66. 仕掛けられた罠 2
フランクリン・スリベグラード大公は、口角を僅かに上げた。そして更に言葉を続ける。
「その噂は真実だが、一部事実と異なるところがある。魔王は封印されたがその存在は消え、今の地下迷宮には封印のために使われた莫大な魔力だけが残されているのだ」
違う、とリリアナは咄嗟に思った。
地下迷宮には確かに、魔王が封じられていた。そしてここ最近でその封印は緩み、魔王の力が流出している。今もなおリリアナの体内に増えつつある闇の力は、地下迷宮から流れ出たものだった。
「そんなものがあるのですか」
「機密事項だからな、他に漏らすではないぞ」
メラーズ伯爵が驚いたように相槌を打つと、大公は声を潜めてさも重大事のように告げた。
そもそも王宮の地下迷宮の存在を知らなかったメラーズ伯爵とグリード伯爵は、大公の話を信じるしかない。それを良いことに、大公は全く事実と異なることを話し続ける。
「魔王の存在はないとはいえ、地下迷宮中に漂っている魔力は非常に濃い。そのため普通の人間が行けば精神を病むに違いない。だから魔導石だけを、地下迷宮の入り口に置き放置する。そこまでであれば、魔導省の魔導士も行けるだろう」
地下迷宮に充満している魔力を、魔導石に吸わせる作戦だ。確かに、地下迷宮の中にある魔力が封印のために使われた魔力であれば、魔導石も普通の用途に使えるに違いない。だが、実際に充満している魔力は魔王が持っていたとされる闇の力であり、闇の力を秘めた魔導石は間違いなく危険物だ。そのようなものを王都にばら撒けば、一夜にして魔物が王都を占拠することになる。仮に魔物が出て来なかったとしても、人体に有害な作用しか及ぼさない魔導石のせいで王都の住民たちは命を落とすか精神を病むだろう。
大公の提案は間違いなく、王都を滅ぼす結果にしか繋がらない。だが、リリアナには今大公を止めるだけの力はなかった。
たとえ事実を詳らかにして大公の提案を否定しても、ここに居る三人はそもそも女や子供を軽んじている。リリアナがこれまで振る舞って来た“あまり考える力のない令嬢”という仮面も、またリリアナの発言の信憑性を失わせる要因だった。
それに、仮に魔王復活の可能性を示唆したとしても、メラーズ伯爵たちが正しい対応を取る可能性は低い。最悪の場合、大公派は魔王復活の責任をライリーに負わせる可能性もあった。
どうにかソーン・グリードと連絡を取り合い、魔導石を地下迷宮の入り口に放置させないように言い含める他ないかと、リリアナは内心で今後の対応を立て始める。
そんなリリアナには気が付かない様子で、大公は話を続けていた。
「要はライリーを、反抗できない状態にすれば良いのだ。ある程度魔力のある者は、それより更に濃い魔力に包まれると酔っぱらったような状態になることがあると言う。その状態であれば、大して戦力を割かずともあれを王宮にまで連れて来られるだろうよ」
なるほどと、メラーズ伯爵とグリード伯爵は納得したように頷く。二人の反応が良好であることを確認し、大公は背中を椅子の背もたれに預けて深く息を吸った。
「ただ、何事もなくあれを王宮に連れて来るために、障害は極力取り除いておかねばならん。王都に入る前か入った後か、恐らく連中は一旦宿を取ることだろう。それを確実なものとするためにも、王宮には厳戒態勢を敷いて鼠一匹入れることがないようにしておくべきだが――それに加えて、ライリーが持っている剣をその宿屋で奪っておかねばな」
「剣を、ですか」
「奴が持っている剣は、嘗ての勇者が持っていたという曰く付きの剣だぞ」
訝し気に尋ねたメラーズ伯爵に、大公は冷たく言い放つ。馬鹿にしているような声音ではあったが、メラーズ伯爵は気にする様子がなかった。左様でございますか、と一つ頷き、メラーズ伯爵は視線をグリード伯爵に向けた。
「閣下の御提案は至極、有益なものに思えますが――グリード伯爵は如何お考えになりますか?」
「私も閣下に賛同致します。王都に入る前でしたらどれほど激しく戦って頂いても構いませんでしたが、さすがに王都を荒らすようなことは控えるべきでしょう。それに一度、王立騎士団は失敗している――それならば、魔導士を利用しても宜しいのではありませんかね」
グリード伯爵は、大公の提案を一切拒否するつもりがない様子だった。大公に阿り覚えを目出度くしたいという意図もあるのだろうが、それ以上に魔導省の評価を上げることで自分の有利な立場を確たるものにしたいという考えがあるに違いない。
メラーズ伯爵もまた、異論はない様子だった。
「でしたら、グリード伯爵。後の采配は貴殿に任せても宜しいでしょうか」
「無論」
後は全て任せるとメラーズ伯爵に言われたグリード伯爵は、力強く頷く。スコーン侯爵が居る時は基本的に冷めた表情で口を閉じていたグリード伯爵も、スコーン侯爵が戦線離脱した今、意気揚々とその存在感を示そうとしているかのようだった。
自信に満ちたグリード伯爵の反応に一つ頷いたメラーズ伯爵は、首を巡らせて大公を見やる。
「宿で殿下より剣を奪った後、その剣は閣下にお渡しするということで宜しいでしょうか。件の剣が建国の三傑が持っていたものだとすれば、真に持つべきは閣下でありましょう」
「――そうだな」
そうしてくれと、大公は言う。その双眸に愉悦が過った。満足気な笑みを隠し切れなかった大公だが、すぐに表情を引っ込めると感情の読めない笑みを顔に貼り付ける。
「剣に関しては魔導石を待たずとも良い。手に入るのであれば早急に、私に献上せよ」
「御意に」
メラーズ伯爵とグリード伯爵は深く頷いた。メラーズ伯爵もグリード伯爵も、大公の発言に疑念を抱いてはいない。だが、リリアナだけは別だった。
あたかもメラーズ伯爵の方から破魔の剣を大公に渡すと言ったような体裁だが、実際は大公がメラーズ伯爵にそう言わせている。大公の機嫌を損ねないよう振る舞って来たメラーズ伯爵たちが、この期に及んで破魔の剣を大公に渡さないという判断を下すとは思えなかった。
そして、王宮の地下迷宮に充満している魔力を吸わせた魔導石を、王都中にばら撒くように大公は告げた。それらの事実を元に考えれば、どれほど深く物事を考えない人間でも大公の思惑に勘付くに違いない。
(閣下は、魔族を王都に呼び寄せて自ら災厄を防ぎ、英雄と呼ばれるおつもりですわ)
リリアナは内心で慄いた。愕然としてしまいそうになるのを、辛うじて誤魔化しながら平然と、何も勘付いていないように振る舞う。
そして同時に、その可能性はこれまでリリアナが抱いていた疑惑を裏付けているとしか思えなかった。
(その野望とも言える欲求は、お父様と同じもの)
それほど多くはない、しかし常に書き溜められていた父親の手記を、リリアナは覚えている。リリアナの父エイブラムも、復活させた魔王を自らの手で倒すことで、英雄となる夢を持っていた。その一番の被害者がリリアナだが、今はフランクリン・スリベグラード大公が父エイブラムと全く同じことを企んでいる様子なのが気に掛かった。
そして、それはあまりにも大公らしくない野望だ。
(大公閣下といえば、女に現を抜かし一時の快楽を追い求める方だったはず。自ら動くなど、考えられませんわ)
他人に傅かれ、自分の欲望を満たすため金を湯水のように使う。だが、大公の嗜好は元々享楽的で、自らの権力や地位のために英雄と呼ばれることを望むような性質ではなかったはずだ。
そして大公は、簡単に他者の甘言に乗るような人物でもない。どこまでも自堕落に、そして他者から命令されたり行動を制限されることを嫌う。自分の欲求を満たすことは大事だが、それ以上に面倒事を嫌っていた。
それなのに、魔物を作り出し自ら戦いに赴くなど、全くもって大公らしくない。
寧ろ、自分の影武者に魔物討伐を任せ、後からあたかも自分がやり遂げたことだと主張する方が、余程大公らしかった。
そうなると、考えられる可能性はそれほど多くない。
一つは、大公の性格が変わる程度の精神操作が行われ、何者かが大公の言動に干渉している可能性。
そしてもう一つは、リリアナですらあり得ないと断言したくなるほど荒唐無稽なもの――大公の魂が何者かの魂と入れ替わっている可能性だった。
だが、後者も全くあり得ないとは言い切れない。リリアナも、自分が生まれ落ちた時に父エイブラムが為したことを知らなければ、全くあり得ない可能性として切り捨てていただろう。だが、普通は不可能とされている術式を半ば成功させた父エイブラムと、エイブラムに協力した術者の存在が、後者もあり得ない話ではないとリリアナに囁いていた。
(どうすれば、確認できますかしら――いえ、でも閣下に何かしらの術式が掛けられたのか確認するよりも、魔導石と破魔の剣をどうにかする方が先ですわ)
リリアナは内心で自らを奮い立たせる。
体内に蠢く闇の力が一定量を超え始め、リリアナの髪色と瞳の色が変わり始めた頃から、更にリリアナの体調は悪化している。一番の弊害は睡眠障害と常に付きまとう倦怠感で、そのせいか頭の動きも鈍くなっている気がしてならなかった。
だが、今は自分の不調にかまけている暇はない。今目の前で進められようとしている企みを防がなければ、王都に悪夢のような禍が降りかかる。そしてその計画を知り、早急に対策を取れるのはリリアナしかいない。
多少鈍っているとはいえ、リリアナの頭脳は次々と対策を考えだしては評価し、最適解を導き出していく。ただ、鈍っているからこそリリアナは複数の物事に十分な注意を払えなくなっていた。
これまでであれば簡単に気が付いたような些末な事も、見落としてしまう。
だからこそ、会談を終えて解散する時、グリード伯爵が意味深な視線をリリアナに向けたときも、リリアナはその視線に気が付くことはなかった。