64. チャトルーズ川の決戦 6
屋敷に戻ったリリアナは、小さく息を吐いた。魔術に疲れたわけではないが、とても疲労感が強かった。
元々はもっと穏やかに、スコーン侯爵軍を攪乱するつもりだったのだ。だが、侯爵がライリーを捕らえた後に何をしようとしているのか聞いた瞬間、全ての理性が消え去った。
不自然なほどの感情の変化に、リリアナは正直なところついて行けなかった。もしかしたら感情を制御できないのは、元々抑圧されていた感情の取り扱いが苦手ということもあるかもしれない。だが、闇の力によって不安定になっている可能性も否定しきれなかった。
「仮に大公派の思惑通りに進んだとしても、元王太子を人体実験に使うなど許されることではございませんわ」
リリアナは不快だと眉根を寄せて呟く。
恐らくスコーン侯爵は、息子のブルーノ・スコーンに何かさせるつもりだったのだろう。裏社会の人間と繋がりの薄いスコーン侯爵が、人体実験をしたいと切望するような人間と繋がっている可能性は低い。彼には右腕とも呼べる執事が居て、その執事が侯爵の手足となって様々な人間と繋がりをつけていることは既に把握していた。
だからこそ、実働を担当している下々の者に、侯爵自ら気を配り、人体実験用の被検体を用意するなど考え付くはずもないのだ。
一方、息子ブルーノ・スコーンであれば、王立騎士団の団長という地位もある。幽閉された王太子に近づいても不審には思われないだろうし、元八番隊隊長であったブルーノは毒の扱いに長けている。もしかしたら他国で必要になった時に、痕跡を残さず毒殺できるような毒を探しているのかもしれなかった。
ただ――と、リリアナは溜息を吐いて鏡の前にいく。鏡に映り自分を見返している少女は、確かに瞳が緋色に、そして髪が三分の一程度黒くなっていた。銀髪と黒が入り混じり、妙な具合になっている。
「――これ、戻るのかしらねえ」
リリアナは小さくぼやいた。髪や瞳の色を変える程度であれば、リリアナにとっては大した問題ではない。たとえ周囲に何人いようが、常に自分の皮膚に結界を纏わりつかせ、瞳と髪の部分だけ光の反射を変えれば良いだけだからだ。
勿論そのためには熟練の技が必要だし、常に結界を発動し続けるための持久力も必要だ。当然、その二つを可能にする膨大な魔力も要求される。
それでも、リリアナは他人に気付かれないように出来る自信があった。
とはいえ、万が一ということもある。今は王都から離れているとはいえ、ベラスタには悟られるかもしれない。姿を消したと言われているベン・ドラコやペトラ・ミューリュライネンも、違和感を覚えるはずだ。もし彼らに問い詰められてしまえば厄介だ。
「わたくしの増えた魔力が、闇の力だということは知られていないはずですけれど」
万が一でも闇の力がリリアナの体内にあると知られてしまえば、彼らはリリアナの状態を良く調べようとするだろう。だが、ベラスタはともかくベンやペトラは攻略対象者ではない。攻略対象者であれば魔王に匹敵する力を出せると知っているから安心だが、ベンやペトラは乙女ゲームにも出て来なかった人物だ。
「わたくしの自我が消えた後、お二方と戦うとなると――やはり気がかりですわ」
溜息を堪えるようにして、リリアナは苦々しく呟いた。
ベンやペトラが死ぬ可能性もあるし、逆に闇の力を宿したリリアナが倒されることによって、魔王がこの世界に禍を齎す存在として復活する可能性もある。
「邪魔者は排除して、早く終わらせなければ」
髪と目の色が変わったということは、最早残された時間も僅かということだ。
リリアナは昏い瞳で鏡の中の自分を見つめていた。
*****
スコーン侯爵軍は、壊滅状態だった。隊長が撤退を叫んでも銅鑼は鳴らず、隊長の声が聞こえる範囲に居た兵士だけが撤退しようとする。だが、声が届かない兵士にとってそれは撤退ではなく逃亡に見えた。
途端に、侯爵軍全体が浮足立つ。そしてそれを見逃すヘガティ団長ではなかった。
「掛かれ!」
その一言だけで、七番隊と三番隊の面々は水を得た魚のように生き生きと動き始めた。
走る馬に飛び乗るという無茶な要求に応えた三番隊の騎士たちも、ようやく顔色を取り戻している。そして彼らは剣を振り上げて怯む敵兵を薙ぎ払い、騎馬兵は馬から叩き落とし、歩兵を馬で蹴散らした。
ライリーもまた、合流したオースティンを見てほっと頬を緩めたものの、すぐに顔を引き締めて剣を握り敵に反撃を開始する。
「追い込むな!」
「はい!」
七番隊隊長ブレンドン・ケアリーも部下に発破を掛けながらも、深追いするなと叫んだ。元々兵力は侯爵軍の方が多い。重要なことは王太子を無事王都に届けることであって、侯爵軍を壊滅させることではなかった。
そのためには三番隊も七番隊も、一人も欠けることなくこの場を切り抜けなければならない。
だからこその言葉だったし、団長ヘガティやブレンドンの意図を理解している騎士たちは皆、一も二もなく頷いた。
息の合った男たちの様子に、オースティンは嬉しそうだ。近衛騎士となる前のオースティンは王立騎士団に居て七番隊や二番隊とも親しくしていたから、古巣に戻ったようでうれしいのだろう。
側近であり親友でもある幼馴染の様子を横目で見ていたライリーは、敵との攻防が一段落したところで馬首を返しオースティンと並んだ。
あれだけ人数も多く優勢を誇っていた侯爵軍は、這う這うの体で撤退に切り替えている。否、統率が取れていない所を見ると、撤退というよりも指揮系統が失われた結果の遁走に思える。
「まさかここまで呆気ないとは思わなかったよ」
ライリーが呟くと、オースティンは一つ頷いた。そして不思議そうに首を傾げる。
「侯爵本人が指揮を執っていないことは予想がついてたけど、でも撤退の銅鑼も鳴らさないなんて妙だぜ。指揮官らしい男が撤退って叫んでたのに、銅鑼役はどこに居たんだろうな?」
戦っている間中、オースティンは身体強化の術を使っていた。そのため、普通であれば聞こえない敵の声も聞き取ることが出来たのだろう。そしてライリーもまた、身体強化の術を使っていたためオースティンと同じものを耳にしていた。
「指揮官も動揺していたようだから、もしかしたら予定にない何かが起こったのかもしれないね」
「予定にないこと、なあ。確かにそうとしか考えられないが、こんな辺鄙なところで俺たちに味方する何者かが居たってことか?」
ライリーの言葉に半ば同意を示しつつも、オースティンは釈然としない様子で首をかしげている。
オースティンの指摘通り、今ライリーたちが居る場所はそれほど人通りも多い街道ではない。王都から隣国に通じる道は他にもあり、旅人や商人たちはそちらの街道を使うことが殆どだ。
元々ライリーたちが立てていた計画は、大公派に与している領主が隠し持っていた馬を奪い別の場所に運ぶこと、ライリーたちが劣勢にあると見せかけて背後から少数精鋭の四人が侯爵軍を襲い、混乱させたところで侯爵軍から逃げること、この二つだった。非常に簡単だが効果的な方法だと皆同意したし、実際に計画は上手く行った。
だが、撤退を命じた指揮官に呼応するように銅鑼を鳴らす兵士が居ないことが、妙に気に掛かった。どうやらライリーたちの知らないところで、侯爵軍に何かあったらしい。
「気になるけど、時間もあまりないのが痛いね」
溜息混じりにライリーが呟く。大公派に先手を打たれないよう、ライリーたちは早急に王都に舞い戻る必要があった。そして封印具を取りにクラーク公爵領へ戻ったクライドや、それに随行したエミリアとベラスタとも合流しなければならない。
「スコーン侯爵が王都に戻れば、俺たちが王都に辿り着くのも近々だって気付かれるだろうからな。正直、そこは賭けだぞ」
オースティンが苦い表情で告げる。ライリーも心得たもので、神妙な顔で頷いた。
スコーン侯爵軍がライリーを捕縛するため向かっているという情報を得た時、ライリーたちは戦力的に侯爵を捕らえることは無理だと判断した。無茶をすればその分、ライリーの身が危険に晒される。最善策は怪我をしないように侯爵軍から逃げることだが、それでは侯爵軍が王都へ帰還した際、ライリーたちがどの程度の戦力を持ち、どの辺りに居たのか全て詳らかに報告されてしまう。そうなると、王都に居る大公派の警戒が強まり、王都に戻ろうにも苦労することが目に見えていた。下手をすれば、王都に戻った瞬間、ライリーだけ投獄もしくは幽閉される可能性もある。
「だから、裏道を通ろうと思っているんだよ」
「裏道? 隠し通路ってことか?」
「そう」
ライリーは声を低めてオースティンに告げる。オースティンは一瞬首を傾げたが、すぐにそれが王宮にある数多の隠し通路のことだと理解した。
そして隠し通路の出口は、三大公爵が個別に把握しているという。それぞれの公爵家が把握している隠し通路の出口は他の公爵家には知らされておらず、機密性は高い。
「てことは、俺の実家かクライドのところに行くってことか?」
オースティンの質問は、普通に考えれば当然のものだった。三大公爵家はエアルドレッド公爵家、クラーク公爵家、そしてローカッド公爵家だ。だがローカッド公爵家はその実態を知る者はいないとされている。実際に、オースティンもローカッド公爵その人を見たことはない。当然、ライリーもローカッド公爵と面会したことはなかった。
だからこそ、オースティンは自然とローカッド公爵家は除外して考えている。だが、ライリーは首を振ってオースティンの問いを否定した。
「そのどちらも、大公派の監視が付いているはずだよ。クラーク公爵家は恐らくクライドたちがどうにか対処しているだろうけれど、それも完璧ではないかもしれない。それなら、大公派の監視から外れているところから行くべきだろう」
「――まさか」
ライリーの言葉に、オースティンは全てを悟った。だが、にわかには信じ難いことだった。
「ローカッド公爵家か?」
ローカッド公爵家は三大公爵家の“盾”とも呼ばれている。王国が危機に瀕した時に限りその正体を現すともされており、謎に包まれた一族だ。普通の貴族も、ローカッド公爵領の位置しか把握していないに違いない。ローカッド公爵やその家族を一目見ようと領地に赴いたところで、出会えるのは領地の管理を任されている監督官や執事だけだ。
「そう。公爵と面識はないけれど、場所だけは知っているからね」
「――受け入れて貰えると思うか? というか、そもそも入れるのか?」
オースティンは懐疑的な表情を隠さない。
普通であれば王太子が隠し通路を使うと言えば、一も二もなく許可が下りるだろう。だが相手はローカッド公爵家だ。存在するのかどうかも疑わしいと言われるほど、人前に姿を現さない幻の一族である。
その彼らが、非常事態とはいえ隠し通路に繋がる場所に居るのか――たとえ居なくとも、鍵が開いて居れば問題ないが、そもそもその場所に足を踏み入れることができるのか。
ライリーは薄っすらと笑みを浮かべて「そうだね」と頷いた。
「確証はないけれど、行ってみても良いんじゃないかとは思っているよ。ただ隠し通路だから、入れるのは私だけだ。オースティンは辛うじて行けるかもしれないけど、エアルドレッド公爵家の人間だと認識されたら無理かもしれないね。それに、団長たちは別の方法で王都に戻って貰う必要がある」
「団長たちは傭兵の振りをしてるからな、取り敢えず王都に戻れば入れないことはないと思うぜ」
つまり、問題はライリーとオースティンの二人だけだ。当然ヘガティたちも彼の顔を知っている大公派に出くわせば不味い事態に陥るだろうが、基本的に王立騎士団の騎士たちはヘガティを慕っている。王都の警備をしている騎士たちが、大公派ではないことを祈るしかない。
だが、ライリーとオースティンはそうはいかない。特にライリーは大公派にとって最も警戒すべき相手である。
だが、オースティンは全く心配していなかった。
「俺のことは心配いらねーよ。これでも色々と伝手はあるし、下町の平民の方が案外、色々な抜け道を知ってるもんだぞ」
オースティンは三大公爵家の子息と言う立場でありながら、幼い頃から平民とも分け隔てなく付き合って来た。そのため、普通の貴族では考えられないほど王都に詳しく、そして平民たちの住まう区画にも足を運んでいた。
力強い幼馴染の言葉に、ライリーは頬を緩める。
「それは頼もしいね」
ライリーの言葉に、オースティンは楽し気にニヤリと笑った。