64. チャトルーズ川の決戦 7
スコーン侯爵軍を指揮していた男は、銅鑼役の兵士を探そうとして、まずは銅鑼役よりも目立つ侯爵を探すことにした。圧勝するだろうと自信があったにも関わらず、予想だにしていない方向から来た馬と援軍のお陰で自軍は壊滅状態に陥った。撤退の声を聴いた銅鑼役がきちんと銅鑼を鳴らしていれば、ここまで壊滅的な状態にはならなかったのにと思うと歯痒い。
侯爵軍では、正式な騎士はそれほど人数が居ない。少数精鋭と言えば聞こえは良いが、それほど給金も良くない侯爵軍に勤めようという騎士はそれほど居ないというのが現状だった。そのため、頭数を合わせるために平民も取り立てている。しかし、その平民も身を粉にしてスコーン侯爵や領のために戦おうなどという気概は持ち合わせていない。彼らの殆どは農民で、普段鋤や鍬を持っている手に槍を持ち、適当に造られた質の悪い防具を着ているだけなのだ。
だからこそ、今回の遁走は痛手だった。無理に取り立てた平民たちは、一度逃走すれば戻って来ることは殆どない。罰が待ち受けていることを重々承知しているから、家族も連れて行方を晦ますに違いない。その上、限られた人数では逃亡した者全員を追うことは難しかった。
「閣下は何処に居られるのだ」
苦々しく男は吐き捨てる。元々いたはずの場所はもぬけの殻だった。侯爵は勿論のこと、護衛たちの姿もない。何事かあって安全なところに逃げたのだろうかとも思うが、その割には土に刻まれた蹄の跡が不自然に途切れていた。まるで転移陣でも使ったかのような有様だ。
「――まさか、な」
一瞬脳裏に浮かんだ疑惑を、男は直ぐに否定した。転移陣を使えるような人間は、敵方には居なかったはずだ。近衛騎士に一人、魔導騎士が居るという情報はあったものの、魔導騎士は魔導士ではない。転移陣の扱いに長けている魔導騎士はそれほど多くないのだから、可能性としては低いだろう。
だが、転移陣を使ったのでなければ侯爵たちが勝手に移動したということになる。妙な胸騒ぎを覚えながらも、男は馬を駆けさせた。散り散りだった仲間たちが徐々に集まって来るが、その殆どは騎士である者たちだ。寄せ集めの兵たちは当然、姿かたちも見えない。
「閣下は?」
隣に並んだ騎士が尋ねて来るが、答えられるはずもない。男は難しい顔で首を振った。
「今、探している。銅鑼を持たせた奴も姿が見えない。何かあったのかもしれない」
その答えを聞いた隣の騎士が小さく舌打ちを漏らす。面倒だと思っているのが如実に分かる。不敬だと言われても仕方のない態度だが、誰も責めようとはしなかった。
「不測の事態が多すぎた。もう少し、事前に情報を精査すべきだったな」
「ああ。だが、今それを言っても仕方がない。それに、閣下が持ち込んだ情報をどう精査しろと言うんだ」
苦々しい言葉が思わず洩れる。スコーン侯爵に聞かれてしまえば怒りを買うことは間違いない台詞だ。だが、それはまさしく真実を言い当ててもいた。
今回の出陣に際して、敵の情報は全てスコーン侯爵が得ていたものだった。侯爵の息子が王立騎士団八番隊の隊長をしていたことは、誰でも知っている。今でこそ王立騎士団の団長となっているが、本来の適職は密偵等の裏工作だ。当然、騎士でしかない自分たちよりも正確な情報を持っているに違いないと誰もが思っていた。
それにも関わらず、彼らの敵は事前にこちらの動きを読んでいたとしか思えない。その上、援軍を寄越すはずだった領主は何の動きも見せなかった。こちらの情報が敵方に漏れていたと考えた方が無難だろう。
つまり、今回の作戦は明らかに準備不足だった。慢心があったことも否定しきれない。ただ、スコーン侯爵の話に異を唱えられるわけもなかった。いずれにせよ、侯爵が出張った時点で自軍の敗北は濃厚だったとも言える。
「とりあえず閣下を探さなければな」
「ああ」
男の呟きに、隣の騎士も頷いた。しかし、仮に何事か問題が生じて侯爵たちが逃げ出したのだとしたら、その行方を追うことは困難だ。とはいえ、このまま王都に撤退すべきなのか、それとも態勢を立て直して再度敵を追うべきなのか、その判断はスコーン侯爵に仰がなければならない。
即ち、どれほど困難であろうと彼らは侯爵を探す以外の道がなかった。
「蹄の跡でも残っていれば、容易かったがな」
指揮官を務めていた男は低く呟く。やはりどれほど目を皿にしても、スコーン侯爵たちが逃げたと思しき蹄の跡は見当たらない。もしあったとしても、自分たちの馬が踏み荒らした土の道を走っていれば見分けることも困難だ。
だが、幸いにも彼らの捜索はそれほど時間を掛けずに終わった。
「隊長!」
呼ばれた指揮官は、仲間の声に首を巡らせる。すると、街道から外れた森の中を探していたらしい騎士の一人が困惑した表情で木立の間から馬と共に出て来た。
「どうした」
「あの、閣下がいらしたのですが」
「閣下が? どうした、御無事なのか」
頷いた部下を見て、指揮官はほっと安堵の溜息を吐く。
このまま見つからなければ侯爵を探すための野営を考えなければならないところだった。護衛たちが付いているはずだから侯爵の身の安全はある程度守られるだろうが、精鋭をつけたわけではない。万が一魔物が現われでもしたら、彼らは侯爵の遺品を領地まで持ち帰らなければならなくなる。魔物に襲われた遺体は光魔術で清めなければならないとされているが、光魔術の使い手など居ないのだから、この場に打ち捨てて行く以外の道はない。
幸いなことに、騎士の様子を見る限り侯爵は無事でいるらしい。だが、それにしては様子がおかしい。眉根を寄せた指揮官は、部下に更に質問した。
「怪我をなさっておいでなのか?」
「いえ、その――恐らく、お怪我はなさっていないかと」
どうにも歯切れが悪い。要領を得ない反応に、指揮官は苛とした。
「一体どうなっているのだ。早く言え」
馬に乗ったまま、指揮官は戸惑う部下に近づく。侯爵の元に連れて行けと言えば、部下はやはり戸惑った様子のまま、しかしはっきりと頷いた。馬首を返して森の中に入って行く。
「それほど遠い場所ではありません。閣下はお一人でいらっしゃるのですが」
「お一人? 護衛はどうした」
「影も形も見えません」
護衛であるにも関わらず、護るべき主を放り出して姿を消すなどあり得ない。少なくとも、スコーン侯爵軍ではそのような教育を施してはいなかった。精鋭ではないものの、忠心のある者を侯爵の周囲に残しておいたはずである。
嫌な予感に苛まれながら、足場の悪い森の中を進む。奥深くに分け入れば馬になど乗れないほど木々が生い茂るが、どうやら侯爵は馬でも進める程度の場所にいるようだった。
「あそこに」
戸惑ったような表情のまま、奇妙に緊張した表情で部下が手綱を引く。何故侯爵の近くに行かないのかと思いながら、指揮官は一旦手綱を部下に預け地面に降り立った。そして木々の狭間に隠れるようにして座る侯爵に近づいて行く。
常々堂々とした、尊大な態度を取っていた侯爵とは思えないほど、その姿は萎びている。数刻にも満たない間に、一気に老け込んだ様子だった。
「――閣下?」
訝し気に、指揮官は呼びかける。彼の知るスコーン侯爵であれば、到着が遅いと散々文句を言ったに違いない。もしくは部下の不甲斐なさを詰っただろう。あるいは、王太子は捕らえたのかと尋ねるはずだった。
だが、声を掛けられたスコーン侯爵の反応は、彼が予想していたどの反応とも違った。
「ひっ――――!」
真っ青になって震えるスコーン侯爵は、指揮官の顔を認識していない様子だった。短い悲鳴を上げて、後退りながら距離を取ろうとしている。
「閣下、如何なされましたか。どこかお怪我でも――」
不審に思いながらも指揮官が声をかけると、侯爵は今度こそ唾を飛ばして叫んだ。
「く、来るな!」
一歩近づこうとしていた指揮官の足が止める。侯爵はがくがくと全身を震わせながら、「来ないでくれ」と喚いた。その表情には、ただ恐怖だけが映っている。それどころか、今目の前のことも周囲のことも認識していないのではないかと思えるほどの怯えようだ。
不審に思いながらも足を止めて、指揮官は侯爵の様子を窺う。侯爵はただ目の前に人影があるというだけで恐ろしいようだ。歯の根も合わないほどの恐怖に身を震わせたまま、ただ神に祈るように呟き続ける。
「た、た、頼む、殺さないでくれ、命だけは、」
それはまさに、今まさに拷問されている人間と同じ反応だった。死を前にして、ただ怯える。敵であると分かりながらも、他に縋りつく存在が居らず必死に手を伸ばす。
「閣下」
「や、やめてくれぇ――っ!」
再度指揮官が足を踏み出すと、侯爵は情けない悲鳴を上げて頭を抱え動かなくなった。ツンとした刺激臭が指揮官の鼻をつく。そして、侯爵の体がぐらりと揺れて倒れ伏す。
あまりの恐怖に、侯爵は失禁して意識を失ったらしい。
意識を失ったのであれば、問題なくスコーン侯爵を安全な場所に連れ出せる。そう冷静な部分で判断しながらも、指揮官は動けなかった。
理由もなく恐慌状態に陥っている侯爵を見て、否定しきれない嫌悪感と忌避感、そして得体のしれない不気味さを感じ取っていた。
*****
夜半過ぎ、リリアナは王都近郊の屋敷でその光景を眺めていた。
スコーン侯爵の部下たちは、恐慌状態だった侯爵が気絶したのを幸いと、侯爵の体を縛り上げて領地に戻ることにしたようだった。明らかに異常をきたしている侯爵を王都に連れていけば、いつ政敵に蹴落とされるか分からない。此度の出征で怪我を負ったという名目で療養させるつもりのようだ。そう判断した指揮官はなかなか使える男のようだと、リリアナは冷静に判断していた。
とはいえ、時折目を覚ます侯爵は平静を取り戻すこともなく、常に怯えて恐怖に震えている。そんな主の様子を、騎士たちは不気味なものを見る目で眺めていた。だが、さすがに捨て置くこともできないのだろう。
「騎士たちには、気の毒なことをしたかもしれませんわね」
小さく呟くが、リリアナは後悔などしていない。思ったよりも、侯爵には精神的な耐性がなかったというだけの話だった。
スコーン侯爵が見たと思っているものは、全てリリアナが作り上げた幻術だった。目の前で見知った騎士や魔導士が残虐に弑されるのも、そして自分の身が切り刻まれるのも、全て幻だ。現実に起こったことではないが、巧妙なリリアナの幻術は侯爵にとって現実そのものだったのだろう。
大して長い時間ではなかったものの、容易く侯爵の精神は壊れたようだった。
「一度壊れたものは、回復に時間がかかると言いますものねえ――御存命の間に、目が覚めると宜しいのですけれど」
心にもないことを、リリアナは呟いてみる。不思議なことに、リリアナの心はスコーン侯爵の醜態を見ても一切動いていなかった。後悔も恐怖も、何も残っていない。それはまさに、父エイブラムを殺した時と同じだった。感情が麻痺しているように動かないのか、それとも人を害することを躊躇う心が壊れているのか、リリアナには判断が付かない。
ただ、スコーン侯爵に対して容赦ない手段を取ろうと決意した瞬間の、燃え盛るような怒りだけは覚えていた。
「侯爵ご自身も、自らの手は汚さずに他者を害していたのですから、ある意味自業自得ですわ」
息子のブルーノ・スコーンを使って政敵を葬り去ろうとしていたことも、リリアナは既に知っていた。他者を命のある一個人として認めずに、道具を壊すかのような気軽さで害して来たのだから、いつかはその刃が自分に向くかもしれないと覚悟を決めておけば良かったのだ。
そんな覚悟の一つもなく、侯爵はライリーを害する計画も立てていた。己の欲望を満たすためだけに、他者を蹴落とすことだけを考えていた。
「――それは、わたくしも同じね」
綺麗事を言うつもりはない。己の願いをかなえるために他者を蹴落とすことを、リリアナもしている。今回スコーン侯爵に幻術を見せ、精神を壊したのも、似たような所業だ。
だが、リリアナの心には後悔という言葉は微塵も存在していなかった。どれほど考えても、悔い改めるなどという選択肢を選ぶ気にすらなれない。ただ非情なほど冷たい感情が、スコーン侯爵に対して当然の報いだと囁いている。
「でも、覚悟はしているわ」
リリアナは、空中に映し出していたスコーン侯爵たちの様子を消す。
冷たいほどの無機質な美貌が、月光に照らし出されていた。