72. 漆黒を纏う者 1
空に広がる灰色の雲は太陽を隠している。最初は少しだった雲も日がたつにつれて厚くなり、太陽が隠れる時間も長くなった。夜は月も星もその姿を隠してしまう。
彼にとってそれは望んだものだったが、一方で全く思い通りにならないこともあった。
「あの男はどこに行った」
苛立ちも露わに男は問う。彼の前に立つ男は、相手の迫力を恐れることなく静かに答える。
「行方を探しております」
「先日も同じことを言っていたではないか。メラーズ、まさか、旧友だからと庇い立てしているのではないだろうな?」
「滅相もございません、閣下」
メラーズ伯爵ははっきりと疑惑を否定した。そんなメラーズ伯爵を見て、閣下と呼ばれたフランクリン・スリベグラード大公は顔を顰めた。
もし伯爵が答えを曖昧に濁してしまえば、大公にこの場で斬り捨てられる可能性があった。以前であれば全く興味なさそうな態度で、メラーズ伯爵や他の貴族たちのことは無視していただろう。だが、最近のフランクリン・スリベグラード大公の態度は妙だった。全てを把握し、やたらと関わり合いを持とうとしたがる。
「私としても、グリード伯爵のことは気がかりなのです」
フランクリン・スリベグラード大公に向けてメラーズ伯爵がそう言えば、大公は鼻を鳴らした。
もしこの場にスコーン侯爵やグリード伯爵が居れば大公の注意も全員に注がれただろうが、今や残っているのはメラーズ伯爵だけだ。
スコーン侯爵は王太子ライリーを捕らえに行った先で、どうやら心を病んだらしい。当初は上手く言いつくろっていた侯爵家も、病を得た当主をそのままにはしておけず、とうとう次代の当主を選び始めている。次期当主の座は予想通り嫡男が継ぐようだが、その嫡男とメラーズ伯爵は交流がない。様々な情報を集めた結果、どうやらあまり頭の回らない男だと知り、メラーズ伯爵は次期当主を大公派に取り込まないことにした。手間暇をかけて取り込んだ男が全く使えない、最悪の場合自分たちの足を引っ張るようでは、労力が全て無駄になる。
そして肝心のグリード伯爵も、いつの間にか行方不明になっていた。グリード伯爵はメラーズ伯爵とは旧知の仲だ。多少、違法かもしれないとメラーズ伯爵が躊躇うような内容であっても、グリード伯爵は何食わぬ顔で見事、思い通りの結果を得て来た。そういう意味で、グリード伯爵はメラーズ伯爵にとって非常に得難い人物だったのだ。
何でも如才なくこなすグリード伯爵だからこそ、フランクリン・スリベグラード大公の依頼は見事にこなしてくれると信じていたのだが――と、メラーズ伯爵は内心で嘆息する。
結果だけを見れば、王太子ライリーが持っているという破魔の剣は手元に来ないまま、グリード伯爵の行方は分からない。そしてフランクリン・スリベグラード大公の様子を見る限り、彼が王都中にばら撒くよう命じた魔導石の効果も、思ったように発揮されていないようだった。
その上、グリード伯爵は行方が分からない。当初、伯爵家の使用人たちは主人の不在を誤魔化して捜索を続けようとしていた。だが、出した手紙に反応がなかったことを訝しんだメラーズ伯爵が秘密裏に調べた結果、グリード伯爵の失踪が明るみになったのだ。明るみになったといっても、その事実を知るのはグリード伯爵邸の使用人とメラーズ伯爵、そしてフランクリン・スリベグラード大公だけだ。
フランクリン・スリベグラード大公は、腹立ちまぎれに乱暴な仕草で足を組み替えた。
「全く、出来んなら最初から出来ぬと言えば良いものを。下手に出来る顔をするからこのようなことになる。その上、行方不明などと言ってその信憑性も分からん。大方、失敗を悟られるのが嫌で自ら身を隠したんだろう」
苛々と、感情の赴くままに大公は文句を口にする。メラーズ伯爵は、無言で大公の言葉を聞いていた。
反論があったとしても、口にする勇気はない。今のフランクリン・スリベグラード大公は、何が切っ掛けで爆発するか分からない、不穏な存在でもあった。
だが、大公は直ぐにがらりと雰囲気を変えた。たった今まで不機嫌だったことが嘘だったかのように、不穏な空気が掻き消える。
「それで、王太子はどこにいる」
「――殿下の居場所は確認できておりませんが、ケニス辺境伯領とエアルドレッド公爵領から、軍勢が向かっているようです」
「そうか。こちらの軍勢は?」
何の前触れもなく機嫌や態度が変わる大公に、メラーズ伯爵の神経は削られていく。
無視できる相手ならば良いのだが、生憎と相手は大公であり、国王ホレイシオと王太子ライリーを追いやった暁には玉座に座って貰わなければならない。そのため、ふとした瞬間に覚える疲労を押し隠して、メラーズ伯爵は答えた。
「王立騎士団、それから大公派の貴族から兵を出させています。中立派の貴族からも、一部ではありますが協力を取り付けました」
本当であれば、そこにスコーン侯爵軍が加わるはずだった。そうすれば、王太子派の貴族もある程度の勢力を集結させなければ戦力として釣り合わない。しかし、スコーン侯爵が療養に入り後継者を定める時期に入った今、スコーン侯爵家の協力は見込めなかった。
果たして戦力が足りるかは不明だが、そもそもメラーズ伯爵には王都を戦場にする気はない。王都を失えば、たとえ政権を得ることが出来たとしても、復興にかなりの時間と金がかかる。元の繁栄を取り戻すだけで、大公の治世はその大半を失うだろう。そうなってしまえば、富と権力を楽しむ余裕もなくなってしまう。
メラーズ伯爵の説明を聞いたフランクリン・スリベグラード大公は、満足気に頬を歪めた。
「まぁ良い。それならどうにかなるだろう。それから、王太子が持っている破魔の剣は私のものだ。何が何でも、奪って来い」
そう告げたフランクリン・スリベグラード大公の両眼が、昏く光る。メラーズ伯爵は静かに、そして深々と頭を下げた。
「――御意」
拒否することは、最早メラーズ伯爵にはできなかった。
*****
一筋の光も入らない、饐えた臭いが充満している地下牢――物見の塔の地下牢。そこで、その男は喚いていた。
「何故誰も私を助けぬのだ、私はグリード伯爵家当主だ!」
看守はその声の主を一瞥するが、無視して牢の前を通り過ぎる。
「あ、待て!! 出せ、さもなくば貴様、我が伯爵家が決して赦しはせんぞ!」
必死に牢の隙間から手を伸ばそうとするが、勿論看守には指先すら届かない。そして看守は、わずかに気味が悪そうな表情を浮かべて、地下牢を出たところにある看守の詰所に戻った。
「どうした、妙な顔して」
詰所に居た看守の仲間が尋ねると、地下牢から戻って来たばかりの看守は嫌そうな顔になる。
「一番奥の牢に居る奴さ」
「ああ、あいつな」
物見の塔の地下牢を受け持っている看守は、投獄された者たちの罪状は知らされていない。だからこそ、看守たちは囚人たちと慣れ合おうとはしなかった。
どのような罪を犯していようと、物見の塔の地下牢に放り込まれた罪人は死刑を待つばかりの凶悪犯と言っても過言ではない。平民であっても何らかの理由が認められた場合、そして囚人が貴族の場合は死刑を免れることもある。しかし、その場合であっても囚人の罪は一生涯、許されることはない。物見の塔の囚人たちは、二度と外の世界に出られない者ばかりだった。
「閉じ込められて随分経つってのに、未だに自分が貴族だって思い込んでるみたいだぜ」
「また、牢から出さないと伯爵家が俺らを断罪するとかほざいたのか?」
「ずっと叫んでた。あんだけ叫び続けて、喉が枯れないのも妙な話だよ」
心底気持ちが悪そうに、地下牢から戻って来たばかりの看守は言う。
物見の塔の地下牢には、貴族が入ることもある。しかしそれは例外的な場合だけだ。そして貴族が投獄される際には、具体的な名前こそ出されないものの、貴族が入るという事実だけ看守に伝えられる。
つまり、本当にその囚人がグリード伯爵ならば、看守たちは事前に“貴族が投獄されている”と聞いていたはずだった。しかし、実際はそのような情報は耳に入っていない。つまり、自分がグリード伯爵だと主張している囚人は、看守たちにとっては単に虚言癖のある平民の囚人でしかなかった。
「そもそも、普通の囚人ならもうそろそろ、何も喋らなくなる時期じゃないか? それなのにまだ喚く元気があるとか――何か、禁術でも使っているんじゃないか」
「禁術? まさか」
同僚の言葉を、看守は笑い飛ばした。
物見の塔の地下牢自体にも魔術や呪術を行使できないような術を施してあるが、件の囚人が居る牢はその牢自体にも堅固な術が掛けられている。
しかし、同僚は真剣な表情のままだった。
「人間が掛けた術に完璧なんてないだろ。平民だから本人が魔力を持って術を使っているとは考えにくい。もしかしたら、高名な魔導士か呪術師に頼んで作って貰った陣を隠し持ってるんじゃないか?」
看守は目を剥く。全く想像していなかった、という表情だ。そして同僚の言葉を理解した途端、その看守は俄かに慌て出した。
「いや、もしそれならそれでヤバイだろ。俺たちの職務怠慢って言われて減給になったら不味い」
囚人に食事を与えて状態を確認することだけが、看守の仕事ではない。囚人が外部と連絡を取り合ったり、脱獄を企んだりしていないかを逐一確認し、もし不穏な動きが見られたら適宜対処しなければならなかった。
勿論、囚人が魔術陣や呪術陣を持っていることが知れた場合、発見し回収していなかった看守が責任を問われる。減給や謹慎になっても嫌だが、最悪の場合は職を追われることすらある。そうなれば、次の仕事を見つけるのも難しい。
慌てふためく看守に、しかし同僚は困り顔で尋ねた。
「でもな、普通に尋ねてもあの囚人が話を聞くとは思えないし、協力的な態度をとるとも思えない。寧ろ、この際だから自分を牢から出してグリード伯爵邸まで送れ、とか言い出しそうじゃないか?」
「――確かに、そうだな」
看守は同僚の言葉を聞いて難しい顔で頷く。同僚が口にしたことを、確かに件の囚人は言いそうだった。どうするべきかと悩む看守を見守っていた同僚は、少し困ったような表情で、穏やかに告げる。
「多少乱暴になったとしても、自分の立場を理解させた方が良いかもしれないぞ」
その言葉を聞いた看守は一瞬迷う様子をみせたが、すぐにはっきりと頷いた。
「そうだな、それが良い」
そして、看守は踵を返して詰所を出る。そのまま彼が足早に向かうのは、つい先ほど出て来たばかりの地下牢だった。その双眸は虚ろに昏く翳っているが、本人に自覚はない。
看守の同僚は、しかし仲間の背中を追いかけることもなく、詰所の椅子に腰かけたまま、看守が地下牢へ消えていく様子を眺めていた。看守と話している時は凡庸とした顔つきだったが、一人になった瞬間、妖艶な笑みを浮かべる。
「いやはや――想定外ではあったが、あの娘は上手くやってくれた」
喉の奥でくつくつと笑う。足を組む様は堂々としていて、つい今し方まで看守と話していた姿とは全くの別人だった。
「あの男の自業自得な部分があることも考えたら、感謝はあの娘だけでなく、あの男にも捧げるべきか」
男は一人、全く本気ではない口調で呟く。
物見の塔の地下牢には、長らく貴族は投獄されていないことになっている。ここ最近に投獄された、貴族やそれに準じる身分の者と言えば、ベン・ドラコとリリアナ・アレクサンドラ・クラークの二人だ。しかし、いずれの場合も看守に注意喚起はなされなかった。大公派が、看守に貴族の投獄を伝えるという規則を知らなかったはずはない。彼らは敢えて、その規則を無視した。
だからこその、現状だ。
「リリアナとかいう娘は人間を一人、牢獄に転移させただけだ。ああ、それから、あの男が牢に居た期間を看守たちに錯覚させて記録を書き換えた、しかしそれもまた大した手間ではない」
“自分こそがグリード伯爵だ”と主張する囚人が本当のことを言っていると、男は知っている。当然、リリアナ・アレクサンドラ・クラークがグリード伯爵を物見の塔の地下牢に転移させ閉じ込めたことも、把握していた。
リリアナがしたことと言えば、たった三つだ。グリード伯爵が貴族だと信じて貰えない原因は、大公派がベン・ドラコやリリアナを投獄する際に、貴族が牢に入ると看守に告げなかったせいだとも言える。
いずれにせよ、現状は男にとって最良の方向に向かっていることは間違いなかった。
人間には聞こえない怒鳴り声と悲鳴、怨嗟の言葉が男の耳には届く。じきに、血塗れになった看守は地下牢の階段を上がって戻って来る。
男としては、看守が死のうが伯爵が死のうが、どちらでも構わなかった。最終的に、伯爵が命を落とすことは彼にとって決定事項だ。看守が死ねば、男が直々に手を下すだけである。だが、存外看守は強かったらしい。
「我が主、復活のために」
陶然とした面差しで、男は囁く。
物見の塔の地下牢に投獄されたまま、死亡する囚人は珍しくはない。看守が手を下さずとも、体に悪い環境の下で健康を蝕まれ、心を病む者は多かった。
ほぼ間違いなく、グリード伯爵も同じ末路を辿るだろう。そして、長年闇に手を染めて来た伯爵の遺体は、とても良い媒介になり得た。
「憤怒、恐怖、慟哭――それこそ、物見の塔の地下牢に相応しい饗宴だ」
小さく漏らされた言葉は、誰にも届かなかった。