けた。
当然、メラーズ伯爵はグリード伯爵の報告を額面通り受け取ったりはしない。恐らくリリアナが表舞台に戻って来ることは二度とない、ということが分かればそれで良かった。
尤も、その報告を受けた後でメラーズ伯爵は計画を練り直さなければならなかった。リリアナという駒が使えないのあれば、クライドを失墜させた後に大公派の息が掛かった――できればメラーズ伯爵の手駒となり得る人物をクラーク公爵家当主の座に付けなければならない。つい先日、ようやく数人の候補者をクラーク公爵家の遠縁から見繕ったところだった。
「さあ。病になられたとかで、急ぎ御領地にお戻りになられたと聞き及んでおりますが」
メラーズ伯爵の言葉を聞いたライリーは目を眇める。本当の事を伯爵が言っているのか、推し量っているようだ。メラーズ伯爵も外交官としての能力を評価された経歴がある。この程度のことで動揺はしない。静かにライリーを見返しながらも、その隙を探しながら、戸棚にかけた手に意識を向けた。
「つまりグリード伯爵が彼女を何処へやったのか、教えて貰えなかったということだね。貴方が大公派の取り纏め役だと思っていたけれど、どうやらそれは私の思い込みだったらしい」
ライリーの台詞は明らかにメラーズ伯爵を虚仮にするものだった。思わずメラーズ伯爵は眉間に皺を寄せるが、これまでに舐めて来た辛酸はこの程度のものではない。
だが、さすがにライリーが続けた次の台詞には動揺を隠しきれなかった。
「その様子だと、グリード伯爵がどこへ姿を消したのかも知らないようだ」
グリード伯爵の行方は、メラーズ伯爵も掴めていない。それほどまでに、綺麗に彼は姿を消したのだ。それも他ならぬ、グリード伯爵本人の屋敷内での出来事だった。グリード伯爵はその慎重な性格に相応しく、屋敷にも厳重な警備を敷いていた。伯爵という地位では考えられないほどの護衛、魔道具を駆使し、果てには使用人も殆どが実戦経験を持つ者ばかりだった。
そのような警備の中で、数多の護衛を出し抜きグリード伯爵を拐かせる者など居るはずがない。そう思っていたが、ライリーの言葉を聞く限りでは、彼がグリード伯爵の行方を把握しているようにしか思えなかった。
「まさか――殿下がグリード伯爵を連れ去ったのですか?」
ライリーは応えない。わずかに小首をかしげてみせるだけだ。肯定も否定もしないその仕草は、メラーズ伯爵には肯定にしか見えなかった。
伯爵は内心で歯噛みする。グリード伯爵を王太子派が捕えたというのが本当であれば、メラーズ伯爵たち大公派の計画は想像以上に王太子派に漏れていたということになる。ある程度は敵もメラーズ伯爵たちの手の内を読んでいるだろうと想像はしていたが、ここに来れば最早どこまでが王太子たちの手の上だったのか読めない。
やはり斯くなる上はと、メラーズ伯爵は表情を引き締める。そして、棚に置いてあった本を全て足元に落とし、その後ろに隠し置かれていた剣を手にした。
剣を構えたメラーズ伯爵を見て、ライリーが片眉を上げる。ゆっくりと剣を鞘から抜き構えるメラーズ伯爵を見ても、ライリーは腰に提げた剣を手にしようとすらしなかった。寧ろ、面白そうにクスリと笑みを漏らしさえする。そんなライリーに、メラーズ伯爵は眉根を寄せた。
「生粋の文官である私が、剣を持つことはそれほどおかしなことでしょうか?」
「いや? 貴方がある程度、剣術を収めていることは知っているよ」
ライリーは静かに答える。
外交官だった時代、メラーズ伯爵はスリベグランディア王国と国交がない国や、敵国にも幾度となく赴いた。当然そのような国では孤立無援になることもある。祖国に不利益を齎さないようにするためにも、ある程度の剣術は必要だった。魔術も身に着けようとしたものの、メラーズ伯爵に魔導士の才はなかったらしい。しかし、剣だけであれば相応の実力があると伯爵は自負していた。
「窮鼠猫を噛むという諺を思い出しただけだよ」
「――私が鼠だと?」
「違うのかい?」
おかしなことを聞いたとでも言いたげに、ライリーは笑みを深める。途端に妖艶さが増したが、メラーズ伯爵にとってはただ忌々しいだけだった。
「鼠に噛まれた猫が無事とは言えませんぞ。それに、私が消えても第二、第三の鼠が現れるでしょう」
王族とはいえ、遥かに年下の王太子に鼠呼ばわりされて面白いわけがない。外交官時代の経験のお陰で、他の貴族と比べると忍耐強いメラーズ伯爵ではあるが、さすがにそれが繰り返されると我慢の限界である。
言外に、大公派の貴族はまだまだ居ると脅すように口にする。しかし、ライリーは動じなかった。現時点では大公派など有象無象の集まりに過ぎない。彼らを統括するメラーズ伯爵が居なくなれば、今は大公派に旨味を感じている連中も、一斉にライリーに媚を売り始めるだろう。
「表面上は大人しくしていてくれるなら、腹の中で何を考えていようと構わないさ」
あっさりとライリーは言い放つ。メラーズ伯爵は、ライリーの肝が存外太いことに目を細める。
だが、いつまでものんびりしている訳にはいかない。いつライリーの手の者が宰相室に駆け付けて来るか分からないのだ。さすがに、複数人を相手に逃げ切れるとはメラーズ伯爵も思っていなかった。
つくづく、油断していたことが悔やまれる。もっと身辺の警護に人手を割くべきだったかと後悔しても後の祭りだ。
メラーズ伯爵はそれ以上、口を開こうとはしなかった。無言のまま剣を構えライリーと対峙する。しかし、普段と変わらない様子で立っているライリーからは、一切の隙が読み取れない。徐々にメラーズ伯爵の顔色が悪くなる。
表情を消して佇んでいたライリーは、おもむろに剣を抜いた。その瞬間、メラーズ伯爵は大きく踏み込み、渾身の一撃を放つ。だが、その切っ先はライリーをかすりもしなかった。
横に一歩動いて体勢を低くすることでメラーズ伯爵の剣を避けたライリーは、抜いた剣をそのまま振り抜きメラーズ伯爵の体を斜め下から袈裟斬りにする。鋭い切っ先はメラーズ伯爵の体を引き裂いた。
血飛沫を上げて、伯爵はガクリと膝を着く。目を瞠った伯爵の手から、鈍い金属音を立てて剣が落ちる。一拍後に、伯爵の力を失った体は、どうと床に倒れ伏した。そのまま、伯爵はピクリとも動かない。
メラーズ伯爵の傍らにしゃがみ込んだライリーは、伯爵の口元と首筋に手を当て、事切れたことを確認した。小さく溜息を吐いて、ライリーは立ち上がる。
大公派の主要人物の殆どが、これで居なくなった。スコーン侯爵は領地に蟄居しているが、心を病んだらしく、もう政治の場に出て来ることはないだろう。メラーズ伯爵はライリーが斬り捨てた。グリード伯爵は行方不明だが、行方を晦ました時期を考えると、潜伏のためではなく何らかの事件や陰謀に巻き込まれたと考える方が妥当だ。
だから大公派の脅威は殆ど潰えたと言って良い。しかし、ライリーは全く喜べなかった。
その時、宰相室の扉が叩かれる。ライリーが顔を上げてそちらに視線をやれば、返事もしていないにも関わらず扉が開いた。ライリーの予想通りの人物が姿を現し、ライリーは僅かに表情を緩める。
「終わったか?」
尋ねたのはオースティンだった。ライリーは一つ頷く。剣を振って血を落とすと、鞘に戻した。
メラーズ伯爵の亡骸を避けて扉の方に行く。部屋中に充満する血の香りに気が付いたのか、オースティンがライリーの肩越しに室内を覗き、片眉を上げた。
「やっぱりこうなったか」
「私に剣を向けたからね。恐らく逃げるつもりだったんだろう」
「まあ、どのみち死刑だしな。手間が省けた」
あっさりと言ってのけるオースティンと共にライリーは部屋を出る。
大公派に命じられて王宮内を監視していた騎士の殆どは、心の底から大公派に従っていたわけではなかった。そのため、彼らを統率している騎士を捕縛すれば皆、王太子に恭順の意志を示したのだ。
血に汚れた宰相室は、その中の誰かが片付けるだろう、とライリーが思っていれば、オースティンが直ぐに人を呼びつけて指示を出す。頷いた騎士が駆けだしたのを見送り、ライリーとオースティンは再び早足で廊下を歩く。
「それで、リリアナ嬢の居場所は吐いたか?」
「メラーズ伯爵は知らなかった」
ライリーはオースティンの質問に断言する。驚いたように目を瞠ったオースティンは、次いで疑わし気な表情になった。
「それが嘘だったりしないか?」
「どうやら、私にはある程度その判別がつくようだよ」
肩を竦めたライリーが、思わせぶりに手を破魔の剣にやる。オースティンはまじまじと破魔の剣を凝視した。
「破魔の剣って、そんな効果もあるのか?」
「らしいね。常に分かるわけではないけれど」
オースティンの質問に曖昧な言葉を返したライリーは、気が急くような様子で尋ねた。
「そっちの首尾は?」
「順調だ。一部、反抗的な奴らもいたけど、思った以上にエミリア嬢が健闘した。彼女の剣術は流石だな、カルヴァート辺境伯仕込みなだけある」
思わずライリーは驚いたようにオースティンを見た。オースティンは良く他人を褒めるし、惚れたせいかエミリアには殊更優しい。しかし、剣術に限っては別だった。
本人が幼い頃から人並み以上に努力しているせいか、滅多なことでは手放しで賞賛しない。だが、だからこそエミリアの優秀さが伝わって来る。
しかし、今はエミリアの剣技について話す余裕はない。一つ頷いたライリーは、静かに次の行動を提示した。
「有象無象はある程度片が付いたということだね。それなら、早くサーシャを見つけよう――嫌な予感がする」
「分かった。でもどうやって探す? 王宮に居るとは限らないぞ」
オースティンは表情を引き締める。王宮の中にいるかどうかさえ、ライリーたちには分からない。だが、ライリーには確信がある様子だった。
「分からない。分からないけれど、恐らく瘴気を辿れば――一番濃い場所に、サーシャが居る」
わずかに蒼褪めた顔は凛としたまま、前を見据える。確信に満ちた物言いに首を傾げながらも、言葉の不穏さにオースティンは顔色を失った。愕然とライリーを見るが、ライリーはそんなオースティンになど構っていられないとばかりに歩き出す。
小さく舌打ちを漏らしたオースティンは、服のポケットから魔道具を取り出した。それはエミリアに転移するよう指示を飛ばすため使った、通信用の魔道具だった。
「ベラスタ、合流だ」
『了解』
今、エミリアとクライド、ベラスタは一緒に行動している。これから何が起こるか分からない。できるだけ一ヵ所にまとまっておいた方が良い、というのがオースティンの判断だった。
廊下を駆け足になりながら、オースティンは窓の外へちらりと視線をやる。曇天が更に世界に闇を落としている。王都の近くには、王立騎士団長ヘガティを中心とした王太子派が集まっているはずだ。彼らにも連絡を取らねばならない。ライリーもそのことは承知しているはずだが、今はリリアナのことに気を取られている。
唇を引き結んだオースティンは、幼馴染の背中を追った。
62-1
74-2