64. チャトルーズ川の決戦 2
王立騎士団の兵舎も、夜になれば静まり返る。二番隊の監視を命じられていたカーティス・パーシングは、隠れ潜んでいた暗闇の中、ぴくりと眉を上げた。神経を張り巡らし、気配を探る。
「行ったか」
彼は抑えきれない笑みを浮かべた。
二番隊に怪しい動きがあれば報告しろとブルーノ・スコーンから命じられてはいるものの、怪しい動きというのが一体何かとまでは言われなかった。その上、阻止しろという命令も受けていない。そもそも武力に優れた魔導騎士たちが集まっている二番隊に、間諜や密偵とした仕事を主としている八番隊の騎士が一人で対抗できるはずもないのだ。
二番隊の騎士たちが寝泊まりしている宿舎からは、先ほどまではあったはずの気配が全て消えている。大公派によって監視されていたはずの騎士たちは皆、夜闇に紛れて兵舎から姿を消した。
――――そして、その様子を遥か遠方から眺めていた少女が居る。
彼女は、王立騎士団二番隊が転移陣でどこに向かったのか、おおよその位置を把握していた。
「八番隊は、二番隊にお任せすれば宜しいわね」
八番隊と二番隊では、その戦力は比べるべくもない。万が一何か問題が生じたとしても、八番隊を迎えるのはクライドとベラスタ、そしてエミリアだ。一人一人であれば八番隊に利があるかもしれないが、クライドの頭脳、ベラスタの魔術、エミリアの剣術があれば問題はない。
「わたくしは、東へ参りましょう」
魔術で遥か遠方の景色を眺めていたリリアナ・アレクサンドラ・クラークは、口角を笑みの形に上げる。そして手を空中に翳して映し出されていた二番隊の姿を消す。次の瞬間、彼女の姿は自室から消えていた。
*****
スコーン侯爵は、機嫌よく馬に揺られていた。今回、上手く王太子を捕らえることができれば、大公派の中でスコーン侯爵の地位は盤石なものとなり、影響力も増す。グリード伯爵の鼻を明かすことができると思えば、それだけで楽しくて仕方がなかった。
「あの男も、そろそろ身の程を知るべき頃合いだったのだ」
誰に話し掛けるでもなく、スコーン侯爵は呟く。
グリード伯爵はスコーン侯爵よりも爵位が低いにも関わらず、事あるごとに口出しをして来る面倒な男だった。侯爵にしてみればまさに目の上のたん瘤である。
「メラーズのように身の程を弁えていれば、まだ好きにさせてやったものを」
スコーン侯爵の声は苦々しい。
同じ伯爵でも、メラーズ伯爵はまだ色々と弁えていた。スコーン侯爵を目上として敬い、その意見には必ず従う。侯爵の意見通りに行かないこともままあったが、それはメラーズ伯爵が何もしなかったからではなく、如何ともしがたい理由があった。スコーン侯爵も分からずやではない。きちんと理由を説明され、納得すれば指示通りに行かなかったからといって怒りはしない。実際に、メラーズ伯爵は当初の命令通りにならなくとも、スコーン侯爵の機嫌を良くする代替案や結果を示していた。
つまるところ、メラーズ伯爵も、グリード伯爵のように必ずしもスコーン侯爵の言いなりではなかったのだが、グリード伯爵とは違ってスコーン侯爵への対応が上手かっただけの話だった。だが、その違いにスコーン侯爵は気が付いていない。
「いずれにしても、今回で殿下を王都にお連れすればわがスコーン侯爵家は安泰、グリードの悔しがる様子が目に見えるようだ」
にやりとスコーン侯爵は頬を緩める。
王都から彼らが向かっているのは、ケニス辺境伯と王都の中間地点に位置している、それなりに大きな領地だった。神官が治めている領地であり、その神官はスコーン侯爵と懇意にしていた。国王と王太子が王宮から姿を消してからスコーン侯爵に接触して来たが、手土産がスコーン侯爵の好みに沿っていた。貴族の出身ではないものの、中々見どころのある男だとスコーン侯爵は想っている。
その神官には色々と便宜を図ってくれと頼まれ、スコーン侯爵も可能な限り答えてやった。だからこそ、今ここで役立ってもらわなければならない。
「閣下、もうすぐ到着します」
「そうか。気付かれてはおらんだろうが、万が一がある。斥候を出せ」
「はっ」
一番近くにいた騎士に声を掛けられ、スコーン侯爵は鷹揚に頷く。チャトルーズ川のほとりにある領土は、潤沢な水に恵まれ富んでいる。
スコーン侯爵の言葉を受けた騎士二人が、馬を駆る。あっという間に消えていく二騎を見送り、スコーン侯爵は残りの騎士とともにゆっくりと歩を進めた。
*****
ライリーたちは、チャトルーズ川ほとりの領地で予想通り領主に歓待されていた。この領地を治めているのは神官であり、街の中心には教会、そして街から離れた場所に神殿がある。神殿は最近になって建てられ始めたものらしく、まだ完成には至っていなかった。
「――大公派にすり寄って、金でも増えたんじゃないか? 少なくとも、馬が動けないようにしたところを叩く計画はあるってことだろ」
教会に併設された館に招待されたライリーたちは、何食わぬ顔で領主の言葉に甘えることにした。だが、何もしないでいるつもりはない。ライリーとオースティンは、神官や使用人たちの目を盗んでこっそりと館の外に出ていた。そして今、二人は街の中で一番高い尖塔の屋根に立っている。真っ黒い衣装に身を包んでいるため、陽が沈んだ中ではそうそう気付かれることもないだろう。
二人は器用に屋根の上で体を安定させたまま、手元の地図と街を見比べながら雑談に興じていた。
オースティンが話しているのは、今二人が居る場所の領主である神官のことだった。ライリーたちの予想通り領主は彼らを歓待してくれた。だが、部屋に戻った後の二人は人目を忍んで宿を後にし、自分たちの乗って来た馬に大量の水が用意されているのを確認している。
水を大量に飲んだ馬は早くは走れないし、途中で足を止めることになる。恐らく神官は、馬を動けなくすることでスコーン侯爵の軍勢に有利な状況を作り出そうとしているようだった。
「その可能性は高いだろうね。大公派の中ではスコーン侯爵との繋がりが確認できているらしいよ」
ライリーはさらりとつい最近仕入れた情報を口にする。元々ライリーたちがここの神官を気に止めていなかったのは、元々勢力争いに関わっていなかったからだ。どうやら、領主が大公派に近づいたのはライリーたちが国を出てからのことらしい。
「メラーズ伯爵じゃなくてスコーン侯爵か。その時点で、程が知れるな」
オースティンは容赦なくこき下ろす。大公派の中で真の権力者はメラーズ伯爵だ。元々外交官だったせいか、メラーズ伯爵は非常に駆け引きが上手い。ずっと国内に引きこもっていた貴族など、子供を相手にしているようなものなのだろう。
彼はその柔らかな態度を上手く生かして、スコーン侯爵だけでなくフランクリン・スリベグラード大公も上手く掌の上で転がして来た。そのことに誰も気が付いていないのだから、メラーズ伯爵は強かというしかないだろう。
しかし、敏感な者は直感的にメラーズ伯爵が重要な人物だと気付くのか、身分の高いスコーン侯爵ではなくメラーズ伯爵に近づく。フランクリン・スリベグラード大公は身分が高過ぎるため一介の貴族では話すことは疎か、面通りも敵わない。スコーン侯爵ならば辛うじて接触できるが、彼の性格や能力からして、交流を持っても先に待つのは使い潰されるだけの未来だ。多少は良い思いも出来るかもしれないが、決して長くは続かない。
一方、メラーズ伯爵は相手の能力や資産状況、交友関係、性格といった様々な情報を勘案して適切な対処をする。そのため、大公派の中で影響力を持とうと思えば、それなりの能力を持ち状態を整えた上でメラーズ伯爵に接触するのが得策と言えた。
「グリード伯爵を大公派に引き込んだのもメラーズ伯爵だったからね」
ライリーがオースティンの言葉に苦笑で答える。グリード伯爵は元々、それほど目立つ人物ではなかった。だが、その実彼はスコーン侯爵よりも慎重で執念深い。家族のこととなると疎かになるようだが、部屋の隅に無言で立ち、爬虫類のような目で貴族たちの動きや会話を観察している場面が多々見受けられた。
物静かで何を考えているか分からない胡散臭い男だと囁く者もいる。しかし、その能力はメラーズ伯爵も認めるほどのものだった。
「あまりぱっとするような成果はないけどな。でもスコーン侯爵と仲が悪いにもかかわらず、メラーズ伯爵がずっと使い続けてるんだ。スコーン侯爵よりも有能だと思われてるんじゃないか?」
「だろうね。恐らく、目に見えないところで随分と役立っているんだろう」
どうしても大公派のことを話すと、二人の口調には皮肉が滲む。
大公派の主要人物の事を考えた時、大公を担ぎ上げている三人のうちスコーン侯爵は表の顔、メラーズ伯爵は調整役だった。そしてグリード伯爵は裏の顔だ。証拠は掴めていないが、グリード伯爵が最も裏社会の者たちと繋がりがあるという情報も得ている。そしてもう一つ、彼の息子ソーン・グリードが魔導省に勤めているという点も、大公派にとっては重要なのだろう。
「スコーン侯爵は典型的な貴族だからね。そういう裏の事情にはあまり詳しくない。上手くやれと命じて終わりだ。実務は他の者にやらせるから、その点ではグリード伯爵の方が上手くやるだろう」
当然、グリード伯爵にとってはスコーン侯爵の裏を掻くことなど容易いだろう。
「それで、どうみる?」
オースティンがライリーに尋ねた。目を瞬かせたライリーに、オースティンは悪戯っぽくニヤリと笑う。
「何故、スコーン侯爵が出陣したのか。侯爵本人は今回お前を捕らえて王都に連れ帰ることで、その権力と地位を盤石なものにしたいんだろう。だが、それでグリード伯爵の地位が揺らぐ可能性があるなら、伯爵は何としてでも侯爵の出陣を止めたはずだ」
なるほどと、ライリーは頷いた。確かにオースティンの指摘は的を射ているように思えた。だが、その理由を考えなかったわけではない。漠然と、ライリーは二つの可能性を想定していた。
「一つは、王太子を連れ帰ったところで権力が揺らぐことはないと自信がある可能性。もう一つは、今回の遠征が失敗に終わると思っている可能性、かな」
「普通に考えれば前者だろうが――いや、でも性格が悪けりゃ後者もあり得るか?」
オースティンは腕を組んで考え込む。確かにグリード伯爵は誰かが無謀なことをしているのを無言で、しかし内心で嘲笑しながら眺めているような雰囲気があった。仮に相手が予想通り失敗した場合、やはり何も言わないが頭の中では心底楽しんでいる――そんな印象が強い。
人を印象だけで判断することは危険だが、これまで耳にした噂や情報から判断する限り、その心証に大きな誤りはないだろうと思えた。
それでもライリーは首を捻っている。自分で言い出しておきながら、二つ目の可能性はあまり高くないのではないかと控え目に付け加えた。
「もし失敗すると思っているなら、メラーズ伯爵が止めるんじゃないかな。だから――うん、もしかしたら、私を連れ帰った侯爵に何かしらの不足を見つけて弾劾する可能性の方が高いかもしれない」
「それはあり得そうだな」
もしそのような事が可能ならば、グリード伯爵としては二度おいしい。
身柄を確保したかった王太子が手に入り、そして憎き政敵スコーン侯爵も蹴落とすことができる。ただ、そう簡単にスコーン侯爵が失墜するような不手際があるとは思えなかった。
ライリーは溜息を吐いて首を振る。
「他に何か企んでいるのかもしれないけど、今はそれよりも、どうやってスコーン侯爵の私兵を迎え撃つかの方が重要だ。斥候は?」
「さっき、宿に戻って来てた。多分団長に報告してるんじゃないか?」
オースティンの答えを聞いたライリーは「そうか」と頷く。
「それなら、そろそろ戻った方が良さそうだね――ああ、でもその前に」
ライリーが思いついたように声を上げる。オースティンは首をかしげて、幼馴染でもある王太子を見やった。
「どうした?」
「一度、神殿周辺を確認しておきたいと思ってね。誰も人が近くに住んでいないだろう。何かを隠すとしたら、あの周辺だろうと思うんだ」
なるほどとオースティンは納得した。今二人が居る領の領主がスコーン侯爵軍の援軍として駆け付ける予定なら、武器や馬を隠していなければおかしい。しかし、今簡単に地図と実際を見比べても、それらしき影や隠せるような場所は見当たらなかった。
「それなら一旦、神殿に行ってとっとと戻るか。斥候が戻って来たってことは、だいぶ侯爵軍も近づいて来てるんだろうしな。仕掛けて来るとしたら――明日か明後日、くらいか」
明日にはこの街を発つと、神官には伝えてある。街を荒らしたくはないはずだから、狙われるとすれば街を出た直後のはずだ。仮に街になだれ込んで来たとしても、ライリーとオースティンで街の様子を確認したばかりである。スコーン侯爵の手勢を上手く街の外に誘導することは出来るはずだ。
「庶民を犠牲にする気はないし、それにここの神官も金に惑わされて大公派に協力しただけのようだからね。恩を売っておくに越したことはないよ」
何より、先代国王の折に起こった政変で貴族はその数を減らしている。領主が減ればその分、一人の負担が大きくなり、同時に権力も増える。それはあまり宜しいことではない。
たとえ二心があったとしても、表面上仕えてきちんと領主としての責任を果たしてくれるのであれば構わない。
そう断じたライリーを横目で一瞥したオースティンは、口角を上げた。