62. 奪還の序章 1
リリアナ・アレクサンドラ・クラークは、自宅の客間で珍しい客人を迎えていた。目深に帽子をかぶり黒い衣服に身を包んだ男は、明らかにお忍びの体だ。だが、服の仕立ても立ち居振る舞いもそれなりに身分のある者だということを示していた。
「残念ですわ。伯爵がいらしたという事は、大公閣下から色よい返事を頂けるものだと思っておりましたのに」
風がさざめくような声音で文句を告げるリリアナに、対峙した男は一つ頭を下げた。帽子を頭から取り、腰かけたソファーに置く。そして、彼は申し訳なさそうな様子を取り繕って口を開いた。
「お言葉ではありますが、先に王太子殿下をお連れしなくては、婚約の解消そのものができず、ひいては閣下との婚姻も叶いません」
「そんなこと、わたくしの知ったことではありませんわ、メラーズ伯爵」
謝罪を言いそうな声音ではあるものの、メラーズ伯爵の台詞は端的に事実を述べている。不用意に謝罪をして相手に弱味を握らせない術は、彼が外交官として活躍していた時期に身に着けたものだろう。そして同時に、相手を不快にさせないよう態度や声音は絶妙に調整されている。
しかし、リリアナは敢えてそこで苛立ったように声を尖らせた。
「心中、お察し申し上げます」
メラーズ伯爵はリリアナを宥めるようにそう告げる。共感は示すものの、決してリリアナに言質を掴ませようとはしない。口だけは達者な男だと、リリアナは心中では冷めきっていた。
「勿論我々としても、早く殿下の居所を掴み、仔細について伺いたいと思っているところなのです。しかしながら、殿下は姿をお隠しになるのが酷くお上手でして」
あたかもフランクリン・スリベグラード大公と結婚し、ゆくゆくは王妃になりたいというリリアナの願いを叶えるためだと言わんばかりの口調だ。しかし、メラーズ伯爵の本意はそこにないとリリアナは良く知っていた。
メラーズ伯爵が狙っているのは、国王ホレイシオと王太子ライリーの完全なる失脚だ。そのためには、たとえ多少違法な手段を用いたとしても、二人の口から決定的な証言を取る必要がある。だからこそ、二人の身柄を確保出来ていないことは、明らかに大公派にとって大きな痛手だった。
(エアルドレッド公爵もプレイステッド卿も、上手くやっていらっしゃるようね。ウィルがヴェルクに居ることは掴んでいらっしゃるでしょうに、そこから先へ進めていないとは)
リリアナは内心でメラーズ伯爵たちを嘲笑しつつ、ユリシーズとプレイステッド卿に賛辞を送る。
二人が国王ホレイシオの身柄を保護していることは、呪術の鼠を用いて辛うじて把握することが出来た。国王がいるらしい屋敷は厳重な警備が敷かれており、呪術の鼠ですら侵入は困難だった。恐らく大公派の手先も、探ることは出来ていないに違いない。
それほどの厳格に警戒されている中でリリアナが情報を掴むことが出来たのは、偏に呪術の鼠で膨大な量の情報を仕入れ、そこから推測を積み重ねたからだった。だが、間諜を使う限りは得られる情報にも限度がある。メラーズ伯爵がどれほど優れた頭脳を持っていたとしても、疑惑以上のものは見つからないに違いない。
そして、エアルドレッド公爵家が国王ホレイシオを秘密裏に保護しているという疑惑を得ても、大公派がエアルドレッド公爵を罪に問うことは実質不可能だ。致命的な罪を仮に見つけたとしても、三大公爵家の一角を為すエアルドレッド公爵家を不用意に取り潰してしまえば、スリベグランディア王国に大きな混乱を招いてしまう。
何も答えずにメラーズ伯爵を見つめるリリアナに、メラーズ伯爵は探るような目を向けた。
「貴方は何か、殿下の行方についてご存知ではありませんか? もしくは陛下の居場所でも構いません。何か聞き及んでいることは?」
どうやらメラーズ伯爵は焦っているらしい。彼には珍しく、畳みかけるような口調でリリアナに問い質した。リリアナは目を眇める。メラーズ伯爵の態度に、違和感が沸き起こる。
大公派はライリーたちがヴェルクに入ったと知っているはずだ。そして、暗殺と破魔の剣を奪うよう決定していた。だが、暗殺を命じた者たちから報告が入らないと言い合っていたのも知っている。
その事実を突き合わせると、どうやら大公派はライリーたちの居場所を見失ったらしい。
呆れたような、そして冷ややかな表情のリリアナを前にしたメラーズ伯爵もさるもので、全く動じた様子はない。静かにリリアナの反応を窺っている。
「わたくし如きが、何故存じていると?」
貴方ですら知らないのに、とリリアナは言外に嫌味を滲ませた。だが、メラーズ伯爵はその反論も予想していたようで、大仰に肩を竦めてみせた。
「いえいえ、大した理由ではありません。貴方は殿下の婚約者であらせられますから、その関係で何か、殿下からお聞きになっていたのではないかと考えた次第です」
「まさか」
リリアナはメラーズ伯爵の言葉を切り捨てる。心外だと言葉に滲ませた。
実際にはリリアナはライリーやホレイシオの居場所をほぼ正確に知っているが、嘘はついていない。ライリーから何かを聞いたわけではなく、リリアナが勝手にライリーを転移させその後の様子を窺っているだけだ。ホレイシオに関しては直接何かを聞き及んだわけではなく、得られた情報から推測したに過ぎない。
「殿下が男爵家のご令嬢と御懇意になさっていたとの話を、存じてはいらっしゃらないの?」
「無論、その話は聞き及んでおります。しかしながら、直前まで殿下とご一緒でしたので」
「あれは貴方がそうしろと言ったのでしょう」
メラーズ伯爵は引かずに言い募るが、リリアナは眉間に皺を寄せて言葉を遮った。王太子が顧問会議に出ない場合は、リリアナが婚約者としてライリーの側に控え、彼が逃亡しないよう目を配る――それが、大公派の考えた作戦だったはずだ。
「あのような下賤の娘と御懇意になさるなど、王族としての御自覚もお持ちでない。わたくし、同じ部屋で息をしていると思うだけで不快でしたのよ」
嫌悪も露わにリリアナは吐き捨てる。当然、本心からの言葉ではない。だが、メラーズ伯爵にリリアナの主張を信じさせなければならなかった。
メラーズ伯爵は探るような視線をリリアナに向けていたが、やがて「なるほど」と小さく呟いた。
「確か、エミリア嬢――でしたか。彼女はクラーク公爵と二人で国外へと出られましたな」
一体何を言い出すのかと思いながらも、リリアナはメラーズ伯爵の言葉を待つ。伯爵は、わずかに首を傾げた。
「わざわざ公爵家のご当主が隣国へ何をなさりに行くのか、疑問だったのですが――何かご存知でしょうか」
「まあ」
リリアナはさも妙なことを聞いたと言うように声を立てて笑う。そしてほとほと見下げ果てたと言いたげな視線をメラーズ伯爵に向ける。しかし伯爵は一切動じた様子がない。
「わたくしは、兄とは殆ど会話もしておりませんわ。殿下の婚約者と側近という、ただそれだけのこと。幼い頃から住まいも別でしたし、碌に会話をしたこともございませんのよ。恐らく、わたくしよりも伯爵の方が兄と会話をした回数は多いのではなくて?」
そう反論すれば、メラーズ伯爵はあっさりと納得した。クラーク公爵家だけでなく、一般的には高位貴族になればなるほど実家族との縁は薄くなる。メラーズ伯爵はそれを良く知っていたし、彼が知る前クラーク公爵エイブラムは典型的な高位貴族だった。
代わりに、メラーズ伯爵は別の質問をリリアナに投げかける。
「此度のことを見越して、殿下がエミリア嬢を国外へやり、その後合流する計画はあったと思われますか?」
あまりに思いも寄らぬことを言われると、人は言葉を失うらしい。絶句してメラーズ伯爵を凝視するリリアナを静かに見返すメラーズ伯爵は、どうやらリリアナを訪れるより前からその可能性を考えていたらしい。
だが、それはあまりにも見当違いな推測だった。そもそもライリーはエミリアやクライドを追う予定はなかったし、二人に合流したのは事実でもその状況に追いやったのはリリアナだ。そして、仮にライリーが逃亡を謀ったとしても、中途半端に全てを放り出すわけがない。
長年婚約者として傍に居たリリアナは、そのことを良く理解していた。
だが冷静に考えれば、確かにリリアナの発言を統合すればメラーズ伯爵と同じ結論に至るかもしれない。それでもやはり、あまりにもライリーの能力や責任感を軽んじた言い草だった。
リリアナは慌てて表情を取り繕う。言葉を失い愕然とメラーズ伯爵を凝視していた事実は取り消せないが、幸いにも伯爵はリリアナにとって都合の良い勘違いをしてくれたようだった。
「得てして恋に血迷った男というものは、妙なことを仕出かすものですよ」
それは人によるのではないかと、リリアナは内心で突っ込みながらも、心のどこかで不安が芽生える。ライリーが恋に現を抜かすようなことはないはずだと思いながらも、前世の記憶が妙に鮮明に脳裏に蘇った。思い浮かぶ場面は、主人公が王太子を攻略して迎えたハッピーエンドのスチルだ。
しかし、どうにか思い浮かんだ残像を脳裏から追い出す。それに、敢えてここでメラーズ伯爵の勘違いを正す必要もなかった。
多少動揺は残っていたが、このような場で気位の高い貴族女性ならばどのような態度を取るか瞬時に考える。例えば――マルヴィナ・タナーを更に上品にした感じであれば、不快感を全面に押し出すに違いない。
そして、リリアナはその通りの感情を態度に示した。
「それでは、兄は殿下の軽薄に乗ったことになるではありませんか。伯爵は、クラーク公爵家当主を愚弄なさいますの?」
「そのようなつもりは決して。ただ、殿下に命じられては否と言えないのが側近です」
リリアナは片眉を上げる。命じられてその内容を判別するでもなく、ただ諾と答え言いなりになるのは、側近ではあっても忠臣とは言えない。もしかしたらメラーズ伯爵自身も忠臣となった経験がないのか、もしくはそのような人物を間近に見たことがないのかもしれなかった。
だが、それはあくまでもリリアナの推測に過ぎない。とはいえ、メラーズ伯爵が親しくしている貴族は、リリアナの父エイブラムも含めて皆自己中心的な人物ばかりだ。忠臣と呼ぶには程遠い者が集まっていると考えると、それも仕方ないのかもしれなかった。
「そう。たとえそうだとしても、我が公爵家を取り潰すのはお止しになった方が宜しいわ。傍系もおりますから、そこから適切な人間を選び当主と致しましょう」
メラーズ伯爵の言葉を受けて、リリアナが返したのはそんな言葉だった。兄クライドを必要以上に擁護することはない。
クライドの律義にすぎる性格を考えれば、ライリーが無謀なことをしようとすれば全力で止めるに違いないとは思ったが、兄クライドと没交渉であることをメラーズ伯爵に印象付けるにはちょうど良い話題だった。
案の定、メラーズ伯爵はリリアナの思惑通りに「おや」と片眉を上げる。
「それで貴方は宜しいのですか? このまま殿下をクラーク公爵が保護していたとなりますと、クラーク公爵も無事ではすみませんよ」
クライドがクラーク公爵としての身分を失えば、リリアナは公爵家の令嬢としての身分を失う。下手をすればクライドと共に落ちぶれていくだけだ。だが、リリアナは平然としたものだった。
確かにライリーはクライドやエミリアと合流し、共に行動している。ヴェルクに行ったことまではメラーズ伯爵たちも掴んでいたようだが、その後の足取りを見失っているに違いない。そのため、いつ王太子一行がスリベグランディア王国に舞い戻るかも予測が付かない。国境の警備は厳重にしているだろうが、それで必ず捕まえられるとは限らなかった。
実際に、ライリーたちは既に帰国している。そしてケニス辺境伯領に入ったことも、リリアナは確認していた。
メラーズ伯爵たち大公派がライリーの居場所を把握する時機もそれほど先ではないだろう。しかし、メラーズ伯爵たちがライリーを見つけた時には、彼らはケニス辺境伯の庇護下にある。ケニス騎士団という強力な助っ人を得たライリーたちを相手取るのであれば、正面衝突は避けられない。大公派が目論むように、秘密裏に王太子の身柄だけを確保するなど夢のまた夢だった。
そこまで理解していても、リリアナはメラーズ伯爵に親切に教えてやるつもりは一切ない。だから嫣然と微笑みを浮かべる。
「あら、その前にわたくしは大公閣下と婚姻を済ませれば宜しいのでしょう。ですから貴方には、早く殿下を見つけていただかなくては」
その台詞を言い放ったリリアナは、まさしく女王の風格だった。
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