70. ローカッド公爵邸 2
流石に、公爵邸の居間の扉を開けた瞬間、目の前に竜が出て来るとは思わない。そもそも竜など伝説上の存在なのだから、実物をこの目で見ることなど想像したこともなかった。
「ライリー!」
オースティンが警告の声を発する。咄嗟にライリーが結界を張ると、竜が放った火炎がライリーを直撃した。びりびりと全身が震えるほどの威力に、さすがにライリーも顔を強張らせる。結界が間に合ったから良かったものの、直撃を受けていれば即死したに違いない。
「まさかとは思うが、これがローカッド公爵だとか言わないよな?」
「さすがにローカッド公爵は人間だと思うよ」
竜を見て嫌そうに呟くオースティンに、ライリーは大真面目に答える。
眼前に現れた竜が幻なのか実体があるのかも定かではない。しかし、浴びせかけられる火炎は幻覚には見えなかった。
オースティンは更に眉間を寄せて剣を抜くと、一歩ライリーに近づいた。
「じゃあこれはなんだ? 勇者を題材にした伝説に良くある、試練ってやつか?」
「ローカッド公爵との面会に試練が必要だという話は、寡聞にして聞いたことがないね。そもそも、この竜は倒しても良いものなのかな?」
魔導騎士であるオースティンは、手にした剣に魔力を纏わせる。一方のライリーは剣は腰に提げたまま、詠唱を時折口ずさみながら魔術を繰り出していた。
「倒さないと俺たちが死ぬんじゃないのか?」
二人とも、結界を張って身を護りながら、竜の気を逸らすようにあちらこちらへと魔術で攻撃を仕掛ける。どの攻撃も竜を傷つけないよう、皮膚の分厚そうな場所を狙っているのは、偏にライリーが口にした懸念通り――この竜を倒しても良いのかどうか、という点が今一つ不明だったからだ。
今の二人が竜と対峙しているのは、ローカッド公爵家の執事の案内について行った結果だ。執事はライリーたちがローカッド公爵に会いたいと考えていることを事前に知っていたし、何よりもライリーが想像している通りの人物がローカッド公爵であるならば、今この場でライリーたちを害そうとするはずがないと確信していた。
「それなんだけどね。良く考えたら、一撃目もぎりぎり私が結界を張る頃合いを見計らって火炎を噴いたんじゃないかと思えてならないんだよ」
「んあ?」
竜の鋭い前足の攻撃を間一髪で避けたオースティンは、どこか間の抜けた声でライリーに答える。爪を避けたオースティンを追撃することなく、竜は大きな尻尾を振ってライリーを殴り飛ばそうとして来た。しかし、ライリーは身体強化の術を使って軽々と尻尾を飛び越え攻撃を避ける。
「ほら、今もそうだ」
軽々と少し離れた場所に着地し、ライリーは納得したように頷いた。
「オースティンが体勢を崩したんだから、息の根を止めようと思えば好機だったはずだよ。それなのに君には体勢を立て直す時間を与え、私に攻撃を仕掛けて来た。しかも、尻尾も非常に分かりやすい軌道を描いていたよね」
「まあ……言われてみれば、確かに」
オースティンも納得する。しかし、二人の会話を遮るように竜は火を噴きつけてきた。とはいえ、ライリーが張った結界の前では何ら影響もない。
「できれば早急に竜との面会を終わらせて、ローカッド公爵に目通り願いたいものだけど」
ライリーは結界の内側から竜を見上げて言った。平然とした様子を装ってはいるものの、気は急いている。大公派の手から早急に王宮を奪還したいと言う気持ちもある。だが、それ以上に、大公派に命じられ破魔の剣を盗みに来た魔導士が告白した内容がずっとライリーの心に引っかかっていた。即ち、リリアナがグリード伯爵の手によって投獄されたという情報だ。
リリアナのことだから上手く切り抜けているかもしれないと思いながらも、心配が先に立つ。リリアナの体内に、魔王の封印から流れ出た闇の力が蓄積していることも、そしてそのせいでリリアナが体調を崩しがちであったことも、ライリーにとっては心配でしかなかった。少しでも均衡が崩れてしまえば、リリアナという人格は失われ、彼女は闇に堕ちてしまうに違いない。
そしてオースティンもまた、ライリーのその焦燥を理解していた。当初こそリリアナがライリーを裏切り大公派に寝返ったと信じていたオースティンだが、さすがにそれが思い過ごしだと納得している。そして、リリアナが自分たちの仲間であることに変わりはないと腑に落ちた今、ライリーが真に後悔していることにも気が付いていた。
「そうだな。とっとと王宮に戻って、大公派を吊るし上げたいもんだ」
オースティンは敢えてライリーが抱えているだろう後悔には触れず、短く同意する。そして、それは間違いなくオースティンの希望でもあった。
彼らが王宮を出てから、もう随分と時間が経っている。
勿論、隣国ヴェルクまで往復したことを考えると、往路で魔術を用いたことを差し引いてもかなりの強行軍だった。だから、本来であればそれほど時間が経ったとも思わない日程だ。しかし、ライリーたちが王都に居ない間、大公派が好き勝手していたと思えば、わずかな時間さえ惜しい。
ライリーは一瞬、目を眇めた。竜と戦いながらも、魔導剣士でないライリーは魔術に専念し、未だ剣を抜いていない。しかし何を思ったのか、ライリーは左手で剣に触れた。途端に剣が青白く光る。次に目を開いた時、ライリーは確信に満ちた口調で告げた。
「ということで、“真実の扉に通じる竜”よ。“試練の間”を通り抜けたいのだが、力を貸してくれないだろうか?」
ライリーが二つの単語を口にすると、それまで攻撃一辺倒だった竜がぴたりと止まった。目を丸くするオースティンの前で、竜はしゅるしゅると小さくなってしまう。そのまま竜は消失し、その先にこぢんまりとした、地味な灰色の扉が現れた。
「――おい、ライリー。どういうことだ?」
警戒したまま、オースティンがライリーの側に寄って囁くように尋ねる。ライリーもまた声を潜めると、肩を竦めた。
「破魔の剣が、真実を見せてくれたんだよ。今私たちが居る場所が“試練の間”、そして今の竜の正体を見破ればそこに扉が現れるということのようだね」
「竜の正体?」
「そう」
首を傾げるオースティンに、ライリーは頷いた。言っても俄かには信じ難いだろうと思いながらも、淡々と剣に見せられた“真実”を口にする。
「竜こそが扉だったんだ。恐らく、今の竜が灰色の扉だと思うよ」
「――嘘だろ? 扉が竜になったり火を噴いたりするのか?」
こぢんまりとした扉に向かって歩みを進めながら、オースティンは愕然とした。確かにライリーも剣にその光景を見せられた時は半信半疑だったが、実際に竜は消えて扉が現れたのだから、本当のことだったのだろうと、無理矢理自分を納得させた。
そして衝撃を乗り超えれば、今度はローカッド公爵邸の扉が竜になった、という摩訶不思議な体験こそ、ローカッド公爵家の性質を示しているとしか思えない。執事の態度と良い、突然放り込まれた“試練の間”と良い、どう考えてもローカッド公爵家の正体を如実に示していた。
「開けるぞ」
「ああ」
オースティンがライリーに声をかけて、灰色の扉に手を掛ける。ゆっくりと取っ手を引くと、扉に鍵は掛かっていなかったらしく、ゆっくりと扉は動いた。
二人は警戒しながら、扉を潜る。
真っ白な空間から一転、扉の向こうは豪華だが簡素な調度品が置かれた部屋が広がっていた。随分と広いが、上手い具合に家具が配置されているため、寒々しさも手狭さも感じられない。
扉を閉めて部屋を見回したライリーとオースティンは、部屋の隅に立つ一人の男を見つけた。暗がりだからというだけではなく、気配が酷く薄い。
男はライリーとオースティンと目が合った瞬間、薄く笑った。その途端に、男の気配が濃くなる。どうやら魔術を使って気配を極限まで薄くしていたらしい。これも試練の一つだろうかと皮肉を心中で呟いたものの、そんな感情はおくびにも出さず、ライリーは一歩男性に近づいた。
「お初お目に掛かる。ローカッド公爵だろうか?」
「いかにも。お初お目にかかりまする。殿下には我が家にご足労頂いた上、試すようなことをして誠に申し訳なく存じますが、これが王国の盾としての役割であるとご理解頂きたく」
ローカッド公爵であると名乗った男は、年齢不詳だった。黒い正装に身を包んでいて、簡素だが一目で質が良いものだと分かる。左手には杖を突いていたが、体が悪いようには見えない。そして何より、一見線が細く見えるが、全く隙がない。穏やかな話し方をしながらも、その声には鋭いものが混じっていて、見かけ通りの人物ではないことは明らかだった。
「無論だ。公爵には、私の父も祖父も会ったことがないと聞いている。国王と言えども容易く会えないということは理解しているつもりだ」
王太子然として話すライリーに、ローカッド公爵は微笑んだ。
「左様。我が公爵家の者が陛下に拝謁申し上げる時は、国難が迫っている時でございます故」
「それだけではないだろう」
白々しく告げるローカッド公爵に、ライリーは悪戯っぽい視線を向けてみせた。公爵は片眉を上げてライリーを見返すが、口は開かない。
「国難が迫った時であっても、貴殿が真に国王と認める者でなければ会うことはできない。そういう事だと、理解したが」
勿論、ライリーも最初からそう考えていたわけではない。確信を得たのは、つい先ほどまでライリーたちが居た“試練の間”でのことだった。
ライリーの父ホレイシオは竜を見れば立ち向かうことも出来ず這う這うの体で逃げ出しただろうし、祖父である先代国王はその矜持の高さ故に、決して倒れない竜を相手に痺れを切らし、試すようなことをしたローカッド公爵家に対して怒りを募らせその場を立ち去っただろう。
ホレイシオはそもそも玉座に就いてから意識を保てていた期間が短かったからローカッド公爵に会う機会はなかったはずだが、先代国王は違う。先代国王の時世、隣国ユナティアン皇国は今よりも苛烈にスリベグランディア王国を狙い、そして国内では政変が起こった。賢王と呼ばれた先代国王ではあったものの、彼の時代の王国は常に荒れていたのだ。
その時代を生きた先代国王が、盾と呼ばれるローカッド公爵に接触しようとしなかったはずがない。
今は亡き祖父の性格を思い出しながら告げたライリーを、ローカッド公爵は驚いたように見た。そして、やがて耐え切れぬというように低く笑う。楽し気に相貌を崩し笑いながら、ローカッド公爵は「なるほど、なるほど」と頷いた。
「半分正解といったところでございますな。しかし、そのご慧眼には甚く感服致します。愚息が申しておりました通り、殿下には覇者の素質がおありのようだ」
一歩間違えれば不遜となりそうな独白だが、ライリーもオースティンも気に止めなかった。寧ろライリーは僅かに片眉を上げてみせると、礼を言う。
「そうか、それは有難い。貴殿の眼鏡にかなったということかな」
「如何にも」
公爵は頷くと、改めて居住まいを正し、恭しくライリーに向けて最敬礼を取った。
「それでは改めまして、ご挨拶をば申し上げます。ローカッド公爵家当主、バルドゥル・ドラッヘン・フェルヴァルトンと申します」
恭順を示す姿勢ながらも、ローカッド公爵の鋭い視線は変わることがない。彼は僅かに顔を上げると、真っ直ぐにライリーの双眸を射貫いた。
「殿下には我が邸宅までご足労賜り、至極恐悦に存じます。また、これまでご尊顔を拝することなくおりましたこと、改めてお詫び申し上げます。今更にはございますが、謹んで、無事立太子の儀を迎えられたこと、心よりお喜び申し上げるとともに、殿下の治世が明るいものとなるよう心よりお祈り申し上げます」
澱みのない、しかし臣下として相応しい態度だ。釣られるようにしてオースティンも居住まいを正し、ライリーは変わらぬ態度で挨拶を受けた。
そして、ローカッド公爵は何でもないことのように告げる。
「殿下方のことは、愚息ポールより、良く話に伺っておりました。直接こうしてお目見え叶いましたこと、心より嬉しく存じます」
ライリーとオースティンは、一瞬固まる。ローカッド公爵家当主バルドゥルが口にした名前は、二人の予想を全く裏切るものだった。