58. 未来への一手 5
ライリーとオルヴァーを引き合わせた後、ニクラス・パウマンが向かったのは皇女イーディスとコンラート・ヘルツベルク大公が面会している部屋だった。
護衛は置いているが、イーディスの下に仕えているどの護衛と比べてもニクラスの強さは抜きん出ている。正直なところ、本気を出したヘルツベルク大公と正面切って戦った時、彼に勝てるのはニクラスくらいだろうと考えている。そのため、やはり主の身が気がかりだった。特に今回、イーディスは大公の要望を拒否するつもりだ。イーディスを舐めている大公が激昂しないはずがない。
長い廊下を足早に歩きながら、ニクラスは薄く笑みを浮かべた。脳裏に浮かぶのは、扉を閉めた時のオースティンの驚愕に満ちた瞳だ。オースティン・エアルドレッドが王太子ライリーの近衛騎士であることは、既に把握している。しかし屋敷に来た時から、彼らの間に妙な距離があることにニクラスは気が付いていた。
「側近にあるまじき失態だな」
決して彼らの前では示さないが、ニクラスはオースティンを内心で嘲笑していた。主に仕える者として、主からの信頼を得られないのは側近や近衛騎士としては致命的だ。
ニクラスも若いが、オースティンたちは更に若い。恐らく若さ故に何かしら暴走しているのだろうと、ニクラスは見当を付けていた。
「他国の外交官との会談に護衛を連れて行かないなど、前代未聞だ」
普通であれば、外交官との会談には必ず側近を一人は連れて行く。それがないということは、外交官との会談で口にする内容――恐らくはライリーが考えている合意内容に、側近たちが同意しないと思われているということだ。
確かに、忠実な側近は必ず主君の発言に同意しなければならないというものではない。主が誤っていると思えば正す姿勢が求められている。しかし、それは全て信頼の上に成り立つものだった。
どれほど優れた主君でも、相手の言っていることが正しいかもしれないと思わなければ、聞く姿勢は示さない。つまり側近や近衛騎士は、いざという時に主の信頼を間違いなく得られるよう、常に真摯で居なければならなかった。特に自分の意見ばかりを主張し、主の意図を汲まないなど最悪だ。
一方、そのような側近しか持てないライリーの能力もそれほど高くないに違いない。当然人材が豊富ではないという可能性もあるが、王国の王太子ともなれば選び放題のはずだ。それにも関わらずあの程度の人材しか側に置けない、もしくは置かないというのであれば、やはり主である王太子の能力に問題があるとしか思えなかった。
だからこそ、ライリーが言い出した“オルヴァー・オーケセンと話をしたい”という要望に難色を示したのだ。しかし、イーディスは乗り気だった。主が前向きであるにも関わらず、ニクラスが拒否するわけにはいかない。イーディスの身に危険が迫ったとしても、全霊を賭して護れば良いだけだと思い直した。
「全く、我々は主を選べんが、主も下を選べないとなると――王国の未来は危ういか?」
ニクラスは決してオースティンたちを蔑ろにしたつもりはない。一度、主君に拒絶される理由を真剣に考えて自らを省みれば良いと、本気でそう思っていた。尤も、手段が妥当であるとは思っていない。しかし、ニクラスにしてみれば主の信頼を得ていない時点で側近たる資格はないとしか思えなかった。
「とはいえ、我らが皇女殿下は素直に過ぎる嫌いがあるが」
ニクラスは小さく呟く。
イーディスに仕える前、彼はローランドの配下だった。元々貴族でもなかった彼はその腕を見込んでローランドに雇われたのだが、実はニクラスの本領は武術ではなくその頭脳にあった。
ローランドはニクラスの優秀さを買っていたが、既に側近のドルミルが居る。ローランドは部下の注進に良く耳を傾ける人柄だったから、ニクラスは幾度となく正しいと思うことを主張した。ニクラスは自分が優秀であるという自負もあったし正論だという確信もあったが、その殆どをドルミルに却下された。ドルミルの発言は正しくはないかもしれないが、一番適切な選択ばかりだった。ローランドに掛け合っても、最終的には殆どの場合ドルミルの意見が採用される。不服な表情を浮かべるニクラスにローランドは「正しきことばかりが良いとは限らんのだ」と言っていたが、当時のニクラスには理解できなかった。
そしてローランドは、ニクラスに妹イーディスの元で働かないかと打診した。
『お前は優秀だが、俺の下であればどうしてもドルミルと衝突するだろう。お前の力を得られなくなることは惜しいが、お前が優秀だからこそ、イーディスの役に立って欲しい』
その頃、ニクラスはイーディスのことを良く知らなかった。耳にしていた噂は、彼女が皇帝が一番かわいがっている子供であること、そしてふわふわとして周囲に影響されやすい少女であること、その二つだった。
だが、それならば尚更やりがいがあるに違いない。
自分で考える力がないというのであれば、ニクラスは好きなように活動できる。そう思ってイーディスと会ったニクラスは、良い意味で予想を裏切られることとなった。
『まあ、あなたがニクラス?』
初対面の皇女は、にこやかにニクラスを出迎えてくれた。そして嬉しそうに、彼女は煌めく瞳でニクラスを見上げたのだった。
『貴方、とても頭の良い人だとお兄様から聞いているわ。色々教えて頂戴ね』
言葉通り、イーディスは多岐に渡ってニクラスに問いを投げかけた。日々勉強していることに限らず、会話に出て来た知らないことや気になることも逐一ニクラスに問いかける。その中にはニクラス自身思いも寄らないことも含まれていて、単なる“仕えるべき相手”が“敬愛する相手”となるのに時間は掛からなかった。
今となっては、イーディス以外の者に仕えることなど考えられない。ほんの僅かな時間で、ニクラスは変わった。時折会うローランドもそれは感じているようで、狂犬が忠犬になったと笑われた思い出もある。
もしかしたらイーディスに仕えるよりも前、ローランドの下で働いていた頃の自分と、今のオースティンを重ねてしまったのかもしれない。
ニクラスは自嘲を浮かべ小さく首を振る。ドルミルに知られたらまだまだ若造だと笑われるに違いない。
そしてようやく、ニクラスはイーディスたちの居る部屋に辿り着いた。ライリーとヘルツベルク大公が鉢合わせるのを避けるため、敢えて離れた部屋に案内したせいで時間が掛かる。
気を取り直したニクラスは、扉を叩いてそっと室内に身を滑り込ませた。まだ大公もイーディスも落ち着いた様子でソファーに腰掛けているが、緊迫した雰囲気は隠しようがない。イーディスの護衛二人は、今すぐにでも剣を抜いて主を守れるよう身構えていた。
「イーディス、隠し立てをしたら為にならんぞ」
「隠し立て? 何を隠すと仰いますの?」
イーディスはころころと笑う。以前は自分の感情を隠すことが苦手な少女だったが、今や大公相手にも動じず平静を保っているのだから、成長が著しい。尤もその裏にはイーディスの弛まぬ努力があると、ニクラスは知っていた。
「私が探している連中だ。うち二人は闇闘技場に戦士として出ていた。闇闘技場に騎士隊が乱入したと知っているか? 闇闘技場の主催者は勿論、出場していた戦士も皆捕えられた。例外は許されん。二人を引き渡せ。その二人を庇っている仲間も同罪だ」
法を破る気かと、大公は言い募る。なるほど考えたものだと、ニクラスは内心で感心した。
イーディスとニクラスが事前に情報を掴んでいなければ、そしてヘルツベルク大公が探し求めている相手が隣国の王太子であると知っていなければ、一も二もなく協力を申し出ざるを得ない主張だ。
しかし何度も同じ言葉を聞いていたらしいイーディスは、多少呆れた様子で「ですから」と肩を竦めた。
「そのような方がいらしたとして、私がどのように行方を知るというのです? 勿論、見かけた場合はヴェルク領主に連絡しますわ。でも実際、まだ見つけていない状態で、どのように伝えれば良いというのかしら?」
「この屋敷に匿っているのではないのか?」
平然とイーディスの言葉を鼻で笑い飛ばしたヘルツベルク大公は、意味深な表情でぐるりと部屋中を見渡した。
「ここから気配がしたと、私の部下が言っていてな」
「あら、この屋敷から? それは妙ですわ」
イーディスも負けじと首を傾げる。この屋敷には自分たち以外誰も居ないのだからと訴えるイーディスの表情に、嘘は見えない。長い時間側にいるニクラスでも、見抜けない態度だった。
更にイーディスは言葉を続ける。
「その方が、お間違えになったのではなくて?」
「本当にそう思うか?」
意味深な言葉に、ニクラスは眉根を寄せる。イーディスの双眸にも一瞬動揺が走ったが、大公が気が付くよりも早く見事に押し隠した。
「ええ、そう思いますわ。だって私、そのような方々とは会ったこともございませんもの」
その台詞に、ようやくニクラスは理解した。イーディスは元々素直な性質だ。思ったことが直ぐに表情や態度に現われる。最近はブロムベルク公爵夫人ヘンリエッタの教育のお陰でだいぶ取り繕えるようになってきたものの、嘘は苦手だ。
だから、ニクラスはそのイーディスが大公相手に疑いを持たせることなく言い逃れている現状に違和感があった。大公は武闘派だが、それなりに経験は積んでいるため相手が嘘を吐いているかどうかも推察できる。大公の前では、イーディスの処世術など児戯に等しい。
それにも関わらず、ヘルツベルク大公は未だにイーディスの言葉が嘘か本当か、確信できないでいるようだった。恐らく、イーディスの言っていることが嘘には見えないが、仲間から告げられた情報も無下には出来ないと言ったところだろう。
だが、それも当然だった。イーディスは何一つ嘘を吐いていない。
イーディスにとっては、隣国の王太子とその護衛や側近を自宅に招いただけであり、闇闘技場に出場している罪人を匿っているわけではないのだ。
思わずニクラスは笑いそうになったが、せっかくのイーディスの奮闘を無駄にするわけにはいかない。辛うじて笑いを飲み込み、視線を大公に向ける。
どうやら大公も、ようやくイーディスの言葉を信じる気になったようだ。不機嫌になりながらも、考えるように目を細める。
「――そうか。だが、誰も気が付かないうちにこの屋敷に潜んでいる可能性もある。念のため警邏隊に調査させるが、それでも?」
言葉の違和感に、ニクラスの眉がぴくりと動く。イーディスは気付いただろうかと視線を向けると、イーディスは目を瞬かせていた。形の良い頭の中で必死に考えているのだろうと、ニクラスは思う。しかしイーディスとそれほど親しくない大公には分からないはずだ。
それほど長くない沈黙の後、イーディスは「まあ」と声を立てて笑った。
「闇闘技場の者たちを捕縛なさったのは騎士隊の方々でしょう? 警邏隊とは地位も立場も違うではありませんか。こういった場合、他の隊の方々にお任せするより、一つの隊に任せた方が上手く行くと聞きます。騎士隊はヴェルク領主直轄ですし、騎士隊が逃すような者を警邏隊が捕えられるとは思えません。ぜひ、騎士隊の皆さまをお連れくださいまし」
ニクラスは今度こそ、わずかに口角を上げた。彼が立っている場所を考えれば、大公は気が付かないはずだ。
イーディスの指摘は的を射ていた。大公は、闇闘技場の検挙に携わったのは騎士隊と言っておきながら、イーディスの屋敷を調査するのは警邏隊だと言ってのけた。騎士隊と警邏隊は所属も立場も地位も違う。仮に大公の思惑とは無関係に警邏隊がライリーたちの身柄を捕獲したとして、騎士隊に素直に引き渡すとは思えない。そして騎士隊は自分たちの知らないところで警邏隊が勝手に動いたことに腹を立てるだろう。
勿論、大公としては全く違う思惑があったはずだ。騎士隊はローランド皇子がけしかけた相手であり、闇闘技場を本気で潰そうとしていた。だが、その騎士隊が出場者を見つけたら処罰の対象となる。どのような罪状になるかはまだ分からないが、騎士隊がライリーたちを捕まえてしまえば二度と大公は彼らを手に入れられない。
だから、ヘルツベルク大公は騎士隊がライリーたちを捕まえるより先に、警邏隊と自らの配下を使ってその身柄を捕獲しようとした。
とはいえ、大公はイーディスに嘘を吐いた。そして簡単に誤魔化せると思われたイーディスは、大公の発言の矛盾に気が付いたのだ。
誇らしい気分でいるニクラスとは裏腹に、大公は苦虫を嚙み潰したような表情を一瞬浮かべた。しかしすぐに余裕のある様子を取り戻し「そうか」と頷いた。
「分かった。それならば手配しよう」
「ええ、お待ちしておりますわ」
イーディスはにこやかに答える。その言葉を最後に、彼らの会談は終わった。ニクラスは一足先に部屋を出て、オルヴァー・オーケセンを呼びに急いだ。
「それならば、ここでこうしている時間も勿体ないな。早速動こう」
挑発するようにそう告げて、大公は「失礼する」と立ち上がる。イーディスはその後ろ姿を見送った。
*****
玄関に向かったヘルツベルク大公とオルヴァー・オーケセンが合流した時、ニクラスは二人の背後に居た。執事がこっそりとニクラスに耳打ちする。
「屋敷の周りに居た鼠は処理しました」
「分かった」
屋敷の周囲に、大公の部下と警邏隊が待機しているとの報告は早い段階で上がっていた。そしてニクラスの指示を待つまでもなく、執事は屋敷の使用人に命じて偽の知らせを走らせた。
つまり警邏隊が必要となる騒ぎが、イーディスの屋敷とは真反対の場所で起こったという知らせだ。その知らせ自体は全くの嘘だが、肝要なのはこの場から警邏隊を引き離すことだった。
残ったのは大公の配下ばかりだったが、彼らは警邏隊よりも個人の能力が高い。人数だけは少ないが、正面切って戦った場合こちらの被害も甚大になる。
そのため、執事は一計を案じた。風上に立って、意識が鈍くなる薬品を風に乗せて散らばせたのだ。その結果、大公の配下は起きてはいるものの、酩酊状態に近くなった。完全に酩酊してしまえば怪しまれるため、薬の量は調節している。何も知らなければ、動きが鈍いとしか思わないだろう。
ニクラスは後で使用人たちに褒美を取らせることにして、意識を大公とオルヴァー・オーケセンに向けた。声を潜めているため二人の声は聞こえないが、唇の動きから何を話しているのか推測する。
『居たか?』
『いいえ、どうやらこの屋敷ではないようです。恐らく近場ではないかと』
『そうか。くそっ、忌々しい奴らだ』
オルヴァー・オーケセンの返答を認識したニクラスは内心で安堵した。どうやら隣国の王太子は上手くやったらしい。これでイーディスの身に危険が迫る確率は格段に減った。恐らく大公の配下たちや騎士隊がこの屋敷に押し入ることもないだろう。
ニクラス・パウマンは、自分よりも若い隣国の王太子を初めて賞賛する気になった。









