59. 帰還への道 10
ケニス辺境伯や息子ルシアン、エアルドレッド公爵ユリシーズが密会している頃、リリアナは王都近郊にある自分の屋敷で山のように積まれた書類を一枚ずつ確認していた。書類は全て本来提出されるはずだった法律ばかりで、どれもこれもが大公派にとって都合の良い内容ばかりだ。
「どれもこれも長期的な視野が欠けていること。大局を見られる貴族でしたらそもそも大公閣下を支持しようとは考えませんわね」
積まれている書類は全て、大公派が内部分裂した後に黙殺され続けた法律だった。
正直な話、噂を流したリリアナもここまで派閥が分裂するとは思っていなかった。だが、大公派の横暴に疲れているのか、文官も武官も常に神経を尖らせている。そんな王宮の雰囲気はここ最近殺気立っていた。正直、さっさと王宮を引き払って自分の屋敷に戻った自分の先見の明を褒め称えたいほどである。
「有益な法律が一つもないことが残念ですわねえ」
却下された法律に早急な対応が望まれるものが含まれていないことを幸いと言うべきか、それとも大量に提出された――そして握り潰された――法律が全て使い物にならないことに文官の質の低下を嘆くべきか、リリアナは大いに悩んだ。
「必須の事項に関してはどうにかメラーズ伯爵が回されているようですから、ウィルが戻って来て平定するまでは精々お仲間の後始末をして頂きましょう」
嘆息したリリアナは手にしていた書類を卓上に積んだ紙の山に戻し、軽く指を鳴らす。その瞬間、卓上に積みあがっていた書類は全て消えた。それぞれ本来あった場所に戻って行く。
「紙も安くはありませんのに――この短期間でどれほど国庫を削るおつもりかしらね」
冷たく呟いたリリアナは、立ち上がると書架から数冊の本を取り出し再びソファーに腰掛けた。
紙もペンも備品であるため文官たちはその貴重性を忘れてしまうのかもしれないが、どちらも大量に生産できるものではない。ひとつひとつも作るのにそれなりの手間と費用が掛かる。気軽に使い続ければいずれは消耗品代が国庫を圧迫しかねないのだが、騎士団の扱う武具よりも安いため失念してしまうのだろう。
「いずれにせよ、武官側と文官側で大まかに争っているようですし、王立騎士団と魔導省が結託する可能性が潰えたことは幸いでしたわ」
大公派が内部分裂したとはいっても、実際にはスコーン侯爵派とグリード伯爵派に分かれた、というのが正確だ。彼らの息子はそれぞれ王立騎士団と魔導省に居る。尤も魔導省長官となったソーン・グリードは、父親に対して面従腹背を貫いているから、魔導省が真の意味で王太子ライリーに牙を剥くことはないだろう。だが魔導省も一枚岩ではないから、一部の魔導士であろうと騎士団と手を組まれてしまえば厄介だ。
だが、今のリリアナは王宮で起こっている派閥争いにばかり構っている暇はなかった。
彼女は一冊目の本を開き、真剣な面持ちで読み始める。その書物は今リリアナが居る屋敷の図書室にあったものだ。数年前に読み終えているものばかりだが、改めてリリアナはその内の数冊に目を通していた。魔術に関するものもあるが、大部分は呪術に関わるものである。
幼い頃は、何故忌避されている呪術に関する書物が多く保管されているのか考えていなかった。だが父の野望を知った今になれば、その全てが父エイブラムの野望を果たすためのものだったのではないかと思う。
「こうしてみると、あの研究をしていた方はありとあらゆる知識を己の頭に刻み込み、深くまで理解していましたのね」
リリアナにとっての明確な敵ではないが、気分はまさに“敵ながら見事”と脱帽するほどだった。
詳しく読めば読むほど、隠し部屋に保管されていた様々な魔術と呪術に関する研究の記録は、膨大な知識の集大成だったことが分かる。基礎となる理論や術式は数冊の本で完結しておらず、膨大な書物に記された理論体系や術式を細分化し更に組み立てたものが大部分だった。
ほぼ間違いなく、クラーク公爵家が保有している蔵書はその研究のために長い年月をかけて父エイブラムが投資し、集められて来たに違いない。リリアナはそう確信していた。
そして今リリアナが調べているのは、記憶している研究の理論をその研究者と同等の水準まで、そして出来ることならばそれ以上に理解するための知識と知恵だった。
一冊目の本を途中まで読み終えたところで、リリアナは息を一つ吐くと顔を上げる。おもむろに本を閉じて卓上に戻すと、強張った体をほぐすように小さく体を動かした。
これまでは感覚で理解していた東方呪術の理論体系も、具体的かつ詳細な理論で分析しなければならない。これまでとは違う読み方をしなければならないため、リリアナは彼女にしては珍しく疲労を覚えていた。
「――ウィルたちは、今どうしているのかしら」
ぽつりとリリアナは呟く。ライリーたちがイーディス皇女一行と共にヴェルクを出た後、数日してスリベグランディア王国に向かい進路を変更したところまでは確認している。その時点で当初リリアナが想定していたよりも随分と帰国が遅れるだろうことは想像がついていた。
「ゲームの攻略対象者たちは自力でヴェルクを脱出していましたから、その点も随分と現実は外れていますわねえ」
名前は明記されていなかったものの、リリアナの記憶にある乙女ゲームでは恐らくイーディス皇女は死んでいた。それがローランドの心の傷となっていて、ヒロインであるエミリアに心を開く切っ掛けともなっていた。
だが、現実のイーディスは生きている。そのため現実が大きく変わったに違いない。ただし、生きていたとしてもイーディス皇女がライリーたちを助ける理由は今一つリリアナには分からなかった。
過去にスリベグランディア王国を訪れたイーディスは、ライリーと結婚したがっていた。もしかしたら今回もその一環なのかと一瞬脳裏を過るが、そう思った途端に苛とした感情が喉元をせり上がって来る。慌てて考えを振り切り、リリアナはイーディスの思惑を考えないように努めた。
思わず苦々しい息を吐く。
イーディスに限らず、エミリアもライリーを好きになっているのではないかと思うと、不快感ばかりが募る。その心境が体内に宿る闇の力に作用し、リリアナの状態を悪化させることは目に見えているため、リリアナは極力ライリーたちの様子を探らないように心がけていた。
リリアナは魔術を使って自由にライリーたちの様子を垣間見ることが出来るが、その時機は選べない。万が一ライリーとエミリアが愛を語らう場面を見てしまえば、自分が落ち着いていられる自信がなかった。そして深く考えないようにするため、リリアナは何故自分がそうなってしまうのか、その原因を探ってはいない。ただ不快感ばかりが募るということだけ認識していた。
「あまり気が乗りませんけれど、あまりにも遅いようでしたら先に大公派を処分してしまわなければ」
ライリーとエミリアの関係性を思えば少し憂鬱な気分になる。だが、嫌だとばかりも言っていられない。
リリアナは魔術で映像を組み立てる。空中に映し出されたのは、順調に街道を進み、本日の宿に到着するライリーたちの姿だった。
*****
イーディス皇女一行から別れたライリーたちの帰還への道のりは順調だった。往路とは違う道であり、通る人も往路よりは遥かに少ない。しかし途中には幾つか大きめの街もあり、その街では宿を取ることにしていた。
「もうそろそろ宿に到着しそうだな」
ライリーに声を掛けたのはオースティンだ。ちらりと友人を一瞥したライリーは、一つ頷く。
今日の道のりはこれまでと比べても多少、骨が折れた。移動距離が長く、山を越えなければならなかったのだ。それほど大きな山ではなかったものの、人が滅多に通らない山道は所々が崩落し、身の危険を感じることも多々あった。
本来であれば山を迂回できる麓の道を通るのだが、そちらは時間が掛かってしまう。相談した上で時間短縮を狙ったのだが、その分疲労は溜まった。一行の中で一番体力のないベラスタは既に馬上でうつらうつらとしている。
横目でベラスタのそんな様子を確認したライリーとオースティンは、顔を見合わせて小さく笑みを零した。
「山道を通ることになったのも、ベラスタが大丈夫だから馬に乗ると言ったからだけど」
「思ったよりも慣れるのが早かったな。少し冷や冷やすることもあったけどさ」
「うん、そうだね」
オースティンにライリーも同意する。
元々馬に乗り慣れていなかったベラスタも、今回の旅で随分と成長した。体力だけはまだ不十分なものの、普段から鍛えているオースティンやエミリア、そしてライリーに食らい付いて来れているのだから十分だ。
「そういえば、体力がある方が魔導士の能力も高くなると聞いたことがあるね」
「本当かよ?」
「多分、本当じゃないかな。確かに魔導省の魔導士よりも、魔導騎士たちの方が魔術の発現は安定している」
何気なく思い出したライリーの台詞に目を瞠ったオースティンだが、続けられた説明を聞いてすぐ納得したように頷いた。確かに魔導士と魔導騎士ではその体力に差があるし、魔導士よりも魔導騎士の方が長時間、安定して魔術を行使できる。それは偏に訓練のお陰だと思っていたが、基礎体力の違いもあるのかもしれなかった。
「じゃあ、ベラスタには極力体力を温存して貰った方が良いな。まだ追手は掛かっていないようだが、いつコンラート・ヘルツベルク大公が追いかけて来るか分からない」
「そうだね。これまでは私たちを自分の配下にしようと追って来ていたけれど、いつ破魔の剣がすり替わっていると気が付くかは分からない」
「まあ、気付いたところで犯人が俺たちだって気付かれるかは分からねえけどな」
ライリーの言葉に、オースティンは楽し気な声を返す。ライリーは「確かにね」と静かに同意を返した。
ただ、あの闇闘技場にヘルツベルク大公を出し抜けるほどの実力を持つ者はほぼ居なかった。そのため、剣をすり替えたと気付かれた時、大公がライリーたちと剣の紛失を結びつける可能性は非常に高い。そうなると色々と厄介だと、ライリーは自分の腰に提げた剣を一瞥した。
その動作に気が付いたオースティンが声を低める。
「――それにしても、まさか見た目が変わるとは思ってなかったぞ」
「ああ、破魔の剣?」
「そうだ」
オースティンは真顔で頷いた。
彼らがヘルツベルク大公から奪った破魔の剣は、どうやらその外見を変えるらしい。そう気が付いたのは、イーディス皇女たちと別れた後、ライリーたちに襲い掛かって来た野盗を撃退した後のことだった。
当初の剣は、柄は黄金で蒼い宝玉が埋め込まれ、鞘は金色の打紐で巻き上げられているという豪奢な代物だった。だが持ち手の感触が変わったと気が付いたライリーが改めて見れば、柄の黄金はそのままに、宝玉が増えていたのだ。元々埋め込まれていた蒼い宝玉の周囲に色とりどりの小さな宝玉が出現し、色鮮やかなきらめきを放っている。そして鞘にはライリーの適性である火の魔術を思わす緋色のがらが浮かび上がっていた。
歴史書も含めてどこにも記載がないため定かではないが、どうやら破魔の剣は使い手によって見目が変わるらしい。
「私も驚いたよ。恐らく、これのせいで剣の詳細はどこにも描かれず、そして居場所もはっきりとはしなかったんだろうね」
ライリーの手元に置かれた剣の姿が変わったのも、彼が何度か剣を使った後だった。持ち手がただ持っているだけでは意味がなく、剣を奮う時の魔力や何かしらに反応している可能性が高い。放置していればすべての飾りが消え、単なる古い剣に見えるようになるのかもしれない。
「でもお陰で、大公が剣を取り返しに来ても暫くはしらばっくれられるだろうから良かったよ。剣の見た目が変わることを彼が知っていたら面倒だけどね」
「それでも、別人が暫く使い続けないと見た目は変わらないんだから、その場で証明はできないだろ。それだけの時間があれば十分逃げられる」
オースティンの言葉に、ライリーは目を瞬かせた。オースティンは騎士らしく、敵前逃亡をあまり好まない。それを考えると、オースティンの台詞は珍しいものだった。
「逃げるなんて、君にしては珍しい」
「そうか? いや、まあそうか。でも今の最優先はとっとと帰国して大公派をぶっ潰すことだろう。他に関わってる暇はない」
「その通りだね」
楽し気にライリーは頬を綻ばせる。それを横で見たオースティンは、わずかに声を潜めた。
「この街を出たら、スリベグランディア王国はもう一歩ってところだ。国境を大公派が張ってる可能性もあるからな、慎重に行かないといけない。予定通り俺とエミリア嬢で偵察に行くから、お前は不用意に動くなよ」
「分かってるよ」
オースティンの言葉にライリーは頷くが、オースティンは疑わし気な視線になった。
「本当か? お前、フィンスタ・ベルクで生き生きと周りの奴らをぶん殴ってただろ」
「人聞きが悪いね。相手が襲い掛かって来るんだから、相手をしないわけにはいかないだろう」
「俺の目は誤魔化せないぞ、どれだけ付き合いがあると思ってるんだ。どう考えても鬱憤を晴らそうとしてた」
確信を持ったオースティンの言葉に、ライリーは肩を竦める。はっきりと答えなかったが、オースティンの指摘はあながち間違っても居なかった。
大公派に王宮を占拠され自分は隣国へと放り出される。そして婚約者リリアナの無実を信じるのはライリーとベラスタだけだった。長く共に過ごして居た幼馴染二人はリリアナを疑い、ライリーの言葉を否定する。
思っていた以上にライリーの心には鬱屈したものが溜まっていたらしく、闇闘技場で絡んで来るならず者を返り討ちにした時には少々胸のすく思いがした。ヘルツベルク大公との対戦も、追跡されて襲い掛かれた時も、面倒だという思いはあった。だがそれ以上に、思い切り戦うことで憂さ晴らしにもなった。
曖昧に笑って答えないライリーを見て、オースティンは楽し気な笑みを零す。
「昔からお前は“良い子”になりがちだったからな。俺と居る時は羽目を外してたけど最近はそれも減ってたし、気にはなってた」
王太子として育てられて来たライリーは、自分の権力と責務を十分に理解していた。その原因の一つは間違いなくライリーの祖父である先代国王だ。自分の影響力を理解し周囲を信頼してはならないと自らを律していた幼い王太子は、常に自分の感情や欲求を抑え込む癖がついていた。そして知らず、鬱屈した感情が溜まっていく。
しかし、オースティンと二人で“悪いこと”をするようになってからは、その鬱憤も適度に解消することが出来た。王太子らしからぬ錠前開けができるようになったことも、その一環だった。
とはいえ、年齢が上がるにつれて人目を盗んで羽目を外すこともなくなっている。代替的にオースティンとの手合わせで鬱憤を晴らしてはいたものの、大公派が力をつけて来たり、エミリアが王都に出て来てオースティンがその訓練に時間を取られるようになると、手合わせの時間も相対的に減っていく。
オースティンが言った通り、フィンスタ・ベルクの前よりも今の方が気分は晴れていた。そんなライリーを見て心配になったのか、オースティンは念を押す。
「でも、王国に戻ればお前は旗印だ。簡単に身柄も命も大公派にやるわけにはいかない。無茶はしないでくれよ」
「分かってるよ」
ライリーはあっさりと答える。本当か、とでも言いたげな視線がオースティンから向けられるが、ライリーは平然と前を見据えていた。
オースティンの指摘は尤もだ。ライリーも異論はない。だが、現実問題としてライリーの今の手勢は少ない。王国に戻ったとしても、味方を手に入れるまでは孤軍奮闘に近いものを強いられるだろう。そうなると、ライリーばかりが安全なところでぬくぬくと過ごすわけにもいかない。
勿論最初から仲間にばかり戦わせる気はなかったが、オースティンは今の時点では納得しなさそうだ。
近衛騎士になってから過保護になったねと、オースティン本人が聞けば心外だと怒りそうなことを思いながら、ライリーは手綱を操った。









