59. 帰還への道 4
チェノウェス侯爵家は歴史の闇に葬られた。今はまだ彼らのことを覚えている者もいるが、時が流れてしまえば歴史書の片隅にたった一行名前が残るだけになるだろう。
そして彼らは間違いなく謀反を企てていたのだと、生き残った貴族たちは信じていた。そうでなければ納得できないほど、チェノウェス侯爵領には武器がたんまりと保管されていたのだ。
「確かに彼らは王家の血筋です。しかしながら、その権力欲に飽かせて隣国に通じるとは、貴族の風上にも置けません」
「隣国と通じていたのですか」
リリアナはバーバラに問うた。それではメラーズ伯爵の言った、ホレイシオが隣国と通じていたという主張はまるきり逆だ。
しかしバーバラには確信があるらしく、平然と頷いてみせた。
「そうです。さすがに伏せられましたが、エイブラムは陛下にその実力を認められたため、特別に裏の事情も耳に入ったのですよ」
当然、チェノウェス侯爵家が隣国と通じていたという噂であれば話半分に聞くしかない。しかしチェノウェス侯爵家が隠し持っていた武器は大部分が皇国製であり、更にユナティアン皇国軍が使わなくなった武器も含まれていたという。何故武器が皇国軍のものだと分かったのかと言えば、答えは簡単だった。
「武器に、皇族の紋章が記されていたというのです」
あっさりとバーバラは種明かしをする。確かに、チェノウェス侯爵家が使っていた武器に皇国の紋章が記されていたのであれば言い逃れは出来ないだろう。しかし、果たして玉座簒奪を目論むような人間がそのような失態を犯すのか――そう考えると、リリアナは何か裏があるような気がしてならなかった。
何かを見逃しているのではないかと、リリアナは穏やかにバーバラの話を聞きながらも自分の記憶を探り続ける。
「それでしたら間違いなく、チェノウェス侯爵家に非がございますわね。そのことを証言できる方はどなたかいらっしゃいますでしょうか」
「そうね――エイブラムが生きていたら。サミュエルでも良かったけれど」
他には誰かいるかしら、とバーバラは考える。しかしリリアナは、思いもかけない人の名前を耳にして目を瞬かせた。
「サミュエル叔父様ですか?」
「そうですよ」
サミュエルはエイブラムの弟だ。今、リリアナが暮らしている王都近郊の屋敷の前の持ち主でもある。リリアナが物心つくより随分と前にサミュエルは亡くなったため、会話したことは勿論ない。顔は肖像画で知っているが、肖像画はたいていの場合美化して描かれているものである。
「叔父様は――あまり表に出ることを好まれないお方だったと、聞き及んでおりますが」
「ええ。サミュエルは大人しい子でした。エイブラムとは違い本を読むことを好む子で――小難しいことをエイブラムと良く話していたものです」
初めて聞く話に、リリアナは目を瞬かせた。サミュエルのことを話す時、バーバラの目元は優しさを滲ませる。厳格な印象しかなかったバーバラが、その時だけは母親の顔を覗かせるようだった。
「よくエイブラムとチェスもしていました。仲の良い兄弟で、サミュエルはエイブラムをとても慕っていましたよ」
そう告げたバーバラは、至極当然のことのように言葉を続ける。しかしその内容は、リリアナにとって驚くべきものだった。
「だからサミュエルが、エイブラムに下された陛下の密命を遂行する手助けをすることも当然の成り行きでした。エイブラムは優秀ですから、一人で色々なことを考え実行に移していました。ロドニー様に助言を貰うことよりも、二人で相談し決めたことの方が多いでしょう。サミュエルが亡くなるまで、エイブラムはサミュエルを自らの右腕として領地に留め置くことを考え、そしてサミュエルはエイブラムの力になることを望んでいたように思います」
しかし二人の願いは叶わなかった。サミュエルはあっさりと流行り病で命を落とし、帰らぬ人となった。
なるほど、とリリアナは納得する。
本来であれば、エイブラムは弟のサミュエルを巻き込んで自らの野望を実現するつもりだったのだろう。しかしサミュエルが亡くなってしまったため、他に腹心の部下が必要になった。そこへ偶然現れたのか、エッカルトだ。エッカルトが野心に満ちた人物だったのかどうかは分からないが、エイブラムは非常に口が上手い。エッカルトも気が付かぬうちに、口車に乗せられた可能性もある。
ただいずれにしても、フィリップと名乗る男がクラーク公爵家の執事になったのは、サミュエルが亡くなった後のことだった。
リリアナは荒唐無稽な内容も含めて幾つかの可能性を脳裏に描きながら、何気なく口を挟んだ。
「叔父様が亡くなられた後、フィリップが執事となってお父様の右腕となられたことは、不幸中の幸いだったのかもしれませんわね」
「そうですね。それまでは公爵家の人間を選ぶのはロドニー様の仕事でしたが。フィリップは初めてエイブラムが連れて来た子でした。時期が早ければロドニー様も許可はなされなかったでしょうが、エイブラムは既に陛下にその能力を認められた後でしたから」
だから、リリアナの祖父ロドニーはフィリップを執事として公爵邸に置くことを許可した。その時は既に、爵位を息子に譲ろうと考えていたのかもしれない。
「そうでしたのね。でしたら、フィリップは何か知っていますでしょうか。お祖母様は、フィリップにお会いになりました?」
「ええ、会いましたよ。といっても一年と半年ほど前になりますが。クライドと一緒に領地を回っているようでした」
「その時に何か申しておりましたか?」
リリアナの問いを聞いても、バーバラは不審に思わなかったらしい。静かに首を振って「いいえ」と答えた。
「あの時は忙しいようでしたよ。詳細に領地の地図を作るのだと言って、朝早くから夜遅くまで、村だけでなく森にも足を踏み入れていたようでした。それに、フィリップが公爵家に勤め始めた時には政変は終わって事後処理を残すばかりとなっていましたから、彼の記憶は証言としては認められないでしょう」
「――確かに、仰るとおりですわね」
バーバラの指摘に、リリアナは悄然としてみせる。普通に考えれば、バーバラの言う通りだ。だが、リリアナの内心はそれどころではなかった。寧ろ今すぐにでも行かねばならない場所がある。
エイブラムが仕事場として使っていた部屋は、隠し部屋も含めてすべてリリアナ自ら調査した。当初の目的は自分に掛けられた術の把握とエイブラムが何を企んでいたのか知ることだったが、その間に気に掛かった資料はほぼ目を通している。だが、その中に政変に関する記述は一切なかった。
魔王を復活させ自ら英雄となり、国の頂点に立つ――そんな荒唐無稽な計画に関する手記も研究結果も、全てエイブラムは遺していた。その彼が、先々代の国王に認められ地盤を築く切っ掛けとなった政変での計略を全く書き記していないというのは流石におかしい。
つまり、エイブラムが政変の時に何をしたのか記した紙は、まだリリアナが詳しく調べていない場所に残されているはずだった。
そして、ただ一つ――リリアナには、心当たりがある。
*****
スリベグランディア王国のとある深遠な森は、その日妙に騒めいていた。鳥たちは落ち着かず、野生動物たちは皆巣穴に籠っている。猟師たちはなかなか見つからない獲物に業を煮やし、そして樵たちはわめきたてる鳥たちに不安を覚えて早々に森を後にした。
だが、そのような周囲の喧騒にも一向にかまうことなく、その男は不機嫌な表情で木の枝に腰かけていた。
『――全く、予定と大幅に狂ってしまったではないですか』
口調も不機嫌を露わにしているが、少し離れた木の太い枝で寛いでいる黒獅子は一切気に止めない。寧ろ呆れた視線を翅を持つ男に向けた。
『予定だなんだというが、地上に来てからこの方予定通りに行った試しなどあるものか』
『それを言わないでください、腹立たしい』
腹立たしいと言い放たれた黒獅子は目を閉じて前足に顎を乗せる。それを視界の端に捉えた男は、眉間の皺を更に深くした。
『なにを平然としているのですか、アスタロス。このままでは、完全な形での復活はなりません。勿論力や記憶、感情が全て戻らなくとも敬愛する我らが魔王陛下に変わりはありませんが、それでは陛下の悲願は達成できないのですよ』
『だからといって、現状できることはないだろう。それに完全な復活を遂げたところで、悲願を達成できるかは分からん。お前だってそれは分かっているだろうが、ベルゼビュート』
アスタロスと呼ばれた黒獅子――アジュライトは、目を瞑ったまま冷たく言い放つ。ふんと鼻を鳴らして、彼は更に体を丸めた。
ベルゼビュートは苛立たし気に小さく舌打ちをする。その度に彼の美しく磨き上げられた翅は細かく振動して人には伝わらない音波を出し、野生動物たちは軒並み縮み上がった。
『完全体になるとならないのとでは、悲願を達成できる確率が変わってしまうというのです。そもそも本来でしたら、時が満ちれば自然と、こちらが用意した器に全ての力と記憶を戻すことが出来たというのに』
『それもあくまで可能性の話に過ぎないな。全てを制御し思い通りにしようなどと、陛下でさえ無理だったというのに』
アジュライトは喉の奥で笑う。しかし獅子の形ゆえに、その声は獰猛な唸り声にしか聞こえなかった。百獣の頂点に君臨する獣の姿であり、更に魔族に属するという性質故に、アジュライトの唸り声は周囲を恐怖へと突き落とす。しかしベルゼビュートもアジュライトと同じく、一切恐ろしいとは思わなかった。
『他人事のような言葉ですねぇ。それほどまでに、あの人間の小娘が気に入りましたか』
何度目か分からない台詞を、ベルゼビュートは口にする。再会した時も、ベルゼビュートは人間の娘と交流を持つアジュライトを馬鹿にした。
アジュライトは答えない。彼にとってリリアナは、掛け替えのない友人だった。
リリアナは数奇な運命に巻き込まれ、常人では考えられないほどの苦労を負っている。生まれた時から魔術と呪術に浸され、その一生を彼女の父の企みに利用されるなど、魔族であっても滅多にない悲惨さだった。それも、リリアナはただ利用されるだけではない。その最期は体が魔王の器となり殺されることが、ほぼ確定しているようなものだった。普通の娘であれば、自分が巻き込まれた運命に気が付くこともなく、只必死に毎日を生きて心を堕としていったに違いない。
彼女がその聡明さを持って足掻かなければ、既にその未来に到達していたかもしれない。しかし、リリアナは幸か不幸か、その意味でも普通ではなかった。闇の力に飲み込まれ魔力暴走を起こしそうになった時も、見事に抑え込んだ。リリアナの理性の力は、アジュライトでさえ驚嘆するほどだった。
だから、アジュライトは手を貸した。体内に巣食う、アジュライトには酷く馴染んだ力を彼女の体に馴染ませる。その時にリリアナの魂と体の関係を知ってしまったが、誰に他言する気もなかった。
本来、アジュライトやベルゼビュートのような魔に属する者は、人間とは関わらない。それが長らく彼らが護って来た不文律だった。
『どのみち、分散してしまった陛下の御力は全て一ヵ所に集める必要があるのです。せっかくこちらが用意している器があるのですから、そこに纏める必要がある。その時に、力を奪われた人間はたいていの場合、耐え切れずに魂と体が壊れます。そのことは分かっているのでしょう』
ベルゼビュートの発言は辛辣だったが、事実を述べていた。
リリアナの体内に宿った闇の力は、彼らの王レピドライトが本来持っていた力だ。勇者たちの手で封印された時、その力は王宮の地下迷宮に封じ込められた。
時が満ちれば自然とその力は本来のあるべき場所へ戻り、魔王は完全に復活する。
そう決められていたが、現実はそれよりも早かった。何者かの手によって封印は中途半端に破壊され、徐々に力が流れ出していく。
それでも、他に器がなければ魔王の力は魔族たちが用意した器に戻って行く。しかし、邪魔が入った。
『まさか器が複数存在することになるとは、当初は誰も想像し得ませんでしたが――魔王は、一人で十分なのです』
口を噤んだままのアジュライトに向けて、ベルゼビュートは言い募る。
魔王は一人で良い。そうでなければ、争いが起こる。そして魔王を一人にするためには、器は一つだけで良い。ただ他の器を壊すために、魔族は――ベルゼビュートやアジュライトは、特別な何かをする必要はない。他の器に宿った闇の力を抜き取り、本来の器に戻すだけ。
そうすることで、自然と他の器は壊れて使えなくなる。人の言葉で表現するのであれば、他の器は死を迎える。
『アスタロス。余計な情は己を苦しめると、以前も言ったでしょう』
ベルゼビュートは身動ぎひとつしないアジュライトに向かって、冷たく言い放った。アジュライトは小さく溜息を吐く。
その言葉は、まだ魔王が封印されるより前――遥か昔に、幾度となくベルゼビュートがアジュライトに告げて来た言葉だった。
『分かってる』
アジュライトはようやく、それだけを絞り出した。
リリアナが――あの少女が、自分に藍銅鉱と名付けた可愛らしい存在が、この世界から居なくなる。
『分かっているさ』
――ええ。瞳が、とても美しゅうございますわ。
そう告げた少女の言葉は、魔王レピドライトがアジュライトと初めて会った時に囁いた言葉と全く同じだった。その言葉を聞いた時、アジュライトはリリアナを己の友とすることに決めた。
だが、アジュライトにとってはレピドライト以上の存在はない。レピドライトが居るからこそ、今のアジュライトが居る。リリアナを守りたくても、二つに一つしか選べないのであれば、アジュライトはレピドライトを選ばなければならない。それが、魔族としての掟であり、アジュライトの生き方だった。
それでも、アジュライトは想う。願ってしまう。
――――二度とあの声を、目を、微笑みを。感じられないのであれば、それはどれほど切なく、寂しく、孤独なことだろうか、と。
16-4
42-4
43-1









