72. 漆黒を纏う者 2
暫くして地下牢から戻って来た看守は、血の匂いを漂わせていた。本人が怪我をした様子はない。間違いなく返り血を浴びたのだろうが、黒い看守服のお陰で一見しただけでは分からなかった。そして、その手にはくしゃくしゃになった布を握っている。
「それは?」
先ほどまでの恍惚とした表情を消し去って無表情に戻った男は、看守に尋ねた。看守は血が染みついた布を乱暴に屑籠に放り込む。
「魔術陣だ。案の定、あいつ隠し持ってやがった」
「へえ。どんな効果を発動する魔術陣なんだろうな」
「知るかよ」
恐らく囚人を殴り殺して来ただろう看守は、苛立ったように吐き捨てる。
「どうせ碌なもんじゃないだろ。転移でもして逃げるつもりだったんじゃないのか」
そういうと、看守は小さく息を吐いて乱暴に棚を開けた。その中には、看守の着替えや掃除用具だけでなく、囚人が暴れた時に鎮圧するための武器や魔道具もまとめて保管されている。そして囚人が死亡した時に、遺体を処理する道具一式も、奥の方に仕舞われていた。
「おい、お前も手伝えよ。一緒にやらかしたくせに、俺だけに片づけを押し付けるな」
看守の言葉に、男は片眉を上げた。どうやら男が仕掛けた術の後遺症が残っているらしく、現実を正確に認識できていないようだ。
実際は、男は詰所に居たままで、看守が一人囚人の元に行き殴り殺した。正常な精神では出来なかっただろうが、男は術で看守の理性を弱め、怒りや衝動を増長するように仕向けていた。ついでに、多少看守の身体能力も高めている。
その結果、男の狙い通りに、看守は収監されていたグリード伯爵をたった一人で殴り殺したようだ。
看守の発言を否定しても良かったが、そうすると看守が混乱する可能性がある。多少無理を通した自覚のある男は、何も言わずに立ち上がった。男が知る限りにおいて、人間は非常に脆弱な生き物だ。術が上手く効いている状態で混乱させれば、ほぼ間違いなく精神に異常を来してしまうだろう。
囚人が一人死んでも、誰も何も言わない。だが、看守が死ねば原因が調査される。捜査の手が男に辿り着くことはまずないだろうが、万が一を考えると、後始末に手が抜けない。それならば、看守が壊れてしまわないように気を使った方が良いに決まっていた。
「――ドラコ家が居るからな、面倒な」
宿敵の事を考えると、どうしても眉根が寄ってしまう。幸いにも、男のぼやきは看守の耳には届いていないようだった。
「行くぞ」
死体を処理する道具を持った看守が声をかけて来る。お前も持てと言わんばかりに態度に、男は諦めて大きな麻袋を掴んだ。内側は皮で処理されており、水分が外に漏れ出ないようになっている。牢で死亡した囚人はその麻袋に詰め込まれ、王宮から少し離れた場所へと埋葬されることになっていた。埋葬と言っても、実際は大きな穴に埋めるだけで、手厚く葬られるわけではない。
男は面倒そうな表情を浮かべたが、看守はそのことに気付くことなく詰所を出る。地下牢に下れば、確かに奥へと進むにつれて血の臭いが濃くなった。
「随分と徹底的にやったみたいだな」
「当然のことだろ」
男が呟けば、看守がぴくりと反応する。苛立ちを隠さない言葉に、男は肩を竦めた。
「そうだな」
同意を示せば、看守は何か言いたそうに唇を動かしたものの、それ以上文句を言うことはない。むっつりとした表情で黙り込み、その後は無言を貫く。男も口を開こうとはせず、ただ淡々と処理をした。
*****
全ての処理を終えた後、看守と別れ詰所を出た男は、やれやれと言わんばかりに溜息を吐いた。元々王宮に勤めているわけではない男は、自分の部屋などない。しかし、全くそんなことはおくびにも出さず、彼は適当な部屋に目を付け、一人で中に入った。扉に鍵が掛かっていたはずだが、単純な鍵など男にとってはあってないようなものだ。その上、扉を閉めた途端に、元通りきっちりと鍵が掛けられる。
「全く、一人で死体の処理もできないとは嘆かわしいですね」
男は術を解き、本来の姿を取り戻す。中肉中背に印象の薄い顔は消え去り、背中には透明な二枚の翅が生えている。優雅な動作でソファーに腰掛ける様は、どこからどう見ても高位貴族の立ち居振る舞いだった。
『お前がお膳立てしたんだろうが、ベルゼビュート。そもそも、あの看守の本質は殺人とは程遠いぞ』
『正気を取り戻して絶望するのであれば、それはそれで主の復活の礎となるでしょう』
ベルゼビュートと名前を呼ばれた男は、自分一人しかいないはずの空間から全く別人の声が響いても一切動じなかった。自分が動いたのだから、当然やって来るだろうと思っていた相手が現れただけだ。
おもむろに振り返れば、絨毯の上に黒い獅子が居る。黒獅子は不思議に煌めく双眸に呆れを滲ませ、ベルゼビュートを見上げた。
『そこまでなりふり構わなくとも、魔王陛下の復活は直だ。焦ることもあるまい』
黒獅子の台詞に、ベルゼビュートは皮肉に唇を歪める。どこか呆れたようにも、嘲笑するようにも見える表情で、彼は黒獅子に言い返した。
『アスタロス。寧ろ貴方は主の復活が遅い方が良いと思っているのでしょう。我らが至高の主ではなく、人間の小娘に心を揺らがされ主のお戻りを憂うとは、なんと情けない。魔族の風上にも置けませんね』
そのような状態で、果たして嘗ての貴方の部下たちは付いて来てくれるかどうか――と、ベルゼビュートは嗤う。アスタロスと呼ばれたアジュライトは、眉間に皺を寄せた。黒獅子の姿でそうすると、敵を威嚇しているように見える。
『当然、魔王陛下の復活は心待ちにしている。だが、お前のやり方には反対だと言っているんだ』
喉の奥で唸りながら吐き捨てるように告げるアジュライトに、ベルゼビュートは“話にならない”とでも言いたげにわざとらしく溜息を吐いた。
『全く愚かにもほどがありますよ。主復活のためにはあの娘の体内に取り込まれた力が必要なのですから。人間と我らが同胞の王、どちらかを選べというまでもありません。主復活こそが、我ら魔族の長年の悲願でしょう』
『完全なる復活、な――』
ベルゼビュートの指摘に、アジュライトは明確な答えを返さない。その代わり、小さな声で何かを思うように、ベルゼビュートの言葉を繰り返した。
『そうです。弱った状態で復活したところで、再び人間たちに封印されてしまえば元も子もありません。我々にとっては残念なことに、今の時代には三傑の血を継ぐ者が勢揃いしているのです。あの悪夢を繰り返すわけにはいきません』
最後の台詞は、酷く苦いものを含んでいる。アジュライトもそれには反論できず、口を噤んだ。
嘗て、彼らの王レピドライトが存命だった頃――魔王と呼ばれるレピドライトを倒さんと立ち上がった若者たちが居た。今では三傑と呼ばれる若者たちは数多の試練を乗り越え、ベルゼビュートやアスタロス、プルフラスといったレピドライトの右腕たちを次々と葬った。尤も、消滅しなかったため長い眠りについただけだったが、結果的にレピドライトが一人で若者たちと対決する羽目になり封印された事実は覆らない。
『主と違い、私たちは厳重に封じられたわけではありませんでした。ですから、時と共に目覚めた後は、主の復活を――永久にも等しい時間を、待つ他なかった。その間に失われた力を回復することが出来たことは、不幸中の幸いでしたが』
ベルゼビュートは自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。アジュライトは絨毯の上に四つ足で座り込んだまま、黙ってベルゼビュートの独白に耳を傾けていた。
『もう、私は十分待ちました。本来であればもっと待つことになったのかもしれません。ですが、主の復活を目前にして何もせず見守ることなど、私にはできない。ただ指をくわえて眺めるなど、それこそ腑抜けというものです。魔王陛下の側近としての矜持を捨て去るに等しい行為を、許容するわけにはいきません』
熱のこもった口調で言い切ったベルゼビュートは、ソファーから立ち上がる。そして振り返り、彼はアジュライトを真っ直ぐな視線で射貫いた。
『貴方が何を考えようが、私の知ったことではありません。主の復活を望まぬ貴方を、私はただ軽蔑し、そして陛下がお戻りになった暁には、貴方の不忠を告げるでしょう』
それは、間違いなく決別の言葉だ。しかしアジュライトは動じることなく、静かにベルゼビュートの視線を受け止める。
ベルゼビュートは何か言いたげに長い睫毛を震わせた。しかし覚悟を決めたように唇を引き締めた。
『貴方には、恩があります。ですから、今ここで貴方を害する気はありません。陛下が戻られた時、御命令があればその通りに致しますが――それまでは。しかし、』
一旦言葉を区切ったベルゼビュートは、拳を握りしめる。そして挑発するように、決然と言い放つ。
『主の復活を――完全なる復活を妨げるようであれば、その時は貴方と言えど容赦しませんから、悪しからず』
一方的に話すだけ話したベルゼビュートは、その場から掻き消える。全く気配は残らない。王宮の敷地外に出たかどうかまでは分からないが、少なくともアジュライトが気配を感じられる範囲からは出たらしい。
暫く無言でいたアジュライトは、小さく溜息を吐いた。ベルゼビュートにも色々と思う所はあったのだろうと、理解はできる。魔族としては、魔王の完全なる復活を望むベルゼビュートこそが正しい姿なのだろう。だが、あまりにも視野が狭いとしか思えなかった。
『――若いな』
ぽつりとアジュライトが漏らした独白は、誰に聞かれることもなく、静寂に消えていった。
*****
ベルゼビュートとアジュライトが王宮の一室で話をしていた頃、リリアナ・アレクサンドラ・クラークは、王太子ライリー・ウィリアムズ・スリベグラードの私室に居た。主の居ない部屋は寒々しい。しかし、身を隠すにはちょうど良い場所だった。
これまでも身を隠す場所を探して彷徨っていたが、一番居心地が良い場所がライリーの私室だ。ライリーが留守にして随分と時間が経っているが、長らく暮らしていた部屋にはライリーの気配が色濃く残っている。それに、王太子の私室ともなれば気軽に使用人たちも近づかない。
(残存魔力のせいかしら)
リリアナは心の中で呟いた。王宮の他の場所に居れば、どうしても意識が虚ろになる時間が長くなる。美しい銀髪が半分以上黒に染まっている今、リリアナの意識は常に夢見心地だった。ふとした拍子に現実に引き戻されるものの、大半の時間は茫然と過ごしている。それでも無意識に、食事を摂ったりしていることに、リリアナは気が付いていた。
恐らく、闇の力に染められた意識でも生存本能は辛うじて残っているのだろう。このまま闇の力の浸食が進めば、リリアナの体は死を迎えるか、もしくは魔族のものになるに違いない。
(それでも、ウィルの部屋に居れば多少は意識がはっきり致しますわ)
夢現の時間は短くなり、見る夢も悪夢ではなく幸福なものになる。
つい今し方見ていた夢でも、リリアナはライリーと共に最近読んだ本の話をし、そしてライリーはリリアナを観劇に誘っていた。リリアナのために最近はやりの劇団を王宮に呼ぶというライリーに、リリアナは呆れながらも喜びを感じていた。
実際にあったことも無かったことも、夢に出て来る。それでも、リリアナは夢の中で幸福だった。
ライリーからただ食事に呼ばれただけで、観劇に誘われただけで――否、名前を呼ばれただけで、泣きそうな気持ちになる。泣きそう、という感情を、リリアナは夢の中で初めて知った。そして、幸福というものが時には涙を誘うものなのだと、夢のリリアナは気が付いた。
無意識に、リリアナは寝台の上に寝転ぶ。そして、枕を手元に引き寄せて抱きしめた。
しなければならないことが、残っている。頭では理解している。大公派はまだ王宮を牛耳っていて、ライリーたちを無事に迎え入れるためには、早急にフランクリン・スリベグラード大公とメラーズ伯爵を処分しなければならない。
(大公とメラーズ伯爵、それから――魔王も、まだ残っていますわ)
でも、と、リリアナは枕に顔を埋めた。酷く薄いものの、ライリーの存在を感じられる。ライリーが普段から身にまとっている香りと、彼の残存魔力が、リリアナの心を繋ぎ止めてくれる。
(もう少し――もう少しだけ、幸福な夢をみていたいの)
体が、動かない。そのまま引きずられるようにして、リリアナの意識は夢へと沈んだ。