9. 絡む糸 6
生まれた時から続けて来た王太子教育の成果か、ライリーは国王の私室を出た後も、普段と変わらない態度で部屋へ戻った。執務室には大量に書類が積まれているはずだ。宰相をはじめ数人の臣下に、執務に関わらせて貰えるよう頼み込んだ。年齢のせいかあまり良い顔はされなかったし、任された仕事も取るに足らないことばかりだ。歯痒い気もするが、まずは彼らの信用を得ることが大事だと本心は飲み込んだ。仕事の成果で彼らから信用を得なければならない。それは分かっている。父の話を聞けば一層臣下たちに頼ってばかりではいけないと、自分の目で直接見て考えなければならないと、理解した。
――だが、今はどうしても書類を見る気にはなれなかった。
「――っふざけやがって……!」
滅多に口にしない暴言を吐き捨て、口を引き結ぶ。ベッド脇のサイドテーブルの上には、軍服の祖父の絵姿が飾られている。小さいころから、祖父はライリーの憧れだった。絵姿を乱暴に卓上から払うと呆気なく床に落ちたが、絨毯を敷き詰めているせいかぽすんと音を立てるだけだった。虚しさに、涙が滲む。
三歳の時から、祖父のようになりたいと剣を振るうようになった。それから五年、ライリーの右手には固いタコができている。父の言葉はそれすら否定するようで、ライリーは拳を握りしめた。
祖父からは、色々なものを貰った。一番は、知識と知恵だった。話し方も祖父に倣って“僕”から“私”へと変えた。祖父の描く理想はライリーにとって、太陽のように眩く心惹かれるものだった――それなのに。
――あの人は、俺に何一つ、肝心なことは残してくれなかった。
裏切られた、と思った。
しっかりと自分の足で立ち前に突き進むための目標が、足場が、根底から崩された。
「今まで……信じてっ、」
信じていたものは、何だったのかと。
縁にしていたものは全く意味のないものだったのかと、ライリーの目頭は熱くなる。
父のような腑抜けにはなるなと言いながら、お前は私の誇りだと言いながら、しかしライリーを信頼はしていなかった。どれだけ優しく様々なことを教えてくれても、祖父にとってライリーは大切な孫でも後継者でも、ましてや特別な存在でもなかった。ライリーにとって祖父は特別だったし、病床の枕元に呼ばれてたくさんの話を直接伝えられている自分は祖父の唯一なのだと誇らしく思っていた。だが、そもそも祖父には特別な存在など居なかったのだ。
――特別な存在を作ってしまえば、国と大切な存在を天秤に掛けた時に迷いが生じる。
祖父はそう教えてくれた。国王は弱さを見せてはならず、常に強者であり続けなければならないと――語るかつての英雄は自信に満ち力強かった。
だが、それは裏を返せば、人を決して信頼しないということだった。信用はしても信頼はしない――つまり、剣士としての腕を信じて近衛を任せても、その者がいつか己の首を掻き切る可能性を常に念頭に置き、そして疑わしきときは自害を命じよと祖父が言っていたのだと、父の言葉を聞いたライリーは初めて理解した。
壁に飾られた剣――祖父から下賜された、彼が愛用していた剣でさえ今は憎く思える。乱暴に取り上げ鞘から抜くと、衝動の赴くままに折ろうとして――手が震えた。
祖父は、ライリーの憧れだった。神にも等しい存在だった。その人から貰った剣を、折るなどできるはずもなかった。
「くそっ……!!」
苛立つまま壁を殴る。拳が痛くて、目に涙が滲んだ。
理性では、父の言葉の方が筋が通っていると理解できる。だが、感情がそれを許さない。信じて疑っていなかった存在を疑うことは、ライリーにとって死の宣告にも等しかった。体が震え、呼吸が浅くなる。
扉を叩く音がする。辛うじて返事の声を絞り出すと、オースティンが来たと告げられた。ライリーは一瞬息を飲む。
今、幼馴染に会いたくはなかった。全てを打ち明けて来た彼を前に、平静を装える自信がない。だが、これまで一度も断ったことはなかった。今更断れば、オースティンは怪しむだろう。
「――――通せ、執務室で会う」
長すぎる沈黙の後に、ライリーは答える。執務室に向かうと、少しして騎士団の制服を纏ったオースティンが扉から入って来た。ライリーは手を振って護衛と侍従を下がらせる。護衛は不服そうな表情を浮かべたが、表立ってライリーに反論することはしない。慇懃に一礼をし部屋を出ると扉を閉めた。
ライリーは笑みを浮かべる。だが、オースティンの顔を真っ直ぐ見ることはできなかった。目を見れば、全てを見透かされる気がした。
「――久しぶりだな、オースティン。無事に騎士団に入団できたようで何よりだ」
「まだ見習いだけどな」
あっさりと肩を竦めながらもオースティンは満足そうだ。だが、すぐに違和感を覚えたかのように目を細める。ライリーは執務机の前にあるソファーに腰かけた。オースティンにも座るよう促す。オースティンは静かに対面に腰かけた。
「お前のことだから、すぐに正式な騎士になれるさ」
「――叙任式はお前にやって貰いたいところだな」
オースティンが声を低める。叙任式は国王が執り行う。ライリーは言葉に詰まり、笑おうとして――失敗した。これまでならば、祖父のように立派な王になると自信を持って答えられただろう。だが、今は口が裂けても言えなかった。なりたいと思った理想の王が張りぼてだったと突き付けられた今、自分が何をすれば良いのかすら自信を持って決められない。
理性は父の言葉が正しいと叫び、臣下たちを掌握する方策を思考する。だが、長年慕い追い続けて来た祖父を裏切れないと感情が叫ぶ。
顔を俯け、そっと呼吸を整える。顔を上げると、普段から冗談めかした言動の多いオースティンは真剣な表情を浮かべていた。ライリーは目を細め苦笑を浮かべる。
「それはアルカシアの総意か?」
「俺自身の意志だ。アルカシアは――未だ総意を持たない」
アルカシア派と呼ばれる一大派閥の動向は王家としても無視できない。そのアルカシア派が総意を持たないということは、内部で意見が分かれているという意味だ。以前からオースティンとその父、そして次期公爵であるオースティンの兄はアルカシア派の動向を探っていた。三人ともライリーの立太子を後押しし、次期国王として認めている――はずだ。
ライリーは内心で自嘲を漏らす。自分が平静さを欠いている自覚があった。無意味に手を握りしめたり開いたりする。掌に汗がにじんでいる。
オースティンのことは当然ながら、彼の父兄のことも信頼したいと思っている。それなのに、オースティンの目の中に裏切りの色がないか探ってしまう。それこそが親友に対する裏切りであるようにすら感じ、喉が焼けつくような気がして喘いだ。
だが、ライリーがオースティンを疑っていると勘付かせるわけにはいかない。決して、目の前の友を傷つけたいわけではない。ライリーは努めて冷静に尋ねた。
「“プレイステッド卿”の意向は?」
「沈黙を貫いている」
「時機を見計らっているということか」
「――正直に言えば、最近接触できていない。父も兄も、だ」
オースティンの口調が苦くなる。アルカシア派の中心人物である“プレイステッド卿”に接触できない以上、今後の方策も立てにくい。ライリーは眉根を寄せた。
「嫌な感じだな」
「ああ」
国王の病態が思わしくない上に、地方では魔物襲撃の規模と頻度が徐々に増加している。隣国との国境でも、密入国者を捕えたという報告が上がりつつある。そんな状況と反比例するように、王家の求心力も徐々に下がりつつあることを、ライリーもオースティンも肌で感じていた。
「国難で頼りになるのがエアルドレッド公爵家とクラーク公爵家だが――アルカシア派がその状態では、クラーク公爵家に頼ることになりかねないな」
だが、それでは今度は他の貴族たちに不満が出る。ただでさえ力のあるクラーク公爵家に権力が集まりすぎているという批判は、既に囁かれ始めていた。確かにクラーク公爵は優秀な男だが、基本的には一匹狼だ。高位貴族とは友好的な関係を築いてはいるものの、下位貴族とはほとんど付き合いがない。そのような立ち振る舞いを良く思わない高位貴族も居る。特に人徳者と名高い一部の者たちは、はっきりとクラーク公爵に苦言を呈していた。非常に割り切った人付き合いが、現状ではクラーク公爵にとってマイナスに働いていた。
「――“盾”はまだ動かないんだろう?」
「打診はしたが断られた、らしい」
三大公爵家の“盾”――ローカッド公爵家だ。だが、公爵本人とその家族を知る者はいない。
ライリーはここ最近ようやく各顧問会議への参加を許されるようになった。だが、許されているのは聴講だけで、議論に参加することはできない。次期国王としては意見も述べさせて貰いたいところだが、会議の場に入れるようになったということだけでも今は満足しなければならなかった。オースティンは溜息を吐いた。
「この状況だと、リリアナ嬢との婚約は白紙撤回になるかもしれないな」
「だが、父は婚約を続けるべきだとの意向だ」
「クラーク公爵は?」
「――恐らく、婚約は撤回させたいとお考えになっていると思う」
オースティンの質問に、ライリーは少し考えて答える。
フォティア領の屋敷でリリアナの声について言及した時、公爵は「呪術ではない」と言った。その時は額面通りにリリアナの病は治らないのだと受け取ったが、本当にそうなのだろうか。
クラーク公爵が貴族間の対立を深めないためリリアナを王太子の婚約者候補から外させようと考えているのであれば、敢えて嘘をついた可能性もある。
「そのことについて、リリアナ嬢から何か聞いてないのか?」
「いや、何も聞いていない。次会った時に訊いてみるが――知らないだろう」
ライリーは腕を組んだ。リリアナが何か知っている可能性は低いだろうが、何かしら聞き出せたら御の字だ。だが今の精神状態では、どの婚約者候補を見ても疑心暗鬼に駆られてしまいそうだ。ライリーは唇を噛む。黙り込んだライリーを無言で見ていたオースティンは、しばらくじっとしていたが、やおら口を開いた。
「それで、お前は何をそんなに落ち込んでるんだ」
「――――落ち込んでいるようにみえるか?」
「ああ、見える」
どんよりだ、折角の晴天なのに――とオースティンは窓の外を指し示す。ライリーは苦笑を漏らした。案の定、幼馴染の目は誤魔化せない。相変わらず目ざとい奴だと内心で嘆息する。かといって、国王から聞いた話を、素直にそのまま話すわけにはいかない。その上、お前を疑ってしまうんだとは――口が裂けても言えない。
「――大したことじゃない」
「大した事だから、お前はそんなに落ち込んでるんだろ?」
ライリーは首を振るが、オースティンは怪訝な顔を隠さない。嘘をつけ、と言いたげだ。だが、ライリーが硬い表情で口を噤むと諦めたように肩を竦めた。無理に聞き出そうとしない友の態度に、頑なになっていた心が僅かに緩む。それでもライリーは心の内を打ち明けようとは思わなかった。
オースティンが、王族ではなくライリーの近衛を目指しているのだと打ち明けてくれた時に、オースティンだけは裏切るまいと誓った。だからこそ、制御できない一時の感情をオースティンにはぶつけたくなかった。
オースティンは静かに幼馴染の様子を見つめていた。次期国王という重責を負う幼馴染が苦しんでいることに気が付いていても、手を差し伸べられない。その事に唇を噛むが、ライリーは気が付かない。オースティンは悩んだ後、ようやく一つの言葉を口にした。
「お前が何を悩んでいるのかは知らないが――信頼できる奴を見つけて、少しは荷物を分けろ」
「――え、」
意外なことを聞いたというようにライリーが目を瞬かせる。しかしオースティンは顔色一つ変えずに言葉を続けた。
「今、王宮に居るのは先代が引き立てた優秀な人間ばかりだ。だからこそ、やることなすこと凄く見えるし、その分自分がちっぽけに見える」
俺だって実際にそうだ、とオースティンは自嘲に似た笑みを零した。同年代の中では剣技に秀でた彼も、騎士団に入れば自分がまだ未熟だと実感する日々である。
「だけどな、奴らと俺たちじゃあ年季が違うだろ。俺たちがあっさり出来ちまったら、あいつらの立つ瀬がない。俺たちはこれから成長していけば良いんだ。だけど、お前は一人じゃない。お前がどう思ってるかは知らないが、俺だっている。クラーク公爵家の嫡男だって最近はお前と色々面白い話をしてるじゃないか。そういう奴らの中から信頼できる人間を見つけて、お前が背負ってる荷物を少し分ければ良いんだよ。少なくとも、相談することで気が楽になることもあるだろ」
幼馴染が語る予想外の言葉に、ライリーは目を瞬かせる。ずっと共に居た友が、そのようなことを言うとは予想外だった。驚いたように凝視するライリーを見返し、オースティンは少し恥ずかしそうに肩を竦めた。
「――俺の言葉じゃないぞ。騎士団の隊長に、俺も言われたんだ」
ライリーは納得した。確かに、オースティンの提案は魅力的だった。だが同時に、不安も募る。
誰もが英雄と崇拝する祖父の裏の顔を告げられたら――そして、ライリーの悩みを打ち明けられたら、心は軽くなるのだろうか。だが、それは同時に相手に重荷を背負わせることになるのではないか。
王太子であるライリーの不安や苦悩は一般的なものではないし、簡単に打ち明けられないものも多い。迂闊に伝えてしまえば、相手の首を斬らなければならないこともあるだろう。
――国王は、孤独だ。
「ああ――そうだな」
だから、ライリーが口にできた言葉はそれだけだった。そんなライリーに何を思ったか、オースティンはわずかに口調を変えて身を乗り出す。声を潜め、「一つ、提案なんだが――」と口を開いた。
「次世代と言われている――たとえば俺たちの世代で、信頼できる奴らを集めないか」
「それは派閥ということか?」
「そこまで厳格じゃなくて良いんだ。たとえば、社交界デビュー前の子供主体の夜会のようなものだ」
首を傾げたライリーに、オースティンは首を振る。
“夜会”と言っても、本当に夜に開くわけではない。まだ明るい時間帯に開くことになるだろう。
オースティンが考えたのは、気軽に意見交換ができる場を設けることだった。今でも高位貴族の令息たちで“学友”と呼ばれる少人数の友人関係は作っているが、それでは足りない。できれば令嬢も含め、下位貴族でも能力のある者を取り込みたい――そういう幼馴染に、ライリーは思わず頬を綻ばせた。
「本当に、お前は突拍子もないことを考えつく」
「お前だっていつもならこれくらい簡単に考えるだろうが。今日のお前は、頭の回転が鈍ってるぞ」
「そうかもしれないな」
ライリーは素直にオースティンの言葉を認めた。精神的に不安定だと頭の働きが鈍るらしいと、ようやく自覚する。オースティンが来る前よりも多少、気が楽になっていた。
「それなら、どこかで下位貴族の子息にも会えるよう段取りをつけたいな」
「紹介して貰うという手もあるぞ」
ライリーの呟きに、オースティンは笑う。騎士団に居れば下位貴族にも繋ぎは付けられると請け負うオースティンに、ライリーは「期待している」と告げた。
「おう。任せとけ」
オースティンは力強く頷き、時計を見た。もうそろそろ時間だと部屋を出る。見送ったライリーは、しかし扉が閉じられた瞬間に深い溜息を吐く。
静かになった室内の空気が、一気にずっしりと重くなったように思えた。オースティンと話して今後の解決策を見出した気にすらなったのに、友が居なくなった途端に全てが心許なくなる。
「――私は、」
これから、どうすべきなのか。
オースティンの提案通りに信頼できると思える人を集めて意見交換をし議論を交わしながらも、彼らを疑うのか。果たして、祖父のように立派な国王になれるのか。だが、父の言葉を信じるのならば祖父は賢王ではなかった。
それならば私は、一体何を縁とし進むべきなのか。どのような国王を理想とし、歩むべきなのか。
口から洩れた溜息は酷く苦くて、胃が重たい。
ライリーはその日、夕刻になっても私室から出ることはなかった。夕食を持って来るかと尋ねた侍従すらも下がらせ、ずっと部屋に籠っていた。
それでも特に何かを見出せるわけはなく、ライリーはまんじりともしないまま過ごす夜に疲れを重ねていった。
3-5