61. 王太子の帰還 6
ライリーがイェオリの力を借りて移動した先は、大きな家具が所狭しと置かれた部屋だった。全ての家具にシーツが掛けられ、よく見れば隅の方には綴織が重ねてある。綴織は手間と時間が膨大にかかる非常に高価なものだ。それが大量に置いてあるということは、今ライリーが居る場所はケニス辺境伯の邸宅で間違いがないようだった。
「ライリー」
ほっとしたような声で名を呼ばれたライリーは顔を上げる。大きな家具に囲まれるようにして、オースティンが立っていた。二人を気に止めることなく、イェオリはさっさと影に戻ってしまう。残されたライリーは、自分を見てほっとした表情のオースティンに、苦笑を浮かべながら近づいた。
「影を移動するなんて思ってもみなかったよ」
「ぞっとするかと思ったけど、瞬きしたら次の場所に居た、みたいな感じだった」
異能力は魔術とは違う。だから、違和感があるのではないかと思っていた。未知のものに対する恐怖というものは誰にでもある。
だが、実際には全く移動したという実感がなかった。転移陣を使った場合は、五感に違和感が残る。人によっては船酔いのような感覚になって暫くは碌に動けないこともあるほどなのだが、影を使った移動には一切の違和感がなかった。普通に一歩踏み出した瞬間、周囲の景色が変わったと言う感覚なのだ。
異能力というものを目の当たりにしたことはなかった二人は、どこか夢見心地だった。現実味のない感覚が未だに残っていたが、自分たちが今いる場所を把握しておかなければならないことは確かだ。
「取り敢えず、ここがどこか確認しておこうか。きっとクライドたちも来るだろうけど」
「ああ、ちらっと扉の外を確認したけど、この近辺に人の気配はなさそうだ」
オースティンの言葉にライリーは頷く。室内を見る限り、今二人が居る場所は物置として使われている場所のようだった。だが、扉に鍵は掛かっていない。
ケニス辺境伯の館は非常に広大だ。普段は使われていない客間だろうと、二人は見当をつけた。
「確か、ケニス辺境伯の館は本館と別館に分かれていたよね」
「ああ、俺もそう記憶してる。てことは、ここは別館じゃないか?」
「別館を使うのは招宴を開くとき、本館の客間が足りない時だけだろうからね。私も別館だと思う」
イェオリにとっても、自分の異能力は極力他人に知られたくないはずだ。当然、出現場所も人気のない場所を選ぶはずだ。しかし、イェオリはケニス騎士団に所属している一介の騎士に過ぎない。その彼が別館を選んだのであれば、随分と頭が回るものである。恐らくはジルドか誰かがイェオリに指示したのだろうと、ライリーは結論付けた。
ただ、今は誰がこの場所を移動先に選んだかは重要ではない。ここから本館に移動し、ケニス辺境伯と会う必要がある。それも出来るだけ人目に付かない方が望ましい。
「ケニス辺境伯の館内図は覚えている?」
ライリーはオースティンに尋ねた。オースティンは顔を顰める。
「いや――おおまかには覚えちゃいるんだが、細かいところまでは流石に思い出せない」
「そうか」
オースティンはライリーの質問の意図を的確に理解していた。ライリーが知りたいのは、別館から本館に秘密裏に移動できる道筋だ。当然隠し通路を知るはずもないが、人目に付きにくい経路というものは必ず存在している。
「敵がいたとして、彼らが見張っているのは貴族の通り道だけだと思うんだよね。使用人の勝手口や裏通路は、監視していないはずだ」
意味深に、ライリーが告げる。オースティンは目つきを鋭くしてライリーを見やった。ライリーは静かにオースティンの目を見返す。
「使用人に気付かれないように、使用人通路を通るってことか?」
「そうだね。ただそうなると夜半過ぎになる。さすがに、伯の元を訪れるには常識外れかな」
「この状況で常識外れとか言ってんじゃねえよ」
ライリーが笑えば、オースティンは呆れたように片眉を上げた。どうやらこれまでの警戒と緊張が多少解けたようで、普段の調子を取り戻し始めたらしい。そのことに心の隅で安堵しながらも、ライリーは「確かに、そうだね」と柔らかく同意してみせた。
その時、二人の背後で影が動く。咄嗟に顔を向ければ、今度は影からイェオリとエミリアが現れた。エミリアは突然変わった景色に目を白黒させている。そのエミリアから手を離したイェオリは、再び影に潜る。この後、ベラスタとクライド、そして護衛二人を順に連れて来るのだろう。
「ようこそ」
愕然として言葉も出ないエミリアに、お道化た調子で声をかけたのはオースティンだった。肩を竦めてみせたオースティンを見て、エミリアはようやく息を吐く。驚きのあまり呼吸を止めていたらしい。
「あ――、えっと、こんにちは?」
エミリアは何と言おうか逡巡し、疑問形で挨拶の言葉を口にする。先ほどまで一緒に居た相手に告げるには妙な台詞だと本人も自覚しているようだが、他に何も思いつかなかったらしい。
オースティンだけであればまだしも、エミリアはまだライリーを前にすると多少、緊張するらしかった。それでもゆっくりと歩いて二人に近づきながら、周囲を物珍しそうに見回す。
「ここ、凄いですね」
「恐らく辺境伯の別館だろうな。普段は使わない客間を物置みたいにして使ってるんだろう」
心底感心した様子のエミリアに、オースティンが簡単に説明する。エミリアはぽかんと口を開けていた。
「普段は使わない客間、ですか」
「ああ、王宮にもあるだろ? 他の貴族やら親族やらを招いて舞踏会を開くときとか、祝宴とか、そういう時に遠方から来た客人を泊めるための館があるんだよ。でも、そこは普段は使わないからな。使用人たちが掃除はしてるはずだが、空いている部屋に色々と物を置いてるんだ」
男爵家の令嬢に過ぎないエミリアにとっては、普段は使わない棟があるなど別世界の話だ。使わない期間が長ければ長いほど、維持費も馬鹿にならない。愕然としているエミリアに、オースティンとライリーは首を傾げた。
エミリアは確かに男爵家の令嬢ではあるが、カルヴァート辺境伯ビヴァリーに気に入られ、度々行儀見習いのためカルヴァート辺境伯邸に行っていたはずだ。だから、オースティンが率直にエミリアに尋ねた。
「カルヴァート辺境伯の邸宅もそんな感じだろう?」
だが、オースティンやライリーが思っていた反応とは全く違う態度をエミリアは見せた。首を傾げて思案する様子を見る限り、思い当たる節はなさそうだ。少し考えた後、エミリアは恥ずかしそうに頬を染めて小さく首を振った。
「あの――お恥ずかしながら、私はずっと本館にしか行っていなかったので――別館があるとは聞いていたんですけど、実際に目にしたことはなくて、どれほどの物なのかは知らないんです」
「ああ、なるほどね」
ライリーとオースティンは納得したように頷く。確かに、行儀見習いで訪れている少女が好き勝手に屋敷を動き回ることはないだろう。カルヴァート辺境伯ビヴァリーなら許したかもしれないが、エミリアの性格を考える限り、許された場所以外へ足を踏み入れるとは思えなかった。だから、このような場所を見るのは、エミリアにとっては人生初の出来事に違いない。
普通であればオースティンやライリーも目にすることはない立場のはずなのだが、何分二人は幼少時に二人で“冒険”をした仲である。当然、使われておらず鍵を掛けられた部屋は彼らにとって格好の遊び場だった。
お陰で、全てを網羅しているわけではないものの、王宮やエアルドレッド公爵邸の内部はほぼ正確に理解していた。隠し通路も、既に打ち捨てられ使われなくなったものも含めて記憶している。
「とりあえず今は、別館からどうやって本館に行くかを考えないといけないんだよ」
あっさりとエミリアの発言を流したライリーは、本題を述べた。エミリアは顔を上げてきょとんとしたが、すぐに理解して真面目な顔になる。
「そっか、そうですね。確かに、大公派の間諜が見張っていると仰ってましたし――気付かれてはいけませんよね」
そうでなければ、わざわざイェオリの特殊能力に頼ってまで国境沿いの森からケニス辺境伯邸に移動した意味がなくなってしまう。
そこでふとエミリアは何かに気が付いたように、不思議そうな表情になった。ライリーに顔を向けたエミリアに気が付き、ライリーは首をかしげてみせる。遠慮がちではあるものの、最初ほどライリーと距離を取ろうとしなくなったエミリアは、ライリーの態度に勇気づけられて質問を口にした。
「殿下は、イェオリのことをご存知だったのですか? だから、間諜に気付かれずに伯とお会いできるとお考えになったのでしょうか」
オースティンもはっとしたようにライリーを見る。エミリアの言う通り、ライリーは当初から勝算がある様子だった。だが、具体的に何を企んでいたのかは言っていない。
二人分の視線を受けたライリーは困ったような笑みを浮かべたが、ゆっくりと首を振った。
「いや、イェオリのことは勿論知らないよ。ただ、策は確かにあった。ジルドに会う前にも言った通り、国境警備の者のうち数人――そうだね、四、五人と私たちが入れ替わることを考えていたよ」
「その入れ替わった騎士は森に潜む、ということでしたよね。その後、彼らが館に向かえば入れ替わりに気が付かれるのではないかと思ったんですけれど――」
多少控え目に、しかしはっきりとエミリアは疑問を口にする。よく考えていることだと感心しながら、ライリーは頷いた。
エミリアはあまり自分の意見を主張する性質ではない。しかし、常にしっかりとした考えは持っているようだった。それに、頭の回転や着眼点も優れている。リリアナという婚約者がいるからあまりライリーには目新しく映らないが、もし周囲にリリアナのような高い頭脳の持ち主が居なければ、ライリーはエミリアに心奪われたかもしれなかった。
ただ、今のライリーにはリリアナが居る。リリアナと話をすれば、目から鱗が落ちたような気持ちになった。それと比較すれば、どうしても他は全て霞んでしまう。それでもエミリアの発言は的を射ていたし、側近でもあるオースティンやクライドに引けを取らないものだった。
しかし、ライリーは全てを詳らかにする気はなかった。異能力者の存在は秘匿すべきものだし、わざわざ異能力者に頼らなくとも解決策は存在している。
「ケニス辺境伯ともなれば、お抱えの魔導士がいるからね。その魔導士でも、魔道具でも、姿を消す術はあるのではないかと考えただけだよ。魔道具に関しては、伯はエアルドレッド公爵家とも繋がりがあるからね。エアルドレッド公爵家先代当主の弟と言えば、魔道具作りに耽溺している変わり者として有名だ」
なるほどと、エミリアは頷いた。人の姿を消す魔道具など、一般には存在しない。だから懐疑的だったが、エアルドレッド公爵家先代当主ベルナルドの弟が魔道具作りに凝っていると聞けば、その伝手で姿を消す魔道具を入手したのではないかと考えることも出来る。
どうやら納得した様子のエミリアに満足したライリーが視線をオースティンに向けると、オースティンは半信半疑の目をしていた。確かにライリーの言葉は半分ほどは確かなのだろうが、他にも理由があったのではないかと無言で問うている。さすがに幼馴染の目は誤魔化せないらしい。
ライリーは目を細めて唇に微笑を浮かべた。その表情だけで、オースティンは諦めたように息を吐く。そして“あとで聞かせろよ”というようにライリーを睨みつけた。ライリーが一つ頷けば、オースティンは表情を緩める。
再び気配がして三人が振り向けば、次に姿を現したのはベラスタだった。ベラスタもきょとんとしているが、その彼をおいてイェオリはさっさと姿を消す。残るはクライドと護衛二人だけだ。全員が揃うまでにある程度の道筋をつけるべく、異能力に興味津々なベラスタを説き伏せ、四人は部屋の内部と周囲を一旦確認することにした。









