74. 運命と宿命 3
メラーズ伯爵の不穏な気配を感じていないはずはないのに、ライリーは悠然と立っている。訝し気に眉根を寄せるメラーズ伯爵に、ライリーは気の毒そうな視線を向けた。
「さすがにその言い分は無理があるよ、伯爵」
当然、メラーズ伯爵にも自覚はある。しかし、伯爵は頓着しなかった。ライリーが何を言おうとも、今この場で有利なのはメラーズ伯爵だ。
ライリーは帯剣しているとはいえ孤立無援であり、一方のメラーズ伯爵は直ぐに騎士たちを呼べる。王宮で警備を担当している騎士たちはほぼ、大公派の手の者だ。ライリーが優れた剣士であることは薄っすらと聞いているものの、メラーズ伯爵はライリーが戦ったところを目の当たりにしたことはない。そのため、騎士が複数人で掛かれば一溜まりもないだろうと予測していた。
一方で、ライリーもまた気負った様子なく立っている。全くメラーズ伯爵を恐れていない態度に、寧ろ伯爵は憐憫を覚えた。
王太子ライリーは成長するにつれて才覚を発揮し始め、父ホレイシオとは一線を画していると評価されるようになった。未来の国王としても相応しいと資質を認められ、多くの貴族が王太子派となったのだ。
だが、それでもまだライリーは若い。メラーズ伯爵にしてみればまだ青二才でしかない。それ故に、現状を正確に把握できていないのだろうと、伯爵は考えていた。
ライリーはそんな伯爵の心中も察しているかのように、目を僅かに細めて伯爵を眺める。そしておもむろに口を開いた。
「面白いことにね、あの騎士たちが立って居る場所には共通点があった。本来であれば王族でなければ気付かない共通点だ」
メラーズ伯爵は無言のままライリーの言葉を待つ。勿論、メラーズ伯爵はライリーが何を示唆しているのか気が付いていた。
王宮内に配置した騎士たちが監視しているのは、フランクリン・スリベグラード大公から聞き出した隠し通路の出入口だ。中に入って出口を探すことも考えたが、本来は王族にのみ通行が許された通路だ。不測の事態が起こることを憂慮し、王太子が出て来るのを待った。
「恐らく、命じた者は叔父上から王宮の隠し通路の場所を聞き出したのだろうね。最重要機密であるにも関わらず外部に漏らすとは、叔父上も長い隠居暮らしで王族としてのご自覚をお忘れになったらしい」
普段であれば穏やかな言葉を選びがちなライリーにしては、痛烈な皮肉だ。王宮の隠し通路が外部に漏れるということは、有事の際に王族が逃走する経路が失われるということでもある。今騎士たちが監視している隠し通路は全て潰さなければならないと、ライリーは心中で嘆息した。
メラーズ伯爵の頬がピクリと痙攣する。その様を変わらぬ表情で眺めながら、ライリーは挑発的な笑みを浮かべた。
「だが、叔父上がご存知だった隠し通路はごく一部だったらしい。それも当然だね。次期国王であればともかく、一介の王族に全ての情報が伝わることはない」
普段の顔色に戻っていたメラーズ伯爵の表情が消える。
ライリーが言外に滲ませた意味は、メラーズ伯爵には明白だった。つまり、フランクリン・スリベグラード大公は国王が引き継ぐ情報の殆どを持っていない、ということだ。
そのような人物を即位させたところで、スリベグランディア王国にとって重要な情報は失われていくばかりだ。だが、それならばホレイシオはどうなのだと、メラーズ伯爵は我に返る。先代国王は最後まで、王太子を指名しないまま逝去した。更に言えば、ホレイシオは即位直後から体調を崩し、寝たきりになって政務に携わることは殆どなかった。
メラーズ伯爵は勿論、大公もローカッド公爵家については全く情報を持っていないだろうと、ライリーは予想していた。そうでなければ、大公が知る隠し通路だけを見張らせて満足するなどあり得ない。
「――その情報も、先代陛下の代でほぼ潰えたのではありませんか。陛下は先代と折り合いが悪かったと聞き及んでおります。その“国王のみが引き継ぐことの出来る情報”とやらが、正しく伝わっているとは到底思えません」
つまり、その条件はホレイシオもフランクリン・スリベグラードも同じだと、メラーズ伯爵は断言する。しかし、ライリーは動じなかった。寧ろ気の毒そうな視線を伯爵に向ける。
「祖父は私を信頼し、病床にも呼んでいた。ああ、貴方は知らないのかな。まだその頃の貴方は外交官として国外を飛び回っていたはずだから」
ライリーの言い様に、メラーズ伯爵の顔は怒りに赤く染まる。
外交官時代の自分を卑下するつもりは、伯爵には毛頭なかった。当時の積み重ねがあったからこそ、今の自分があると思っている。しかし、同時に外交官時代は辛酸をなめた時代でもあった。自分よりも能力の劣る貴族が顧問会議に参加し、強い発言権を得ている。享楽に耽っている堕落した者たちが、自分に指示する立場にある――それが憎くて、悔しくて、メラーズ伯爵は今の地位を得ることに固執した。
だからこそ、当時を当て擦るようなライリーの発言には我慢ならなかった。
しかし、ライリーはそんなメラーズ伯爵には頓着しない。寧ろライリーにとっては、メラーズ伯爵が我を忘れるほど、都合が良かった。だからこそたっぷり間を取って、殊更嫌味に聞こえるように言い放つ。
「担ぎ出す相手を間違えたのではないかな?」
ライリーの言葉は、メラーズ伯爵の計略を根底から否定するものだった。
しかし、ライリーがどれだけメラーズ伯爵を侮辱しようと、ライリーは今ここに一人で居る。結局自分が有利であることに変わりはないと、メラーズ伯爵は自分をどうにか落ち着けた。とはいえ、これ以上くだらない会話に付き合い続ける気にはなれず、伯爵は後ろ手に卓上から呼び鈴を取り上げ鳴らす。その音だけで、隣室に控えている護衛が出て来るよう、全ての手筈を整えていた。
だが、誰も出て来ない。メラーズ伯爵は眉根を寄せ、もう一度呼び鈴を鳴らした。だが状況は変わらない。室内に護衛たちがなだれ込んで来るわけでもなく、ライリーは面白そうに呼び鈴を手にしている伯爵を見つめる。
そこへ来て、ようやくメラーズ伯爵は一つの可能性に思い当たった。まさか、と眼前のライリーを凝視する。ライリーは緩やかに微笑んだまま、メラーズ伯爵の疑念を肯定する。
「王宮は広いから、まだ全てを制圧はできていないけれど、私が入って来た場所からここまでは既に制圧を終えているよ」
当然、宰相室の隣室に潜んでいた護衛たちも、メラーズ伯爵が気付かぬ内に拘束したのだろう。まさかライリー一人で成したことではあるまい。部屋に一人で来たライリーを見て、護衛や付き人が居ないことに違和感を覚えるどころか、単身で乗り込んで来たのだと思い込んだ自身に伯爵は歯噛みする。
冷静に考えれば、王族が一人で行動することなどあり得ない。
だが、部下たちが捕えると思い込んでいたライリーが自由の身で前触れなくメラーズ伯爵の前に現れたこと、たとえライリーが全ての罠を潜り抜けたとしても、制圧を終えた後で騎士たちと共に行動すると思い込んでいたこと、その全てがメラーズ伯爵の誤断に繋がった。
ライリーは更に言葉を続ける。
「騎士たちを倒したところで、指令を出す頭が生きている間は彼らも指示に従い続けなければならない。こういう場合、頭を叩くのが定石だ。それは、王都を見回っている治安部隊に関しても同じことだろう」
だから王宮を全て制圧する前に、ライリーは単身メラーズ伯爵の元に来たのだ。
メラーズ伯爵に告げることはないが、今頃はオースティンとクライド、ベラスタ、そして魔道具で呼び出したエミリアが、大公派の騎士たちを相手に大立ち回りをしているはずだった。
ライリーは、自分を凝視するメラーズ伯爵を見て、少し困った様子で首を傾げてみせた。
「大公派と言うからには“頭”は叔父上――と言いたいところだけれど、叔父上はただ担ぎ出されただけだからね。本当の頭は、貴方だ――メラーズ伯爵」
そう告げてにっこり笑うライリーの表情は、その整った美貌を更に魅力的に見せる。しかし、メラーズ伯爵にとっては忌々しいものでしかなかった。
「だから私は、最初に貴方の元に来たんだよ」
「――光栄なことですね」
メラーズ伯爵は言葉を探し、ようやく一言を絞り出す。既に呼び鈴は手放しているが、伯爵はここで諦める気などなかった。頭を叩けば良い、というのであれば、それはメラーズ伯爵にも言えることだ。王太子派は王太子を中心に集まっているのだから、ライリーがこちらの手にあれば交渉を有利に進められる。
ここまで来て、フランクリン・スリベグラード大公を国王に据える野望に固執する気は、メラーズ伯爵にはなかった。己の為していることが結局謀反であることは、他ならぬ伯爵自身が良く知っている。謀反人は、その企てに成功すれば覇者に、失敗すれば大罪人だ。
今ここで捕えられ命を落とすのであれば、国外に逃れるだけの時間を稼ぎたい。
心中で様々な可能性を取捨選択し、メラーズ伯爵はゆっくりと動いた。未だにライリーは腰に提げた剣を抜くこともなく、悠々とメラーズ伯爵の行動を眺めている。ライリーが己の剣術に自信があるから傍観しているのか、それともメラーズ伯爵がライリーを害そうという気がないと思っているのか――ライリーの心中は、伯爵には分からない。
だが、メラーズ伯爵にとっては、ライリーが傍観しているだけの時間、猶予が増えるということでもあった。
剣を隠した戸棚に近づいたところで、ふと思い出したようにライリーが首を傾げる。
「その前に一つ確認しておきたいんだけど」
メラーズ伯爵は眉根を寄せた。“その前”とは一体何を意味しているのかと、頭の片隅に疑問が湧く。だが、ライリーもそこまで愚かではない。メラーズ伯爵が何を考えているのか正確なところまでは把握していなくとも、自分に何かしらの攻撃を加えるつもりがあると予想はしているのだろう。
つまり“その前”とは、争う前ということだ。
そんなことを考えながらも、メラーズ伯爵は手近にある戸棚に声を掛ける。ライリーの言動に細心の注意を払いながら、伯爵は「なんでしょうか」と言葉を返す。
ライリーは、ほんの少しばかり低い声で、静かに尋ねた。
「――私の婚約者は、どこに居るのかな?」
メラーズ伯爵の手がピクリと動く。ここでリリアナの名が出て来るとは、伯爵も予想だにしていなかった。









