63. 崩落 7
エミリア・ネイビーは、広がる光景に目を瞬かせた。彼女がこれまで足を踏み入れたことのある場所と言えば、生家のあるネイビー男爵領、後見人として世話をしてくれているカルヴァート辺境伯領、そして王都だけだ。他の領地には足を踏み入れたこともない。敢えて言うならば、辺境伯領から王都に向かう道中、他領に宿泊したことはある。しかし、その時はただ寝泊まりしただけで、よくよく風景や領主館を眺めることもしなかった。
「凄い、ですね」
感嘆の溜息を零せば、隣に立っているクライドが苦笑を零した。
「そうでしょうか。ここで育ったせいか、何の変哲もない景色だという印象しかありません」
「だってこの屋敷は――えっと、監督官の御屋敷だったと仰っていましたよね」
エミリアの質問に、クライドは「一応は」と肩を竦める。
今彼らが居るのは、クラーク公爵家が治めるフォティア領の屋敷だった。クライドとリリアナの母ベリンダが療養の名目で領地の端へと幽閉されて以来、フォティアの屋敷には使用人たちしか住んでいない。その筆頭が執事のフィリップだ。
「母が妹を産んだ後、ここで暮らしたいと言い出したんですよ。その時既に執事のフィリップが監督官として滞在していましたが、母が来た時に改修したようですね」
「へえ……」
エミリアはぽかんと口を開けそうになり、慌てて唇を引き結ぶ。元々貴族出身ではない父と共に暮らしていたエミリアは、ふと気を抜けば淑女としての振る舞いを忘れそうになってしまう。
だが、今の彼女はクラーク公爵家当主クライドとベラスタ・ドラコと共に居るのだ。気を抜いてはいけないと改めて自分を戒める。
そんなエミリアを楽し気に横目で見ながら、クライドは更に言葉を重ねた。
「安心してください、母も祖母も既に別の場所に移っています。執事は居るかもしれませんが、気にすることはありません」
「……はい、ありがとうございます」
慎重にエミリアは礼を述べる。
高位貴族を前にするとどうしても緊張してしまうが、クライドとはヴェルクに向かう途中でだいぶ打ち解けた。お陰で、それほど緊張することもない。しかしクライド以外のクラーク公爵家の面々と会う勇気はなかった。
クライドはエミリアを安心させるようにニコリと微笑むと、隣で興味津々に周囲を見渡しているベラスタに視線を向けた。
「ここで間違いないんですね」
「うん、魔道具はここだって言ってたな」
クライドの問いに、ベラスタはあっさりと頷いた。
三人は、ライリー一行とケニス辺境伯領で別れ、真っ直ぐにクラーク公爵家の領地の一つであるフォティア領へと向かった。ケニス辺境領からフォティア領までは随分と距離がある。普通に進んでいれば、ライリーたちと大公派率いる王立騎士団が衝突する時に間に合わない。ライリーは“間に合わなくて構わない”と笑っていたが、エミリアもクライドも、できるだけ早くライリーたちと合流したいと考えていた。
そのため、道中はベラスタが作った転移陣も駆使しながら時間を短縮し、本来であればあり得ないほどの速さでフォティア領に到着した。本来であれば、転移陣は作製後速やかに魔導省に届け出て登録しなければならない。だが、当然のことながらクライドたちが使った転移陣は魔導省に届け出ていないし、使用についても申請していない。他に知れてしまえば三人とも罪に問われてしまうが、非常事態ということで三人は互いに口を噤むことにしたのだった。
ベラスタは手に持った魔道具を再度操作する。彼が持っているのは、封印具を探すためだけに作った魔道具だった。
一つ目の封印具――破魔の剣は、既にライリーがヴェルクでコンラート・ヘルツベルク大公から奪っている。三つ目の封印具である鏡は王宮にあると示されたから、彼らは二つ目の封印具である宝玉を求めてフォティア領を訪れた。
三人は屋敷に入る。すると、慌てた様子で侍女長が出てきた。思いも寄らぬ人物に、クライドは首を傾げる。
「旦那様、お帰りなさいませ」
「ああ、ただいま。――フィリップはどうした?」
侍女長は使用人を統括する役割だが、立場的にはフィリップの管理下に置かれている。そのため、まず公爵家の面々の前に姿を現すことはない。
だが、フィリップが留守にしている時は他に対応できる者がいないため、侍女長が出て来ることもごく稀にあった。
「フィリップ様は視察に出かけると仰せでした」
緊張した面持ちで、侍女長は答える。クライドは納得して頷いた。
以前から、フィリップは良く視察に出かけていた。宿泊するほどの遠出はしないものの、それほど視察も嫌ではないようである。実際に、フィリップは以前から宰相の仕事に忙しく視察も好まなかった前当主エイブラムの代わりに、様々な情報を収集していた。クライドに、視察に必要なものや確認すべきところを教えてくれたのもフィリップだった。
だから、クライドも大して違和感なく受け入れる。先触れを出していればフィリップも屋敷に留まりクライドたちを出迎えてくれただろうが、突然訪れたのだから当然待っているはずもなかった。
「気にせず仕事に戻ってくれ。少し立ち寄っただけだ」
鷹揚に頷いたクライドを見て、侍女長は安心したように顔を綻ばせる。深く一礼すると、そのままそそくさと裏手の方に走り去って行った。その後ろ姿を見てクライドは苦笑する。
「怖がらせるようなことはしていないつもりなんですけどね」
小さく呟いたクライドの言葉に、エミリアは小さく囁いた。
「でも、確かに彼女の気持ちも分かります。平民とか、それに近い下位貴族から見たら、高位貴族の方々ってなんだか雰囲気とか全然違って、それだけで緊張するんですよ」
エミリアの言葉には実感がこもっている。しかし、生憎とクライドには良く分からない。首を傾げたクライドは「そういうものなのですか」と相槌を打ちながらも、どこか腑に落ちない様子でベラスタに問いかけた。
「そういうものですか?」
だが、ベラスタは首を傾げる。
「オレ? 良くわかんねえ」
ドラコ一門は爵位を持たない。だから普通に考えれば平民に区分される。しかし、その実態は平民とは程遠い。ベラスタが受けて来た教育は平民であれば一生触れる機会のないものばかりだし、多少内容に偏りはあるものの、立ち居振る舞いも貴族のそれに近い。
クライドは元々公爵家嫡男としての教育を受けて来たためベラスタの受けて来た教育の異質性に気が付いていないが、エミリアにとっては火を見るよりも明らかだった。
聞く相手が悪かったのだと、エミリアは思わず憮然とした表情になる。そんなエミリアを見たクライドは少し困ったように目を細めるが、何も言わずに足を進める。時間を無駄にしないことに決めたらしい。
「宝石の類であれば、恐らく母か祖母が残したものでしょう。そこになければ更に探さなければなりませんが」
「とりあえず、そこ見てみようぜ」
階段を上った三人が向かったのは、クライドの母が暮らしていた部屋だった。血の繋がりはあるものの、クライドは母ベリンダの部屋に入ったことなどない。そのため、扉を開けた時にクライドは目を瞬かせた。母の部屋はこのようなものだったのかと、妙な感慨を持って周囲を見回す。
エミリアもまた興味津々な瞳で室内を眺めていた。
ベリンダの部屋は、全体的に可愛らしい雰囲気で統一されていた。母の部屋だと知らなければ、妹リリアナが幼い頃に過ごしていた部屋だと思ったかもしれない。全て上質なものではあるものの、
「すごい……可愛い……」
思わずといった様子でエミリアが呟く。クライドはちらりと横目でエミリアを見るが、何も言わずに部屋の中を歩いてシーツの掛けられた棚を開いては中を確認していく。
装飾品は一ヵ所に纏めてあったが、念のために他の場所も確認した。だがベリンダの侍女はしっかりと仕事をしていたらしく、宝飾品は他の場所にはない。
クライドの許可を得たベラスタは魔道具で棚に仕舞われた宝飾品を一つずつ確認していった。
「残念、ここにはないみたいだ」
「そうですか。それなら、祖母の部屋に行ってみましょう。そこにもなければ――父か祖父の持ち物かもしれませんね」
あっさりと諦めたクライドの言葉を聞いたエミリアが、一瞬にして疲れたような表情になる。
「こんなに広いと、探すのも大変ですね」
だが、クライドは無情だった。
「ここは、クラーク公爵家が有する屋敷の中では小さい方ですよ」
その言葉にエミリアはがっくりと項垂れる。この屋敷と比べると、エミリアが生まれ育ったネイビー男爵領の領主邸は酷く狭い。所詮高位貴族から見れば下位貴族の豪邸は厩でしかないのだと、つくづく思い知ったのである。
*****
リリアナの視界は、フォティア領にほど近い街道を捕らえていた。街道沿いの街には、傭兵のような風体の男たちが集まっている。彼らは別々の宿を取り他人のように振る舞っているが、明らかに知り合いだった。
「隠れていらっしゃるつもりでしょうけれど、隠れられておりませんのよねえ……」
呆れた視線を隠すこともなく、リリアナは呟いた。勿論彼女自身は、視界に映っている景色とは全く別の場所に居る。だが、だからこそ彼女は街道沿いの街に突如現れた男たちの様子を漏れなく確認することが出来ていた。
以前であれば如何なリリアナと言えど苦労しただろうが、増えた闇の力のお陰でこの程度なら難なくこなせるようになっている。リリアナが避けたいと思い続けていた魔王化の第一歩となる力であるため、本来ならば使わない方が良いはずだ。だが、力を使うまいとしても否応なくリリアナの変化は始まっている。それならば、いっそのこと事が早く進むよう力を使った方が良いのではないかという気さえして来た。
「顔に見覚えがありますわ。八番隊の方でしょうね」
リリアナは、王立騎士団八番隊と直接の面識はない。しかし王太子妃として、王族の指揮下にある王立騎士団のことは把握しておく必要がある。そのため、八番隊に所属している騎士たちの顔や出身も把握していた。顔については実際に見た者もいるし、絵姿で確認した者もいる。見たことのない人物も居るには居るが、他の騎士を知っていれば芋蔓式に他の該当者も発見できた。中には八番隊の騎士ではなく、単なる協力者も居るだろう。だがいずれにせよ、大公派の息がかかった八番隊の協力者であることに変わりはない。
王立騎士団八番隊は、大公派に命じられてフォティア領に向かっている。どうやら国王ホレイシオが保護されているという噂の真偽を確かめに来たようだ。
わざわざ八番隊を動かさなくてもと思うものの、仮に国王が居ればこっそりと身柄を確保し王宮に連れ帰るつもりなのだろう。
だが、それは逆を言えば、国王が見つからなければ彼らは手ぶらで王都に戻るということだ。つまりクライドたちが危険に晒される可能性は低い。ライリーたちは戦闘になる可能性を憂慮して、魔術に優れたベラスタと頭脳戦が得意なクライドだけでは足りないと、剣を使えるエミリアを同行させた。だが、エミリアだけを随行させている点を見ても、ライリーたちも八番隊がクライドたちを襲う可能性は高くないと踏んだのだろう。
リリアナは術を切り替えて、フォティア領に居るクライドたちの様子を確認する。フォティア領の屋敷には結界が張ってあるが、今のリリアナであれば妨げにはならなかった。
「あら、そろそろ見つけたかしら」
クライドたちは母ベリンダや祖母バーバラの部屋を確認したが、結局見つけられなかったらしい。祖父や父の部屋、果てはリリアナの部屋まで確認し、最後に向かったのは貴賓室だった。フォティア領の屋敷には、リリアナの祖父母や両親が個人的に保管していたものの、置き去りにされた品々が多くある。貴賓室には、その内高価なものが厳選されて置かれていた。
リリアナがフォティア領の屋敷を頻繁に出入りしていた幼い頃は、貴賓室に希少な品物は置かれていなかった。恐らく最近模様替えをした時に動かされたのだろう。
『ここが貴賓室ですか?』
エミリアがクライドを見上げて尋ねる。クライドは一つ頷いた。
『ここになければ、当主ですら把握していない場所に保管されていることになりますね』
悪戯っぽく答えたクライドに、エミリアは楽しそうに笑う。その様子を見て、リリアナの眉が僅かに寄った。
どうやらエミリアは、クライドとも打ち解けたらしい。クライドもまた、エミリアには心を開いているように見える。乙女ゲーム通りの雰囲気を纏う二人の関係性は非常に良さそうだった。
(わたくしには、そのような態度を取ったことはございませんでしたわね)
ひんやりとした感情がリリアナの体内から沸き起こる。
クライドとリリアナは、幼少時から殆ど関わることがなかった。母に愛され父に期待される兄と、母に疎まれ拒絶され、父には将来殺す相手としてだけ扱われてきた妹。
クライドはそれでも、不器用ながらリリアナに歩み寄ろうとして来てくれた。だが、殆ど関わったことのない相手に――それも少女だったリリアナが心から欲していた愛情を独占している少年に手を差し伸べられても、すぐに信用など出来るはずもない。
それでも、ずっと心の底では人が恋しかった。父の施した術で感情を抑えられても、感情が喪われたわけではない。きっと生まれた時から、リリアナは愛情を求めていた。
決してリリアナが手に入れることの出来なかった肉親と婚約者の愛情を、難なく奪っていく少女への憎悪。
自分も他人を拒絶して来たのだから自業自得だ、という微かな声すらも凌駕するほどの、絶望。
負の感情を覚えてはならない。負の感情が大きくなればなるほど、リリアナの心は死に魔王へ近づいていく。止めなければと思いながらも、怒りと悲しみと憎しみが育っていく。
空間に映し出している光景を消そうとしたその瞬間、ベラスタが叫んだ。
『これだ!』
次の瞬間、映像は消える。ベラスタが指し示していたのは、六十カラット程もある金剛石だった。その金剛石は、リリアナも一度見たことがあった。
無色で透明度が高く内包物も見られない、非常に美しい国宝級の宝――それが、封印具の一つ。
“情調の珠”だった。
6-4