71. 南東の再会 3
ビヴァリーとオルガの鋭い視線も意に介さず、ドルミル・バトラーは肩を竦めた。
「私は転移陣を幾つか持っています。時間が足りないのでしょう? 一瞬とはいきませんが、行軍するよりもかなり時間を短縮できるでしょう」
切羽詰まっているオルガとしては非常にありがたい申し出だ。だが、すぐには頷けなかった。その理由は偏に、旨すぎる話だからではなく、言い出した人物その人にある。
オルガはドルミル・バトラーと交流はない。しかし、六年前に一度だけ会ったことがある。その時、彼はオルガを皇国に連れ帰りたいと言った。ユナティアン皇国は後継者争いが熾烈であり、武闘大会でオルガの優秀さを見抜き、ローランド皇子とイーディス皇女の護衛になって貰いたいと告げたのだ。
結局その時はリリアナも断り、オルガ本人も拒絶した。そのため無理に誘われることもなかったものの、その後、王都近郊にあるリリアナの住まいに訪れる間諜の中には、オルガを標的としていた者も含まれていた。
諦めたように見せかけて、オルガを自国に連れ帰ることを諦めていない――それが、オルガから見たドルミル・バトラーの評価だった。
警戒するようにバトラーを睥睨するオルガに気が付いたビヴァリーは、わずかに訝し気な表情を浮かべる。一方のバトラーはオルガのその反応さえ楽しむように口角に微笑を浮かべた。もしここにローランド皇子やイーディス皇女が居れば、その珍しさに仰天しただろう表情だった。
普段、バトラーが浮かべる笑みと言えば失笑や冷笑だ。しかし、今のバトラーが浮かべた笑みは純粋に何かを楽しむようなものだった。
「そこまで私を警戒されずとも宜しいでしょう」
本音を言っても良いところではあったが、オルガは敢えて口を噤んだ。オルガの代わりに、ビヴァリーが穏やかに、しかし目付きは鋭くバトラーの様子を窺いながら問う。
「我々に助力しても、貴方には何の益もございませんでしょう」
本来であれば、隣国の後継者争いなど関わらないに越したことはない。勿論、敢えて助力することで恩を売るという手もあるが、未だ後継者として確定していないローランド皇子にとって、スリベグランディア王国に介入することは好手にも悪手にもなり得る。それ以上に、今のバトラーが王太子派と大公派の戦いに助力できない理由があった。
ビヴァリーは険しい表情で、バトラーに彼の立場を思い起こさせようと、言葉を重ねた。
「そもそも、貴方はここへ秘密裏にいらしたはず。私共に与すれば、あなた方が我が国にいらっしゃることがコンラート・ヘルツベルク大公に知れますよ」
「ああ、そのことですか。確かに大公に知れてしまえば困るでしょうが――困るのは私ではありませんからね」
バトラーはひんやりとしたものを滲ませながら呟いた。バトラーが困らないのであれば誰が困るのかとオルガは眉根を寄せたが、ビヴァリーには自明であったらしい。彼女は更に目付きを鋭くして、バトラーを睨み据えた。そうすると、美貌も相まって非常に迫力が出る。普通の男であれば気圧されるだろう気配を身に纏わせたビヴァリーだが、バトラーは平然としたままその視線を受け止めた。
「義理を欠くお方は、我がカルヴァート辺境伯領にお招きする客人として相応しくございませんわね」
決して名指ししたわけではない。しかし、明らかにビヴァリーはバトラーを批判していた。
正式な使者でないとはいえ、ドルミル・バトラーは隣国ユナティアン皇国の皇子ローランドの側近だ。皇帝の覚えもめでたい人物に、堂々と言って良い台詞ではない。
しかし、バトラーは全くビヴァリーの批難を意に介していない様子だった。
「義理を欠いてはいませんよ。彼が私に頼んだのはスリベグランディア王国に行きたいということ、それから王太子殿下に拝謁したいということ、その二つでしたから。どのみち王都に貴方を連れて行けば、王太子殿下にもお目見え叶うでしょう――尤も、大公閣下に知られぬように、という条件付きではありましたが」
バトラーが“彼”というが、オルガにはそれが一体何者なのか分からない。しかしビヴァリーは把握しているらしく、眉根を寄せて小さく息を吐いた。
「それを詭弁というのではありませんか」
「そうでもありません。王太子殿下にお会いしてしまえば、正直なところ、我が国の大公閣下に気が付かれても構わないのですよ」
「それは貴方だけのお考えでは?」
ビヴァリーは更に指摘する。しかしバトラーは含み笑いを漏らすだけで腹を立てる様子はない。
二人の様子を傍観していたオルガは、内心で驚いていた。
スリベグランディア王国もユナティアン皇国も、隣国だからかそれほど大きく価値観は変わらない。尤もユナティアン皇国は広大なため東と西ではかなり文化が違うらしいが、少なくともスリベグランディア王国に近い地域のユナティアン皇国の男性は女性に意見されることを嫌う傾向にある。
そのため、ビヴァリーにこれほど言われて腹を立てないバトラーは、珍しい部類ではあった。
「そうですな。それではお好きに――と本来であれば言うところですが」
バトラーはそういうと、ビヴァリーとオルガが腰かけていないソファーに目をやり「座っても?」と尋ねる。オルガは眉根を寄せたしビヴァリーも訝し気な色を一瞬見せたが、バトラーはビヴァリーが小さく首肯したのを確認すると颯爽と、一人掛け用のソファーに座った。
「辺境伯殿は既にご存知ですが、貴方は恐らく何が何やらという状態でしょう」
まるで彼こそが館の主人だとでも錯覚しそうになるほど、堂々とした態度でバトラーはオルガに顔を向ける。オルガが眉を寄せると、バトラーはビヴァリーが口を開くよりも早く説明を始めた。
「諸々は割愛しますが、端的に言いますと、ユナティアン皇国には北の国からオルヴァー・オーケセンという名の外交官が来ております」
「――外交官?」
思わずオルガは目を瞬かせた。北の国とユナティアン皇国の間には峻険な山脈が連なっている。そのため、北方に国があることは広く知られているものの、国交はないに等しい。その山々を命を賭して乗り越えた移民たちも居るが、皇国や王国の人々は特に彼らに注意を払っては来なかった。そのため“北の移民”たちは皆、日銭を稼ぎながら辛うじて日々を生き長らえている。
そのような状況にも関わらず、北の国から外交官が来ているとは全く思いもしなかった。
そんなオルガの表情を見たバトラーは、少々説明を付け加えた。
「元々、北からはそれほど多くないものの、移民たちが流れついて来ています。外交官殿は彼らの保護を頼みに来たようなのですが、なかなかそこまで手を貸そうという貴族はいません。そこで外交官殿に協力を申し出たのが、移民たちに仕事を斡旋しているヘルツベルク大公閣下というわけです」
オルガは黙って聞いていた。だが、一体何故それが現状に繋がるのかは分からない。
バトラーはそんなオルガを見て僅かに首を傾げたが、一旦全てを話すことにしたのだろう。淡々と、しかし明確に説明を続けた。
「とはいえ、我が国の大公閣下は無類の戦好きですからな。どうしても今の状況では、“北の移民”のことなど後回しになってしまう。それならばスリベグランディア王国の王太子殿下に掛け合ってみようと、つまりはそういうことです」
「だから殿下に会いたいと」
大雑把に纏めたオルガに、バトラーは目を細める。頷きこそしないが、オルガの言葉が正しいと視線で語っていた。
しかし、今の説明だけでは到底納得できるものではない。それはオルガだけでなく、ビヴァリーも抱いた疑問だったらしい。ビヴァリーは変わらず厳しい顔つきで、バトラーに詰問した。
「あなた方は、我が国の現状をご存知だからこそ、直接王都ではなく我がカルヴァート辺境伯領にいらしたのでしょう。それならば尚更、急いで王都に向かう理由は何なのです? 最悪の場合、命を落とすと考えればそのような判断はなさらぬはずです」
ビヴァリーの言葉で、バトラーが大公派と王太子派の諍いについて知っているのだとオルガは理解した。それだけでなく、大公派が王宮を牛耳って実権を握っていることも、王太子派が追いやられていることも把握しているのだろう。
そして、ビヴァリーの指摘は尤もだった。他国の人間であるバトラーと外交官がわざわざ戦火に巻き込まれかねない場所に行く、という事自体がおかしい。
しかし、バトラーはオルガとビヴァリーの疑念に首を振った。
「寧ろ向かった方が良いのですよ。長い間、我が国では後継者争いが続いているのですが、近年熾烈化していましてね。最有力だった第一皇子殿下が急逝されてから、更に苛烈なものとなり、それならばここで一旗揚げて見せようと考える者がスリベグランディア王国を狙っているのです」
これは言っていませんでしたかね、とバトラーはビヴァリーを見る。
ビヴァリーはカルヴァート辺境伯として皇国の後継者争いは把握していても、その内の一人が挙兵間近であるとは思っていなかったらしい。隣国の動きがきな臭いといっても、長らく動いていたのは領主だったからそこまで危機感は高くなかった。しかし、後継者が戦を仕掛けて来れば、それは国と国の戦いになる。辺境伯領だけで終わらせられる話ではなくなってしまうのだ。
「具体的な時期はまだ掴めていませんが、まあ直でしょう。そして当然、王国との戦となればヘルツベルク大公閣下も加わります」
無類の戦好きが、隣国との戦争に乗り出さないわけがない。そしてその時、彼の配下である“北の移民”たちは傭兵として駆り出される。しかし、問題はそこではなかった。バトラーは淡々と言う。
「王国側で第一線に立つケニス辺境伯騎士団にも、カルヴァート騎士団にも、彼らの仲間は居るわけです」
そこまで聞いたビヴァリーとオルガは、何かに気が付いたように表情を改めた。
「つまり、同士討ちは避けたいということ?」
「如何にも。外交官殿の狙いはそこです。しかしいずれかの辺境伯領に居れば、もう一方の辺境伯領には外交官殿も手が回りませんからね。それならば司令塔となり得る場所に居た方が、動きは取りやすい」
そして当然、王国側から戦に関われば、ヘルツベルク大公は北の国の外交官が王国に居ることに気が付く。そこまでして正体を隠す気はないのだと、バトラーは言った。
「そして我が国がいつ何時、貴国に戦を仕掛けるか分からない。大公派の中心となっている貴族は把握していますが、誰一人として“北の移民”に目を向けるような者はいない。それならば早々に王太子殿下にお戻りいただくべきというのが、外交官殿の言い分です」
ビヴァリーとオルガは納得した。バトラーの話が本当ならば、確かに北の国から来た外交官としてはオルガたちを早々に王都に連れて行くことが利になるのだろう。しかし、それにバトラーが協力するとなると話はまた別だ。バトラーにとって、外交官やオルガに協力することが何の利点になるのか。
そんなオルガたちの考えを悟ったのか、バトラーは「そして」と言葉を続けた。
「王太子殿下に王国を治めて頂く方が、この国にとっても我が国にとっても宜しいことだろうというのが、ローランド皇子殿下の意向でして」
私はそれに従うだけですと言ったバトラーに、最早オルガもビヴァリーも、反論は思い浮かばなかった。
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