9. 絡む糸 7
魔導省から屋敷に戻ったリリアナは、部屋に置いてある鈴蘭の鉢植えを確認した。冬に備えて花や葉、茎は枯れているものの、侍女たちが世話をしてくれているお陰で球根は無事だ。この分だと越冬し再び来年花を咲かせるだろう。
(花を咲かせていないのは僥倖ですわね。持ち運びがしやすいですわ)
ペトラには、鉢植えごと持って来るようにと言われている。呪術がどういった類のものかは、鉢植えを見なければ分からないが、恐らく鈴蘭の鉢植えと近い場所で過ごすことで術が対象に作用し、声を失うのではないかというのがペトラの見立てだった。
仮に鈴蘭に掛けられた術が常にリリアナに作用しなければならないのであれば、リリアナが屋敷を長期間離れたり、鈴蘭の鉢植えを捨てた時点でリリアナの声は元に戻ってしまう。もしリリアナに掛けられた術が短期間で解けても良いと考えているのであれば話は別だが、リリアナはその可能性は低いと考えていた。
(だって、お父様はわたくしと殿下の婚約を解消させたいとお考えですものね)
兄クライドの披露宴会場での父親の態度を見ていると、婚約者候補から外す以外のことも考えていそうな気がするのだが、現状それを明らかにする方法はない。
一旦、誰にも知られないよう喉に掛けられた術を解呪することが第一歩となるだろう。その方法にしてはペトラに一任しているし、彼女は力強く請け負ってくれた。彼女の能力についてはリリアナも信頼している。
攻略対象者の兄がペトラと近しい関係であることだけが気がかりだが、ゲームの情報しか知らないリリアナはベン・ドラコ副長官への対処法も立てられない。リリアナの魔力に興味を持たれてしまったようだが、ゲームに登場していない上に彼自身も多忙だ。多少粗雑に対応しても問題はないだろう。
そう考えたリリアナは、鈴蘭の鉢植えを捨てるとマリアンヌに伝え、魔力で見えないよう術を掛けた上で鉢植えを屋敷の裏手に隠した。
ライリーから、次の面会日程に関する連絡が来たのは二週間後のことだった。忙しいにも関わらず連絡を急いでくれたのだろうことは想像がつく。リリアナはすぐに返信を認め、ペトラにも日程を連絡した。
*****
リリアナは目を瞬かせて、目の前に座るライリーを眺めていた。
およそ一ヵ月ぶりに会った王太子はとても疲れている様子だった。どことなく覇気もなく、いつものように快活な会話もない。それでも丁寧にリリアナに接するライリーの手を取って、リリアナは椅子に腰かけた。普段であれば侍女が毒見を済ませた茶と菓子を持って来る時には楽し気に最近の出来事を話すのだが、今日はそれもない。リリアナは首を傾げた。
侍女が茶と菓子を運んでくれる。礼を込めてリリアナは侍女を見やる。初めて見る顔だった。
ぞわりとした感覚が首筋に走る。違和感を覚えたリリアナは眉根を寄せた――何かがおかしい。
テーブルの上に目を走らせる。普段ならば銀食器が用いられるテーブルの上で、金色に光るフォークとスプーンは注意を引いた。ライリーが気付いた様子はない。普段であれば気付くはずの彼が何も言わないのは、他に気を取られることがあるからかもしれない。
(婚約者候補から降りるために、ある程度のことは見て見ぬふりをするつもりでおりましたけれど)
小さな頭の中でリリアナは瞬時にあらゆる可能性を弾き出す。
ここでライリーに注意を促すか、それとも素知らぬ顔で王太子暗殺未遂の現場を目撃するか。
ライリーが攻略対象者である以上、この場で死ぬことはないはずだ。だが、万が一ということも否定はできない。
フォティア領の屋敷から戻る途中に遭遇した魔物襲撃で、リリアナは現実とゲームでわずかにシナリオの狂いが生じていることを悟っていた。大まかな流れに違いはないだろうが、過信は禁物だ。ゲームはリセットできるが、現実では死んだ者は生き返らない。
リリアナが毒物に気が付いたと知られたら、どうなるか――リリアナが毒を盛ったと疑われる可能性はある。だが、それはライリーが毒に倒れたところで同じことだ。
それならばと、リリアナは紅茶のカップにライリーが手を触れる前に声を掛けた。
『殿下。手を触れるのはお待ちになってくださいまし。毒が入っているような気が致しますわ』
「――リリアナ嬢?」
ライリーは目を瞬かせてリリアナの顔を見る。一瞬、その茫然とした顔に不思議そうな表情を浮かべたが、リリアナの表情に何かを悟った様子だった。すぐに顔を引き締め、侍女を呼ぶ。毒について詰問するのかと様子を見ていたリリアナの前で、ライリーは穏やかに侍女に告げた。
「悪いんだが、銀のティースプーンを持って来てくれないかな。それと、角砂糖も頼むよ」
「え――あ、はい」
侍女はうろたえた。最初から毒が入っていると決めつけるのではなく、銀食器を持って来させるのは良い判断だ。リリアナは自分の前に置かれた紅茶を眺める。
(わたくしの紅茶も毒入りかしら)
恐らくライリーは毒の耐性を付ける訓練を受けているのだろうが、リリアナは受けていない。下手をすれば死んでしまうだろう。だが、毒が入っていると分かっているのであれば手を付けなければ良いだけの話だ。
(――今度、紅茶から毒物だけを抽出できないか、屋敷で研究してみましょう)
水と土の魔術を上手く組み合わせれば、不純物として毒物だけを取り除くことができるのではないか、とリリアナは考える。
(でも、わたくしの方法は前世の科学を基準としたものですから――化学構造式が特定された毒しか抽出できないでしょうし、全ての毒を一度に抽出できるような魔術を使うことを考えると――面倒ですわね)
この世界に存在する毒全てを特定し、その化学構造式を調べた上で魔術を組み立てる必要がある。一度の詠唱で該当する毒全てを抽出できれば良いが、一つずつしか抽出できないのであれば、むしろ“飲まない”という選択をした方が現実的だ。
そうこう考えている内に、侍女が二人分のティースプーンを持って来る。有難く受け取ったライリーは、慎重にスプーンを紅茶に付ける。すると、付けた先から銀がゆっくりと黒ずんでいく。
ライリーの表情が一瞬だけ翳った。リリアナも同じように試すと、やはりこちらも黒ずむ。ちらりとリリアナが上目遣いにライリーを窺えば、ばっちりと目が合った。ライリーの目が気遣うように眇められる。リリアナはにっこりと笑みを浮かべてみせた。
『わたくしの紅茶も、飲めないようですわね』
「――残念だよ」
静かな目で告げられたその言葉に、銀のスプーンを持って来た侍女が蒼褪め震える。王太子と婚約者候補の紅茶に毒が混入されていたとなると、一大事だ。ライリーが手を挙げると、陰に控えていた護衛がすぐに出て来て侍女を拘束する。
「で、殿下――!」
侍女が悲壮な声を上げる。拘束された侍女を前に、ライリーは悠然と足を組んだ。
「君がしたのかな?」
「い、いえ、そんな、わ、私は――!」
「ん?」
にっこりと笑みを浮かべるその双眸は恐ろしいほどに冷たい。横目でそんな王太子の様子を窺いながら、リリアナはこっそりと彼を見直していた。
(ゲームのライリーの片鱗が見えますわね……)
ゲームのライリーも強かな面を見せていた。ゲームの開始は七年後だが、既にこの時期から下地はあったらしい。
ライリーは侍女の言葉を待つが、侍女は真っ青な顔で今にも失神しそうだ。口をきける状態ではなかった。ライリーは溜息を吐いて、侍女を連れて行くよう護衛に指示する。そして眉を八の字にして、リリアナに向き直った。
「ごめんね。お茶会どころではなくなってしまった」
『いいえ、わたくしは構いませんわ』
「ありがとう」
ライリーはにっこりと礼を言う。少し何かを考えていたが、やおら彼は口を開いた。
「リリアナ嬢。もし嫌でなかったら、今後はリリアナと呼ばせて貰っても良いかな」
リリアナは目を瞬かせる。どうやらライリーは距離を縮めたいらしい。むしろ距離を取りたいリリアナにとっては断りたい内容だが、婚約者候補である以上、拒否することは難しかった。致し方なしにリリアナは頷いて承諾する。ライリーは嬉しそうに笑みを零し、更に言葉を続けた。
「ありがとう、リリアナ。それから、私のことは今後、ライリーと呼んでくれ」
『お心遣い、有難く存じますわ、ライリー殿下』
「殿下はいらないよ」
ライリーは首を振る。リリアナは眩暈を覚えたが、声が出ない以上、リリアナがライリーのことを名で呼んでいることに気が付かれることはない。それだけを励みに、リリアナは諦めながら『――ライリー様』と言った。ライリーは苦笑気味に頷く。小さく「今はそれで仕方がないか」と呟いたように聞こえたが、リリアナは素知らぬふりをした。
「もし貴方さえ良ければ、これから私の執務室に行かないか? 勿論、扉は開けたままにしておくし、部屋の前には護衛もいる」
『殿下、いえ、ライリー様の執務室でございますか?』
まさか執務室にまで呼ばれるとは思わなかった。他の婚約者候補たちと話す機会はないが、王太子の執務室に招待されたのは、令嬢たちの中でリリアナが初めてではなかろうか。
珍しく言葉を失ったリリアナに、ライリーは頷いてみせる。
「うん。嫌だったら無理にとは言わないけど――」
リリアナは逡巡する。ペトラとの待ち合わせまで、まだ時間はたっぷりとある。攻略対象者の筆頭であるライリーは極力避けたいと常々思っているものの、定期的に二人だけのお茶会を開いている時点で、今更な気もした。それに、このタイミングで王宮内部の構造を知ることも、今後役に立つかもしれない。
(ゲームでは、さすがに王宮の見取り図など出て来ませんでしたから――)
ヒロインと攻略対象の恋愛模様を描く乙女ゲームに、王宮内部の詳細な見取り図など不要だ。国盗りゲームやサスペンス、探偵物であれば、もしかしたら攻略本や設定資料集に記載があったかもしれない。だが、あくまでもリリアナの知るこの世界の“ゲーム”は乙女ゲームだった。
『それでしたら、ぜひお願いいたしますわ』
リリアナはにっこりと笑みを浮かべて頷く。ライリーはそんなリリアナに、ほっとしたような表情を向けた。
*****
ライリーの執務室は、リリアナが良く茶会をするサロンよりも中心部に近い場所にあった。人通りも増え、王族の私的空間から政治的な空間に移行したことを肌で感じる。時折、通り過ぎる文官がライリーに礼を取ると同時に、リリアナを見て驚いたような表情を浮かべるのが印象的だった。
そこまで来て、ようやくリリアナは不安を覚える。
(――お父様とお会いしてしまったら、どうしましょう)
それは不味い気がする。クラーク公爵は宰相であり、王宮内に勤務しているはずだ。宰相ともなれば、ライリーの言う執務室と近いのではないだろうか。それに、以前ライリーが教えてくれた通り、国王の容体が思わしくないのであれば――そしてライリーが多少なりと執務に関わっているのであれば、宰相であるクラーク公爵がライリーに会いに執務室を訪れる可能性もあるのではないか。
しかし、今更帰りますとも言えない。
どうか父親に会いませんようにと祈っていたリリアナは、無事にライリーの執務室に到着した。
「ここだよ。ああ、言い忘れてたけど、貴方のお父上は今視察で地方に行っているから王宮にはいない。安心してくれて良いよ」
ライリーはにっこりと笑う。リリアナは笑顔で黙礼したが、内心ではひやりとした。
(何故ここで、お父様のことを口になさいましたの?)
この王太子は何か知っているのだろうか――とリリアナはライリーの横顔を窺うが、内心は読めない。致し方なしに、リリアナは勧められるがままソファーに腰を下ろした。ライリーは手ずから茶を淹れると、リリアナの前に座った。扉は隙間を開けているが、ライリーは防音の結界を張る。手慣れた様子に、リリアナはライリーの暮らしに思いを馳せた。周囲に間諜がいるのではないかと、常に警戒しているのだろう。
「実は、今日は貴方に訊きたいことがあってね。私の婚約者候補という立場について」
リリアナは首を傾げた。もし候補から外れてくれと頼まれるのであれば嬉しいが、リリアナに直接話しても意味がないとライリーは知っているはずだ。可能性としては低い。リリアナが傷つかないよう、クラーク公爵に通達するより先に話をする可能性がほんの僅かに存在しているだけだ。
案の定、ライリーが口にしたのは婚約者候補から外れるという類の話ではなかった。真っ直ぐにリリアナを見つめ、ライリーは優しく真摯な口調で尋ねる。
「公爵は、婚約者候補になることについて何か仰っていた?」
『いいえ――何も申してはおりませんわ』
リリアナは首を振る。父親は、リリアナに何も言っていない。遠回しに婚約者候補から外れるなと告げ、そして態度では婚約者候補から外れるように圧力を掛ける。明らかにダブル・バインドだ。矛盾した命令が繰り返される状況に置かれると、人は精神的に治療が必要な状態まで追い込まれてしまう。リリアナに前世の知識がなければ確実に混乱し、不安定な状態に陥っていたに違いない。ただでさえ公爵は執拗に、リリアナの恐怖を煽るような言動を繰り返して来た。
幸いなことに、今のリリアナは大きく感情を動かされるようなこともなく、恐怖や悲哀のせいで混乱に陥ることもない。記憶を取り戻す前でさえ、リリアナは感情の起伏がほとんどなかった――そこまで考えたところで、ようやくリリアナの中で点が線として繋がった。
(ゲームのわたくしは、魔物に出会った時に恐慌状態に陥って魔力暴走を起こしたのだったわ)
実際は単なる魔物ではなく、魔物襲撃に巻き込まれたのだが――その時既に、リリアナがダブル・バインドに晒され精神不安定になっていたのだとしたら。そして、その状態を見越して公爵が矛盾した命令をリリアナに突き付けていたのだとしたら――。
(お父様は、魔物襲撃があることをあの時ご存知だった――?)
だが、魔物襲撃の発生は予知できるものではない。となると、どこかのタイミングでリリアナが自家中毒を起こして魔力暴走を起こし、自滅することを望んでいたのだろうか。
しかし、もしそうなら公爵は、感情の起伏が少ないリリアナが魔力暴走を起こすほどの恐慌状態に陥る確信があったことになる。その仮定は不自然に思えた。
「リリアナ?」
黙り込んでしまったリリアナに、ライリーが気遣うような視線を向ける。リリアナは慌てて微笑を浮かべ、何でもないと首を振った。
「そう? それなら良いんだけど――無理はしていないかい?」
『いえ、滅相もございませんわ。お心遣い、ありがとうございます』
気遣わし気なライリーの言葉を否定する。微笑を浮かべながら否定するリリアナの姿に、ライリーはわずかに眉根を寄せた。どうやらリリアナの言葉を信じていないらしい。だが、リリアナとしてはライリーに告げることなど何一つとしてない。求めていることは婚約者候補から自分を外して貰うこと、その一点である。
「――何かあったら幾らでも言ってね。私にできることなら、幾らでも力を貸すよ」
『ありがとうございます』
ライリーの心遣いは親切心から出たものなのだろう。本来であれば有難く受け取るべきだ。
しかし、そんな日が来ることはないと、リリアナは知っていた。