61. 王太子の帰還 3
リリアナ・アレクサンドラ・クラークは、解析した呪術の鼠の後片付けをしながら、小さく息を吐いた。今彼女の手元にある鼠は王宮に放っていたもので、大公派の動きを把握するためのものだ。
どうやら王宮は、リリアナが居た時よりも更に雰囲気が悪くなっているらしい。
国王ホレイシオと王太子ライリーが姿を晦まして時間が経過しているせいか、大公派貴族の中には既に二人がこの世にないものと考えている者もいるようだ。そして、共通の敵が居なくなれば人は次の敵を探す。外に“敵”が居るうちは良いものの、共通の外敵が居なくなればその矛先は仲間だった存在に向けられる。
「スコーン侯爵とグリード伯爵の対立が激しくなっているようですわね。噂ひとつで簡単に揺らぐなんて、人の心理とは面白いこと」
スコーン侯爵とグリード伯爵は元々折り合いが悪い。そのことを、派閥の者たちも敏感に察しているのだろう。グリード伯爵はともかくスコーン侯爵はグリード伯爵への嫌悪を隠そうともしないのだから、当然と言えば当然だった。
それでもこれまでは二人とも表面上はうまくやっていた。スコーン侯爵もグリード伯爵も、ある程度の距離を保って互いに相手を視界から排除していたようだ。
だが、ここ最近はそれもなくなってきた様子だ。スコーン侯爵は表立ってグリード伯爵を非難するようになり、グリード伯爵はスコーン侯爵ほど露骨ではないものの、スコーン侯爵の無能さを仲間内であげつらうことが増えて来た。
「メラーズ伯爵も苦労なさるわねえ」
気の毒がるどころか、面白がるような口調でリリアナは呟く。メラーズ伯爵がこれまでどうにか調和を保たせて来た大公派も、瓦解する時は近いのかもしれない。
他人事のように観察しているが、最初の火種を巻いたのは自分だとリリアナは自覚していた。王太子ライリーとネイビー男爵家の令嬢エミリアの恋物語を噂として撒いた時、思った以上に計画が上手く行った。そのことを覚えて、再び同じ罠を仕掛けたに過ぎない。そして案の定、使用人たちの間に広まった噂は貴族たちの耳にも入り、修復も不可能と思えるような亀裂を生みだしている。
「さっさと自滅してくだされば、わたくしとしても楽なのですけれど」
リリアナが覚えている乙女ゲームでは、大公派は台頭していなかった。そのため、ヒロインや攻略対象者たちは破魔の剣を得た後、王都に問題なく帰還できたのだ。しかし現実では大公派が王宮を占拠しており、乙女ゲーム通りの筋書きを進めるためには先に大公派を粛清しなければならない。
そこが、リリアナにとっては一番の問題だった。
些末事であれば乙女ゲームの知識がなくとも簡単に対処できるし、重大事項であっても乙女ゲームの知識を使って上手く事を運べる。しかし、乙女ゲームでは発生していない重大な事件が現実に起こってしまうと、先を見通すことは遥かに難しくなる。客観的に物事を見て冷静に駒を進めているつもりが、一気に真剣を喉元に突き付けられているような気持ちになるのだ。
大公派が王都に居るという事実は、リリアナにとってはまさに薄氷を踏むような現実だった。
「再び彼らが結託しては面倒ですから、一つずつ、対処していく方が宜しいでしょう」
今後の手を考えていたリリアナは、ぽつりと呟く。
現時点では決裂している大公派も、何かの切っ掛けがあれば簡単に手を組むに違いない。スコーン侯爵やグリード伯爵は互いに反目しているものの、自分の利となる事に関しては敏感だった。そうでなければ、メラーズ伯爵が声をかけたからと言って、大公派として名乗りを上げ王太子を追放するまで協力し続けることもなかっただろう。
「ウィルの生存に関しては、大公派の主要人物たちは疑っていませんわね。ただ末端貴族は疑っているようですから、このままいけば戦力の提供に遅れが出るに違いありません」
ライリーたちが帰国した後、ケニス騎士団やその他幾つかの領主を味方につけて王都に攻め入って来たと仮定する。その場合、大公派が動かせる戦力は王立騎士団と大公派貴族が有している軍である。だが、王都近郊の領主でなければ軍を派遣しても間に合わない。即ち、大公派が動かせる戦力には限界がある。そして、本来であれば大公派の内、王都に近い貴族たちは有事に備え、軍をすぐ動かせるよう態勢を整えているはずだ。
しかし、その貴族たちも徐々に疲弊を見せている。その矢先に、国王ホレイシオも王太子ライリーも既に死んだのではないかという噂が実しやかに囁かれ始めた。
元々、独立した騎士団や軍隊を持てる貴族はごくわずかだ。大半の領地では、農民たちを徴兵し有事に備えている。つまり騎士や兵士には耕すべき農地や狩るべき獲物、そして切るべき木々があり、いつ来るともしれない脅威に備え続けることは出来ない。そのようなことをしていれば、あっという間に食料が不足し民は飢えて死ぬ。
そして、リリアナの見立てではライリーの味方に付く貴族は皆、常備軍を有していた。ケニス辺境伯がその筆頭だ。
「確かウィルたちはケニス辺境伯領から国に入る予定でしたわね。そろそろかしら?」
リリアナは術を発動させ、宙に映像を投影する。広がる景色は深い森だ。しかし木々の隙間から時折太陽光が降り注ぎ、爽やかな雰囲気を感じさせている。
映像の方向を僅かに変えたリリアナは、笑みを深くした。そこには、目当ての人物が映っていた。
*****
オースティンとエミリアから怪しい気配はなかったとの報告を受けたライリーは、クライドやベラスタも伴い森を抜けることにした。深遠な森を抜ければそこはスリベグランディア王国の端、ケニス辺境伯領である。尤もケニス辺境伯やケニス騎士団が常駐している場所からは遠いが、ユナティアン皇国から自国に戻れるというだけで多少心は晴れやかだった。
「一応この近辺に大公派の間諜らしき影は見当たらなかったけど、警戒するに越したことはない――と、思う」
一行を先導しているオースティンがそう告げると、ライリーたちは一つ頷く。一番大公派の間諜が見張っている可能性が高いのは、ケニス辺境伯が滞在している屋敷だ。大公派も本当は全ての貴族に監視をつけてライリーたちの居場所を探りたいのだろうが、彼らもそれほど人員はない。そのため、ライリーが頼るだろう貴族に目星をつけて監視をつけているに違いない。
「そうだね。ケニス騎士団の一部隊が国境警備を請け負っているはずだから、彼らに接触してケニス辺境伯の元に行くのが一番確実ではないかと考えているんだ」
「部隊の人数を把握されていれば、すぐに気付かれてしまうのではありませんか」
ライリーの言葉にクライドが疑問を呈する。だが、ライリーは不敵な笑みを浮かべた。それを見たクライドとオースティンは目を瞬かせる。どうやらライリーには策があるらしいが、生憎二人には分からない。問うような視線を受けたライリーは、あっさりと肩を竦めた。
「つまり、人数が変わらなければ良いんだよ」
あっさりとした説明だが、オースティンもクライドもその本意を理解できない。一層胡乱な表情になるが、ライリーは間違いなく確信を持っている。ライリーはこのような場面で嘘を吐いたり冗談を言うような性質ではないから、本気だとは分かった。しかし、だからといって納得できるかと言えば決してそうではない。
クライドとオースティンとは別に、エミリアも不安そうな視線をライリーに向けている。一切不安を感じていない様子なのはライリーと、そしてベラスタの二人だった。
クライドはちらりと横目でベラスタを一瞥し、ライリーに尋ねる。
「人数が変わらないとはどういうことですか? 我々の姿を消すということでしょうか」
思いついたことを口にしながらも、クライド本人が自身の発言に懐疑的だ。ライリーは更に笑みを深めた。
「それはベラスタの魔術を使って、ということかな?」
「はい」
他に思いつかなかったのだろう、クライドはあっさりと肯定する。しかしそんなクライドに反応したのは、ライリーではなくベラスタ本人だった。驚いたように目を丸くしてクライドを凝視する。
「え、無理だぜ?」
「時を止める魔術は使えるのに、か?」
「あれは特別だって。何年もかけて研究して来た上に、実際に使ったらオレ気絶したじゃん。人間の姿を隠す魔術も結構大変なんだから、オレとあと一、二人ならともかく、この大人数と馬は隠すの無理だって」
ベラスタの言う通り、術を使う度に術者が気絶してしまうような魔術は危険でしかない。特にベラスタがコンラート・ヘルツベルク大公を足止めするために使った魔術は、実行すると魔力が枯渇してしまう。何度も術を発動させればその度に魔力が枯渇して寿命を縮めることになるだろう。そのような魔術は決して“正当な魔術”とは呼べない。犠牲が大きすぎる術は、これまでも全て禁術として封じられて来た。
そして人の姿を晦ます幻術も限界はある。ベラスタは魔術士としても優秀である上に魔力量も膨大だ。だが、敵がどこに居て何時こちらを監視しているのかも分からない状態で、護衛二人も含めた七人と馬七頭を隠すほど巨大な幻術を使い続けることは流石のベラスタでも不可能だった。特に間諜はある程度魔術に対する訓練も積んでいるはずだ。彼らの目を欺くとなると、非常に繊細な術式と魔力の行使が必要となる。
クライドが自分の言葉に懐疑的だったのも、その現実を正確に理解していたからだ。そしてライリーもまた、ベラスタに頼る気は一切なかった。はっきりと首を横に振る。
「ベラスタの魔術は稀有だから温存しておきたい。恐らく一度、ケニス騎士団の騎士には森の中にでも潜んで貰うことになるだろうけれど、姿を晦ますことに長けた人物がいるはずだ」
ライリーの言葉に、オースティンとクライドは瞠目する。
勿論、ライリーも詳しい話を聞いたわけではない。だが、ケニス辺境伯からの報告や王家の“影”から齎された情報、そして“北の移民”を誘拐した組織が妙に強く情報戦にも長けているという話を統合すれば、一つの可能性が脳裏に過った。
冷静に考えればあまりにも荒唐無稽で、にわかには信じられないような可能性だ。だが、ケニス辺境伯が“北の移民”を重用している事実は、ライリーの立てた仮説を裏付けているのではないかと思えた。
「それは――その魔術に特化した人物ということでしょうか」
戸惑いを隠しきれずにクライドが問う。オースティンもまた、本気で言っているのかと問いたそうな視線をライリーに向けている。しかし、ライリーも確信してはいるものの確証があるわけではない。
「さあ、そこまでは分からない。けれど、一つの可能性だよ」
ライリーは“内緒だよ”と囁くように、人差し指で口を押えてみせる。それを見たクライドとオースティンは、まだ問いたいことがある様子ではあったものの、口を噤んだ。ライリーには思うところがあるらしいと分かれば、それで十分といえば十分である。
気にはなるものの、実際にその時が来れば判明するのだろう。そう考えたのだが、その直後にオースティンが反応した。警戒心を露わにして足を止め、腰の剣に手をかける。
一瞬の後、エミリアと護衛二人も同じ方向に視線を定めて直ぐに戦えるように姿勢を整えた。そしてクライドもそれにならう。
本来戦闘要員ではないベラスタは他の者たちに庇われるような位置に立ち、そしてライリーは小さく首を傾げた。
「――ん?」
一瞬剣を手にしようとしたが、すぐにライリーは違和感を覚える。
王太子として刺客に度々命を狙われて来たライリーは、自分に向けられる殺意に敏い。そして同時に、自分が信頼できると思った相手の気配を察することは出来る。そして、オースティンたちが警戒している存在は、何となく覚えのある気配だった。
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