8. 都鄙の難 7
――なんだ、無事だったのか――――――。
リリアナの形の良い頭の中から、最後に見た父親の言葉はなかなか去って行かなかった。
公爵に可愛がられていないことも愛情を感じないことも事実だったが、害意があるとまでは思っていなかった。もしリリアナが心配だったのなら、「なんだ」という枕詞が付くはずがない。「死んでいなかったのか」と言われなかっただけ良かったのかもしれないが、そこに大きな差はない。
馬車のスピードが落ちる。どうやら次の街に近づいたらしい。下ろしたカーテンの隙間から外を眺めると、森ばかり広がっていた景色が開け、人家が畑の中に点在していた。最初の街でペトラが雇ったという傭兵二人は御者台に座っているから姿は見えない。しかし、リリアナの記憶が確かであれば最後にリリアナが魔物を倒した場所に居たはずだ。マリアンヌとペトラの話を統合して考えれば、魔力を使い果たし倒れたリリアナの幻術が解け、二人の前で姿を現してしまったということだろう。しかし、マリアンヌはリリアナが最高位の光魔術を使ったことを全く口にしていない。傭兵二人が気が付いていないか、もしくは彼らが口を噤んでいるか――どちらかは分からないが、幸いにもまだリリアナが魔術を使える事実は広まっていないはずだ。
(――とりあえず、今わたくしが考えるべきことはお父様のことですわ)
頭の中を駆け巡る最後の台詞は、どうしても父親に対する警戒心を呼び起こす。完全な敵ではないだろうが、味方でもない存在――というのが、今のリリアナから見た公爵の姿だった。それを考えると、失った護衛二人の補充を父親に頼むのは良い気分ではない。
(わたくしを狙ったあの賊は、誰の手の者だったのかしら)
脳裏に過る、およそ半年前の出来事。声を失い初めて王宮を訪れた帰り道、リリアナが乗った馬車を無頼漢が襲った。リリアナも魔術を使い抵抗したものの、確かにあの時は父親が手配した護衛二人が善戦しリリアナを護ってくれた。
――――だが。
(結局、わたくしが生かして捕えた賊は獄中で自死してしまった)
尋問に携わったのは護衛二人だった。果たして、捕えた時に毒物を仕込んでいないか確認しなかったと断言はできない。
刺客を差し向ける理由が、暗殺にあるとは限らないのだ。警告や見せしめ、脅迫も考えられる。
自分の身の破滅が確定しているゲームのシナリオを回避しようと考えていたが、それだけに捉われて他を疎かにしてしまい、挙句死んでしまっては元も子もない。
リリアナはそっと唇を噛む。意識を御者台に座っているだろう二人の傭兵に向ける。
運もあったのかもしれない。だが、その二人は確かに魔物を相手に最後まで立ち戦い続けていた。父が手配した二人の護衛は早々に死んだにも関わらず、二人は生きていた。教会に集った生存者たちを見ても、魔物を相手に戦い続けたらしき傭兵や戦士はかなり少なかった。非戦闘員を守り戦う中で命を落とした者がほとんどだったに違いない。
幸いにも、リリアナが暮らしている屋敷には家政を担う人物がいない。屋敷に雇う人員を管理する執事と侍女頭はいるが、声を失ってからのリリアナの態度が軟化しているせいか、ある程度はリリアナの要望も聞き入れてくれる。新たに傭兵二人を護衛として雇うとリリアナが決めれば、存外スムーズに了承されるのではないかという打算が働く。何かあったとしても、傭兵であれば期間が切れたら屋敷を立ち去ることになる。
(勿論、お二方の意志も考慮せねばなりませんが――口説き落とす必要がございますわね)
方向性が決まれば後は容易い。傭兵は金があれば動く。貴族を毛嫌いする傭兵も多いし、特に今回雇った傭兵の内、ジルドと名乗った男は極力貴族と関わりを持ちたくなさそうだった。だが、結局はリリアナに雇われるまま護衛の任に就いている。長期には無理でも、金さえ惜しまなければ雇えるはずだ。
「お嬢様、街につきますわ」
ほっとしたようなマリアンヌの声がリリアナの耳に響く。マリアンヌは魔物襲撃の恐怖を忘れられないせいか、時折涙ぐんでいた。だが、平穏な街が見えたことで多少心が落ち着いたらしい。そして何より、彼女は敬愛なる幼い主人の体調に不安を煽られていたようだった。リリアナはわずかに青白い顔で微笑むと、悠然と頷いてみせた。
*****
ジルドとオルガの二人は手持ちの金がほとんどないと確認したリリアナは、個人的な買い物に入用だろうと幾ばくかの金銭を渡すことにした。最初の街で魔物襲撃に遭ったためリリアナたちの荷物は半減していたものの、残された馬車から調達できた物もある。貴重品だけは身に着けておいて幸運だった。マリアンヌは納得しきれていない様子だったが、リリアナもマリアンヌも個人的な買い物はほとんどしない。特にリリアナの場合は請求を屋敷に回して貰えば良いだけだから、気楽なものだ。
「食事に関しては、基本的にお嬢様と同じ料亭でお召し上がりいただきます。主人とあなた方で食べる部屋に違いはございますが、護衛ということでご承知ください。費用に関してはこちらで持ちますので、支払いは不要です」
「承知しました」
マリアンヌの説明に頷いたのはオルガだった。ジルドは不機嫌なまま何の反応も示さない。マリアンヌは不快そうにジルドを一瞥したが、他に護衛を担ってくれる相手がいないことは承知しているようだ。この街で別の護衛を探しても良いが、その判断はリリアナがするべきものである。マリアンヌに采配はできない。だから、ここは一時と割り切って苦情は申し立てないことにしたようだった。つまり、見て見ぬふりである。
一旦、宿に荷物を置いて一息つく。幸いにもこの街の治安は比較的良い。大通りだけで言えば護衛の必要もなかった。
夕食までの時間は自由時間として護衛二人には街への散策を許し、リリアナはペトラとマリアンヌを伴って街の中を見て回ることにした。ペトラは一つ目の街で購入した土産が全て駄目になってしまったと不服そうだった。確かに、あの街で売られていた猪の肉は他の街では手に入らない。
「瘴気に中てられた食べ物なんて、食べられたもんじゃないけどさァ」
食い物の恨みは恐ろしいんだぞと口を尖らせる様子は、その性格さえ知らなければ色っぽく映る。現に、すれ違う男たちは一瞬ペトラの顔に魅入られていた。その実、リリアナに対してはその可憐さ故に老若男女問わず目を瞠っていたのだが、知らぬは本人ばかりなり、である。
リリアナとマリアンヌは手分けして、嵩張らずそれほど高価ではない土産を屋敷の者たちのために買い求める。従僕や侍女たちだけでなく、料理人や馬丁を含めてもそれほど大人数にならないことが救いだ。もしあまりにも人数が多ければ、土産を買おうという気にすらならない。金銭の問題ではなく、単に荷物が嵩張るからではあるが――そもそも一般の貴族は使用人に土産を買おうという発想にならないのだが、リリアナは気にしていなかった。人心掌握のためにできることはすべきである。
「お嬢様、私はあちらで買い求めて参ります」
しばらくお待ちください、とマリアンヌが少し離れた商店に立ち寄る。その店は布製品を扱っていて、年若い侍女たちに好まれそうなショールやハンカチーフが所狭しと売られていた。
ペトラは呆れを滲ませた目でリリアナを見下ろした。
「本当、よくやるよねぇ」
『――そうかしら?』
周りに会話を聞いている人がいないため、リリアナは念話で答えた。ペトラは「そうだよ」と頷く。
「屋敷の使用人、全員分のお土産でしょ? そんな話、聞いたことないよ」
『いつも世話になっておりますから』
「そういう発想が既にお貴族様じゃない」
リリアナは苦笑を禁じ得ない。なぜ土産を全員分購入するのか、本当の理由を知ればペトラはリリアナから離れていくのではないだろうかと思う。いつも世話になっているから、などという殊勝な理由ではない。父親の手の者が紛れ込んでいるのであれば、懐柔できないかと考えるからだ。
(フィリップのようなタイプでしたら、懐柔など無理な話ですけれど――あのような者は、わたくしの屋敷にはおりませんから)
上手くすれば、自分の手の内に取り込めるはずだ。多少の金で、一時であれ忠誠が買えるのであれば安いものである。
ペトラは笑みを収め、「ところでさ」と口調を変えた。
「あんた、護衛はどうすんの? 二人死んで、とりあえず屋敷までは傭兵二人で凌げるだろうけど――父親に頼むワケ?」
『――もし、ジルドとオルガさえ嫌でなければ、あの二人を継続して雇いたいと考えていたところです』
「ふうん。女の方はともかく、男の方は難しそうだけどね。勝算は?」
『正直、難しそうですわね。今回も、金策さえ立てられたらわたくしの護衛はしたくなさそうでしたし』
恐らくは貴族という存在そのものが、ジルドにとって鬼門なのだろう。声が出れば距離を詰めることもできただろうが、あいにくと今のリリアナには難しい。ペトラと違い、念話を使って話し掛けたところで警戒心を更に強めるだけだろう。
困ったものだとリリアナが嘆息していると、ペトラがふと何かに気が付いたように顔を上げた。
「あ、あれ美味しそう」
ペトラが見つけたのは、商店の軒先にぶらさがった肉の燻製だった。堪らんとばかりに小走りに店へ駆け込む。
(――あら?)
ふと、残されたリリアナは人混みの中に妙な気配を感じて立ち止まった。ちり、と首筋が粟立つ感覚は久し振りだ。前回は、王宮から屋敷に戻る際の馬車の中だった。
振り返るが、そこには変わらず人通りがあるだけで、おかしなことはない。気のせいかと前を向き、少し離れた場所に居るペトラとマリアンヌに近づこうとした時、黒いローブを纏った男とすれ違った。リリアナの肩が男にぶつかる。転びそうになったところで、リリアナの体は後ろから抱き留められた。
「失礼」
「待てやこの野郎」
低く謝罪したローブの男に唸るような声が答える。瞠目したリリアナが見上げると、そこにはジルドがいた。不機嫌な顔はそのままに、ローブの男を睨みつけている。険悪な空気に、リリアナはわずかに眉根を寄せた。ジルドのことは良く知らない。万が一にでも相手を斬り捨てるようでは困る。黒いローブの男は、まだ何もしていないのだ。
どうするべきかと逡巡しているリリアナの前で、黒いローブの男は更に頭を深く下げた。
「申し訳ない」
再度謝って、そそくさとその場から立ち去る。異様な雰囲気に足を止めていた往来の人々も、すぐに興味が失せたようで再び歩き始めた。
ジルドは暫く肩越しに、雑踏へと姿を消したロープの男を睨みつけている。
「お嬢様!」
ようやく買い物が終わったのか、慌てた様子でマリアンヌが走り寄ってきた。ジルドは眉間の皺を深め、じろりと侍女を見下ろす。
「主を置いていくなんざ、使用人の風上にも置けねェ女だな、使えねェ。どんな教育されてやがる」
公爵家には碌な使用人がいねェのか、と嘲笑する言葉を聞いたマリアンヌは真っ赤になった。リリアナは困ったように二人を見比べるしかない。声が出ればマリアンヌを庇えたが、生憎と叶わぬ夢だ。
マリアンヌもまだ年若い侍女だ。完璧を求めるのも酷だろう。リリアナとしては責める気もなかったが、マリアンヌはただ恐縮するばかりである。
「それならさぁ」
気まずい沈黙を打ち破ったのは、能天気にも聞こえる女の声だった。顔を向ければ、たんまりと土産を買ったペトラが楽しそうにジルドを眺めている。ジルドは「なんだよ」と顎を引いた。ペトラのようなタイプはあまり得意ではないのか、警戒する要素があるのか、ジルドの両眼は鋭い。
一般人であれば失神するほどの眼光を平然と受け止め、ペトラはにんまりと笑った。
「あんたが教育したら? 期間は――どれくらいでモノになるか知らないけど、一年くらい? もちろん公爵家だから謝礼は弾むだろうし、ついでに屋敷の護衛もすれば良いじゃん」
「あァ?」
ねえ、とペトラがリリアナを見れば、ペトラの意を汲んだリリアナは満面の笑みで頷いた。ここでジルドを勧誘する予定ではなかったし、機も熟していない感は否めないが、折角の機会だ。
「ふっざけ――」
「屋敷にはそこのお嬢サマしかいないしさ、護衛もさっきの街で死んだ二人だけ、衣食住が一年確保されるって考えたら最高な仕事だと思うけど? うるさいことは言われないし好き勝手できるし、最高の職場でしょ。前の街での魔物襲撃で財産なんて殆どないんじゃない?」
「んな、」
ジルドは絶句する。
リリアナは何故そこまで詳細に屋敷の内情を知っているのか――と一瞬考え、そういえばフォティア領の屋敷に行く道すがら、夜にペトラの部屋で雑談をする際に酒の肴に零したことを思い出した。聞き流しているように見えたペトラだが、しっかりと内容は頭に入っていたらしい。ちらりとマリアンヌを見れば、真っ赤な顔で俯いたまま、ペトラの台詞を聞き咎める様子はない。
そして、ペトラに対するジルドは勢いに押されていた。それでもどうにか態勢を立て直し言い返そうとしたジルドだが、その隙に背後から低めの女の声がする。
「良い話だな。その話は私も受けて構わないのか?」
振り返れば、そこに立つのは男装の傭兵オルガだった。ペトラはにやにやと笑いを隠さずに頷く。
「勿論さ」
「それなら引き受けよう」
「オルガてめェ裏切りやがったな!」
歯噛みするジルドに、オルガは涼しい目を向ける。
「別に私とお前はパーティを組んでいるわけではないだろう。好きにすれば良い」
「てめェ――」
ジルドは今すぐにでもオルガを叩き斬りたいと言わんばかりだったが、オルガが気に留めた様子はない。飄々としている。ペトラは再度ジルドに目を向けた。
「あんたも、屋敷に到着するまで時間はたぁっぷり残ってるからね。その間に考えときなよ」
良い返事を期待してるよ、と告げて、ペトラは踵を返す。その後ろに続いて、リリアナたちも歩き出す。最後尾を歩くジルドは恨めし気な視線をオルガに向け、他には聞こえないよう声を潜めた。
「――――どういう風の吹き回しだ」
「良い仕事だろうが」
「それはそうだがよ」
あっけらかんとしたオルガとは対照的に、ジルドは不機嫌さを更に深める。だが、その顔にはわずかに気遣いが滲んでいた。目ざとく気付いたオルガは口角だけを上げる。
「さっきの、黒いローブの男。お前も気が付いたんだろう」
「――だから、だ」
ジルドは憮然と答える。
「この件は、関わると碌なことがねェぞ」
「後悔はしないと、決めたんだ」
低いオルガの声は静謐で、しかし反論さえ許さない力強さに満ちていた。