9. 絡む糸 1
その日、リリアナは朝から機嫌が良かった。マリアンヌが苦笑混じりに、「楽しそうですね、お嬢様」と髪を整えてくれる。リリアナは控え目に微笑を浮かべ小さく頷いた。
「そんなに殿下とお会いできるのが楽しみなのですか? 今日は普段よりも長く王宮に滞在なさるご予定ですものね」
〈ええ〉
リリアナは頷く。だが、婚約者であるライリーも暇ではない。実際にリリアナがライリーと会うのは午前中だけで、午後は別の予定が入っている。だが、その予定が何であるかをリリアナはマリアンヌには伝えていなかった。護衛として勤め始めたオルガとジルドには伝えたが、それ以外の使用人には――そして勿論、ライリーにも教えるつもりは毛頭ない。父親であるクラーク公爵の耳に届かないとも限らないからだ。
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」
マリアンヌが玄関口で見送ってくれる。リリアナはオルガとジルドの二人を連れて屋敷を出る。
フォティア領の復路で出会った時とは違い、二人とも貴族の護衛らしい格好に身を包んでいた。ジルドは顔つきと雰囲気から傭兵に見えてしまうが、オルガは近衛騎士と見えんばかりの気品がある。当初は王宮に入ることに難色を示していたジルドだったが、そこはリリアナが上手く手を回した。その上、ジルドは極力人目を避けるようにして動いている。護衛として表立つのはオルガだ。貴族相手の対応はオルガの方が慣れているし、そもそも護衛はそれほど他の貴族と関わる機会がない。
王宮に到着したリリアナはオルガとジルドに待ち合わせの時間を再度確認し、ライリーと会うためサロンに向かった。案内役の侍女がいるが、何度も足を運んでいるリリアナにとっては、フォティア領の屋敷以上に慣れた実家のようなものである。本来は伴うべきであるマリアンヌを連れて来ないのもそのせいだった。
サロンに到着したものの、忙しいのかライリーはいない。ごく稀にライリーはサロンでリリアナの来訪を待ってくれているが、基本的にはリリアナがサロンで待つことの方が多い。心積もりはしていたので、リリアナはソファーに腰かけて鞄から本を取り出した。誰に見られても構わないよう、持って来たのは詩集だ。最近、貴族子女たちの間で流行している愛を詠った詩集の一つだが、性に合わないのかなかなかページが進まない。
(――貴女の心は月の女神フォルモントが如く美しく煌めき、私の想いを育て、そうして凍てついた大地を溶かすことなくただ凍えさせるのです――意味が分からないわ)
魔術書とは違い語句も簡単で、文章自体も短い。文字を拾うことに全く苦はないが、一体それが何を意味するのか理解すること自体がリリアナには苦痛だ。世の中の女性たちはこのような言葉を恋人に望んでいるのかと思えば、男性陣に憐憫すら覚える。
(貴方の瞳は太陽の如く、貴方の言葉は暖炉の火の如く、貴方の手は地獄の業火の如く、私を惑わせ、燃え上がらせるのです、罪深い人よ――――? 罪深いのならその業火で焼かれてしまえば良いのではないかしら)
比喩であることは重々承知の上だが、全く作者の意図が読み取れない。いや、読み解けなくはないのだが、共感など程遠い感情だ。他のご令嬢方のように、目を輝かせ心をときめかせることなどできそうになかった。
だが、こういった類の言葉が貴族社会、即ち社交界デビューした後に必要になることは想像に難くない。
ふと、リリアナは空気が揺れたことに気が付く。元々集中していたわけではない読書から気をそらし顔を上げる。ライリーが来たのでないことは承知していた。案の定、リリアナが視線を向けた先には令嬢の姿がある。
(まあ、何をなさっているのかしら)
敵意を微笑に隠しリリアナに視線を向けているのは、マルヴィナ・タナー侯爵令嬢だった。ライリーの婚約者候補の一人であるが、リリアナよりも立場は低い。その上、最近はライリーがリリアナとばかり会っているため、実質的に婚約者候補から外れているのだと噂する者もいる。実際、彼女の王太子妃教育は芳しい結果を見せていないそうだ――尤も、リリアナと比べれば、という注釈は付く。
それでも彼女は侯爵家令嬢としての己に誇りを持っているようだ。リリアナは稀にしか会わないが、聞くところによると常に流行の最先端を追い、頻繁に高い買い物をしていると言う。現に今も彼女が纏う衣装はスリベグランディア王国ではなかなかお目にかからないものだった。柄の特徴から、恐らくは隣国のユナティアン皇国のものではないかとリリアナは見当をつけた。
確かに、物の値打ちを知ることも王太子妃には重要な仕事だ。だが、必要なのはそれだけではない。
王太子妃候補とはその実、候補者たちを競わせ、最も資質の高いものを見抜くという選考試験の役割も担っていた。結果的に、声が出ないという不利はあれど、リリアナの抜きん出た資質の高さを示すことにもなっていた。
「こんなところでお一人で読書をなさっているなんて、如何なさいましたの? 未だ声がお出にならないと心配しておりましたのよ。それにしても、さすがクラーク公爵家ご令嬢であらせられますわ。私など今でさえ王族の方々のお近くに侍るというだけで、この身も心も奮い立つ心持ちでおりますのよ」
マルヴィナはこれ見よがしに笑ってみせる。
裏を読めば、「王宮だというのに供の一人もつけずみっともない、声も出ない出来損ないの癖に、実家のように寛ぐなど思い上がりも甚だしい」と言ったところであろうか。
マルヴィナの近くにも侍女らしき姿は見えないが、恐らくどこかに待たせているのだろう。リリアナがサロンにいると気付きわざわざ訪れたというのであれば、ご苦労なことである。
そして、リリアナはマルヴィナの遠回しな嫌味にも全く気負う様子なく、にっこりと笑ってみせた。すっと優雅に扇子を出して口元を覆い隠すと、小首を傾げる。ちらりと視線を用意されたテーブルに向けてマルヴィナを見やれば、一言も発しない内に牽制は終了だ――即ち。
――わたくしは今、殿下をお待ち申し上げておりますの。貴女は最近、お呼ばれになっていらっしゃるのかしら?
寸分違わずリリアナの意図を読み取ったわけではないだろうが、少なくともマルヴィナは、リリアナがライリーと待ち合わせていることは理解したらしい。さっと顔色を変える。客観的に考えて、自分の方が王太子妃の椅子から遠い場所に居るのだと改めて理解したのだろう。
そもそもこの場所が王族が私的に使うサロンであることを考えるとすぐに分かりそうなものだが――と、リリアナはわずかに視線に憐憫を含ませる。
マルヴィナが更に何かを言い募ろうとした時、「これは珍しい取り合わせだな」という声が響く。視線を向ければ、そこにはオースティンが立っていた。マルヴィナの頬が赤く染まる。その様子を横目で眺めたリリアナは思わず呆れて目を細めた。ライリーの婚約者候補であるにも関わらず、他の男に心を動かすなど言語道断である。悋気を起こすことは百歩譲ったとしても、未来の国母たる心構えがなっていない。
だが、確かにライリーの幼馴染である公爵家次男という肩書に加え、まだ幼さは残るものの将来美男になるであろう少年を見れば多少なりとも心は浮つくのかもしれない――リリアナには理解し難い心境ではあるが。
「いえ――そんな。あの、私、リリアナ様がお一人でいらしたから――気になって」
そわそわとしながら言い繕うマルヴィナに、オースティンは穏やかな態度を崩さない。リリアナと初めて会った時のような態度だ。リリアナは傍観を決め込む。オースティンはマルヴィナに近づくと、リリアナに顔を向けた。
「殿下はもう少ししたらいらっしゃると思う。悪いがお待ちいただけないだろうか」
リリアナは頷いた。夏ごろに出会ってからというもの、オースティンとは王宮で幾度となく顔を合わせている。その時はライリーもいたからだろうが、気安い態度だった。それに慣れているからこそ、貴公子然としたオースティンを見ると居心地が悪い。
オースティンはマルヴィナに笑顔を向け、「送って行こう」と彼女を促した。洗練された仕草だ。ライリーと比べても手慣れた様に、一体この男はどれほどの女性をエスコートした経験があるのだろうとリリアナは穿ってしまう。
一方で、マルヴィナをこの場から連れ出してくれたのは有難い。声が出れば言い負かして追い出すこともできただろうが、今のリリアナはただ微笑を浮かべ受け流すことしかできない。
オースティンとマルヴィナを見送ったリリアナは再び詩集に目を落とすが、集中できなかった。単語が言葉として頭に入らない。諦めて詩集を閉じようとしたところで、馴染んだ気配が近づいて来る。
「ごめん、待たせたね」
謝罪と共に姿を現したのはライリーだった。リリアナは安心させるように首を振る。
『大丈夫ですわ、殿下』
リリアナは、フォティア領の屋敷でライリーから受け取ったブレスレットを左腕に装着して答える。ライリーは嬉しそうににっこりと笑った。兄であるクライドの披露宴が終わってから既に何度か会ったが、とりわけ今日の王太子殿下は少し疲れているように見えた。
『お忙しゅうございますの?』
「いや――まぁ、うん。そうだね」
ライリーは答えるが歯切れが悪い。首を傾げるリリアナに手を差し伸べ、ライリーは茶会の準備が出来た椅子に座るよう促した。
「忙しいというほどでもないんだけど――貴方は公爵に聞いたかな」
リリアナは首を傾げる。ライリーは困ったように笑み、「公然の秘密だけどね」と告げてから国王の容体を口にする。
「一進一退が続いていたが、最近少し容体が悪化したんだ。医師と魔導士が掛かり切りだが、結果は思わしくない。ここ数日は起き上がることもできないほどだ」
魔導士――つまり、呪術が関わっている可能性をライリーたちは考慮しているということだ。国王に関われる魔導士であれば、国内でも最高峰の実力を誇る人物に違いない。それにも関わらず上手く解呪できないのであれば、それは最早人の所業ではないのではないか。
リリアナが気遣わし気な表情を見せれば、ライリーはリリアナの推測をほぼ肯定してみせた。
「その懸念が強まっている」
断言しないのは証拠がないからだ。ライリーの知性が滲んだ双眸が暗い光を湛えている。
『早くご快復なさっていただきたいですわ』
「ああ、私もそう願っているよ」
頷くライリーは「ありがとう」と僅かに頬を緩ませる。微笑を浮かべたリリアナは、慰めるようにテーブルの上に置かれたライリーの左手に手を添える。一瞬、手をピクリとさせて緊張したライリーだったが、すぐにふわりと笑った。『お茶が冷めてしまいますわね』と微笑んだリリアナはライリーの手から紅茶のカップに右手を移す。
(これまで明かさなかった内情を、なぜ今になってわたくしに明かすのかしら)
ライリーが紅茶に口を付けると同時に、リリアナもカップを口へ運ぶ。
――重なる心労により自制心が綻んだのか、それとも裏があるのか。
仮に何か裏があるのだとしても、その確証となるものはリリアナの手元にない。もう少し様子を見る必要がある。何か良い案はないかと会話の糸口を探していると、ライリーが視線を上げた。リリアナの背後に飛ばされた目線を辿れば、そこにはマルヴィナを送って行ったはずのオースティンが立っている。オースティンは食えない笑みを浮かべ、ライリーとリリアナに尋ねた。
「お邪魔しても?」
「嫌だと言っても、お前は気にしないだろう」
ライリーは憮然と答える。オースティンはにやりと笑ってリリアナを見た。