56. フィンスタ・ヴェルク 2
ローランドが渡してくれたコンラート・ヘルツベルク大公の屋敷内の見取り図を脳裏に思い浮かべながら、事前に打ち合わせた通り、ライリーとオースティンは足を進める。
「人の気配はない」
廊下の突き当りに辿り着き他の廊下と交差するところで、先に様子を窺ったオースティンがライリーに耳打ちした。館内もしっかりと主人やその家族、客人の歩く場所と、使用人たちが出入りできる区画に分けられている。表立った廊下は窓があり中庭を眺めることが出来るし、装飾も豪華絢爛だ。だが、使用人たちの歩く廊下は部屋を挟んだ反対側にあり、窓は全くない。消灯されほとんどの蝋燭が消されている今、自身の指先さえ見えない闇だった。
しかし、オースティンもライリーも昼間に日の下を歩いている時のように危なげのない足取りだ。それも当然で、二人は身体強化の術を使い視力を含めた五感を強化している。
身体強化をしたところで完全な暗闇であれば見えるわけはない。だが、ごくまれに漏れ出ている光や灯されている蝋燭の火があれば、二人には十分だった。
クライドやベラスタ、そしてエミリアは身体強化の術は使えない。そのため、深夜に館に侵入するのであればライリーとオースティンの二人が適任だった。
「表を歩くより、裏を歩いた方が見つかりにくいが――件の部屋に入るには、一度表に出て大公の私室を通らないといけないのが面倒だな」
「まあね。他に手がありそうなら計画を変更しよう」
オースティンの言葉にライリーも同意する。普通にしていれば全く聞こえない吐息だけの会話だが、これもまた強化された聴力であれば簡単に拾える。ただ問題は、感覚を鋭敏にすることで疲労は普段よりも格段に早く溜まることだった。
しかしオースティンとライリーは気に止める様子もなく、更に足を進める。何を思ったか、オースティンが小さく笑みを零した。
「どうした?」
ライリーが尋ねると、オースティンは「いや」と一瞬口籠る。しかしすぐに、一瞬だけ視線を後ろのライリーに向けた。
「ガキの頃を思い出してた」
「子供の頃?」
「ああ、俺の領地に遊びに来た時――名目は一応、視察だったけど、その時も世話役の目を潜り抜けて二人で夜中に遊び回っただろ」
オースティンが口にした思い出話に、ライリーは思わず破顔した。
「あれは楽しかったな」
「俺も楽しかった。あの時にお前の錠前開けの腕前が磨かれたんだ」
その当時、まだ幼かったライリーとオースティンは冒険心だけは人一倍強かった。特にライリーは王子でありながら次期国王としてほぼ確定していたため、厳しい教育を受けていた。そのため、エアルドレッド公爵家の屋敷で同い年のオースティンと遊ぶ時間は、彼にとって数少ない羽を伸ばせる時間だった。
その上、オースティン自身も型に嵌らない子供だったため、普通の貴族嫡男であれば決してしないだろうことも二人でやった。一番楽しかったのは、公爵家で入ってはいけないと言われていた部屋に侵入したり、使用人も皆が寝静まった後の屋敷を探索することだった。
「そのお陰で、随分と不味いことにもなったけどね」
「気付かれてねえから良いんだよ」
ライリーの指摘にオースティンは肩を竦める。
その記憶はライリーとオースティンの間でしか共有されていない、秘されたものだった。エアルドレッド公爵家の屋敷で夜半過ぎ、例のように冒険を楽しんでいた二人は、こっそりと忍び込んだ部屋の扉が開いたことに気が付いて飛び上がりそうになるほど驚いた。慌てて衣装棚の中に隠れた二人は、わずかに開いた扉の隙間から外を覗く。
そこに居たのは、エアルドレッド公爵――当時は存命だったオースティンの父ベルナルドと、叔父アドルフだった。
『鍵が開いていますね、兄上』
『大方、使用人が鍵をかけ忘れたのだろう』
『かもしれませんね。それよりも、先ほどの話です。我々は何も手を打たないとは、一体どういうおつもりですか』
『そのままの意味だよ。エアルドレッド公爵家としては今回の件に加わるつもりはない』
ベルナルドが言えば、アドルフはそれ以上疑う様子もなかった。二人は深刻な雰囲気を纏って真剣に言葉を交わす。
『アドルフ叔父様だ。どうしたんだろう』
『珍しいね』
ライリーとオースティンは、目線だけで会話した。
オースティンの叔父アドルフは、エアルドレッド公爵家の中でも変わり者として有名だった。若い頃から魔道具に傾倒し、人付き合いを酷く嫌う。社交の場に出ることも珍しく、常にローブを着こんで殆ど顔が見えない。彼の素顔を知る者は殆どいないはずだ。
『兄上、お気持ちは分かります。しかし今の陛下の専横は目に余ります。フィンチ侯爵家の嫡男も兄上が玉座に就くことを未だ諦めてはおりません。このままでは我が国は分裂しかねない。そうなると隣国はいざ好機と攻め込んで来るに違いありません』
聞こえる言葉も難しい単語を使っていたせいで、全容を理解できたわけではない。しかし、二人が驚いたのは話の内容ではなかった。
アドルフは部屋の扉を閉めた途端に、苛立ったように顔を隠していたフードを剥ぎ取る。その下から現れた顔は、オースティンやライリーも見たことのあるものだった。
(プレイステッド卿――!?)
思わず、ライリーとオースティンは目を見開き顔を見合わせる。咄嗟に漏れそうになった声は、慌てて両手で口を抑えることで飲み込んだ。
プレイステッド卿とはエアルドレッド公爵家と非常に近しいアルカシア派で、影響力も非常に強い。非常に魅力的な容姿で男女共に人を惹き付ける男性だった。だが、具体的にどのような血縁関係にあるのかはあまり知られていない。ただ、彼が独身であること、そして情報通であることは間違いないものだった。
アドルフとは全く共通点のない人物が、実は同一人物だった。そのことに、ライリーもオースティンも驚きを隠せない。衝撃を受けた二人が呆然としている内に、ベルナルドとアドルフは話を終えたらしく、さっさと部屋を出て行った。
二人にとっては幸運なことに、父と叔父の会話を聞いていたことは誰にも知られなかった。だが、プレイステッド卿がその正体を隠していることは明らかだ。だから、オースティンとライリーはその日の事を、死ぬまで誰にも言わないと互いに誓い合った。
「オースティン、ここら辺だ」
一瞬過去の記憶を思い出していたライリーは、ふと足を止める。オースティンもまたライリーと同じことを考えていたらしく、無言で頷くと壁に手をついた。
「一般の使用人には知られてない隠し扉、つってたか?」
「そうだね。主の信頼を得た一部の使用人――例えば執事とか、そういう人間にしか把握されていない扉なんだろう。魔術の類は仕掛けられてないみたいだけど」
壁を手で押さえながら確認し、音の違いから隠し扉の場所を把握する。幸いにも扉自体は普通のもので、単に壁と見分けがつかないように色と材質を揃えているだけだった。蝋燭に火をつけてもそれほど明るくならない場所だから、その程度の目くらましでも気付かれなかったのだろう。
「開いた」
オースティンが囁き、そっと手に力を入れる。ゆっくりと隠し扉が開き、二人はわずかに開いた隙間から身を滑り込ませた。
事前に確認していた通り、二人が出たのはヘルツベルク大公の寝室に面した衣装部屋だ。衣裳部屋と言っても、大公の性格を反映してか、武器の類も適当に放り込んである。武器部屋は他にもあったから、恐らくこの部屋に放り込まれている武器は頻繁に使っているものなのだろう。
しかし、肝心の剣はこの部屋には置かれていない。
「大公は?」
「寝てる」
衣装部屋の扉を開けて寝室を覗いたオースティンが、扉を閉めてライリーの方に戻って来る。
「出かけていてくれたら良かったが――そうは上手くいかないか」
ライリーのボヤキにオースティンは頷いた。闇闘技場が開かれる時期であればヘルツベルク大公も夜には出掛けているが、そうなると屋敷に剣はない。剣を収めている箱も持って行っているという噂もあり、闇闘技場が開かれていない日を狙って侵入するしかなかった。
そして、どうやら大公は闇闘技場での試合が一段落するまでは屋敷で寝るようにしているようだった。試合期間が終われば多少羽目を外して遊ぶこともあるようだが、ライリーたちもあまり長期間ヴェルクに滞在したくはない。
「それに何より戦場で過ごす時間が長い人物だからな。この部屋なら兎も角、寝室に入れば気配で勘付き起きる可能性もある」
「だからベラスタからこれ、借りて来たんだろ」
眉根を寄せるライリーに、オースティンはポケットから取り出した小さな魔導石を掲げてみせた。その魔導石は近くに居る人物を眠らせることのできるものだ。あまり複雑な術式を書き込めないため、眠らせる人物の指定はできないし、長時間効果が持続できるものでもない。しかし、ヴェルクで材料を掻き集め短期間で作ることのできる魔導石はこれが限界だった。むしろ、ベラスタだからこそ造り出せたというべきだろう。
「仕方ないね。この効果が切れる前に脱出できるように努めよう」
「ああ」
オースティンは魔導石に細い糸を結び付け、再び衣装部屋の扉に近づく。隙間からそっと腕を差し込み、発動させた魔導石を手首の力だけで寝台の下へと投げ込んだ。分厚い絨毯に音が吸収され、魔導石の効果が大公に作用し始める。それを確認し、オースティンは振り返るとライリーに合図を出した。
二人は足音を殺して大公の寝室に入り、寝台とは真逆にある暖炉に向かう。そして、二人は暖炉の中に身を滑り込ませた。
オースティンは辛うじて通れるだけの隙間を通って少しだけ煙突の中を上がり、防煙用に作られたでっぱりの手前にある取っ手を引く。すると、わずかな音が二人の足元で響いた。暖炉の奥側の壁に、少し小さめの四角い穴が開く。そこから隠し部屋に通じているらしい。
「この中だね」
「まさか、本当にあったとはな」
ライリーが穴を覗き込むと、オースティンは身軽な動作で地面に着地する。
ローランドが当初手に入れた館内の見取り図は、不自然な空白がいくつもあった。その殆どが隠し部屋だろうと考えられている。そしてどのように調べたのか、ローランドは剣が保管されている場所に目星をつけていた。勿論ローランド本人が調べたのではなく、彼の腹心であるドルミルが調査したことだ。
「俺が先に入る、お前は後から来い」
「ああ、頼む」
オースティンはライリーが頷いたのを確認して、さっさと中に入る。すぐに出て来たオースティンの合図を待って、ライリーも隠し部屋に入った。
幸いにもと言うべきか当然と言うべきか、隠し部屋は寝室のすぐ隣にあった。そしてそれほど広い空間ではない。大公はそれなりに背丈があるから、この部屋の中では少しかがまなければならないだろう。
「侵入されると思ってないんだろうな」
ぽつりとオースティンが呟く。
彼の視線は、部屋の中央に置かれた机とその上に置かれた箱に向けられていた。間違いなく、二人が探し求めていたものだ。存外あっさりと見つけられたことに驚くものの、そもそも隠し部屋の存在を知る者が殆ど居ないのだから、隠す必要性も感じていないのだろう。
「この箱に施された陣を解除できるかどうか、だね」
ライリーが囁き、オースティンも頷く。そして彼は左手首の腕輪を外す。魔導石が取り付けられ複雑な文様が刻まれた魔道具だ。先ほどヘルツベルク大公の寝台の下に投げ込んだ魔導石とは違い、かなり高度なものである。その魔道具を使えば、箱に施された陣の解術が可能かどうか、解術がどの程度の難易度なのか分かるようになっている。その魔道具を提供してくれたのはローランドで、ベラスタが最終調整を行った。解術を行うのはベラスタであるため、当初想定されていた範囲よりも多くの陣を解術できるという判断が下されたからだ。
オースティンが決められた手順に則り確認をしている間に、ライリーは部屋の中を見て回る。それほど広くないが、様々なものが雑然と置かれていた。どうやらヘルツベルク大公よりも前にこの屋敷に住んでいた人物が置いて行ったものもあるらしい。
(――あれ? これは)
ふと、ライリーは壁に打ち付けられた木の棚に目を止めた。棚の上には武器や書物、魔道具、宝飾品などが適当に積み上げられている。
何の気なしに、ライリーは棚に置いてあるものを検分する。埃が積もっている場所も多く、触れてしまえば手の跡が残る。そのためライリーは極力物に触れないようにしていたが、ふと彼の目を引くものがあった。他のものに埋もれるようにして、良く視なければ気付かないほどの窪みが壁にある。
そっと手を伸ばして、ライリーはその窪みを指で押してみた。すると、がこんと音がして壁に穴が開く。どうやら大切なものを保管しておくための隠し穴らしい。その中には、見覚えのある洒落た木箱が入っていた。
(ゼンフの魔道具屋で見かけた細工箱だね)
確か魔道具屋の女主人は、東方帝国の品で魔道具ではないと言っていた。それを信じるのであれば、ここにある細工箱も東方帝国から輸入されて来たものに違いない。意匠は非常に凝った造りで金箔もふんだんに使われている。かなり高級なものだろうことは見て分かる。
何気なく、ライリーは細工箱を手に取り開けた。穴の中に置いてあったせいか、埃は被っている上に非常に古い臭いがする。
細工箱の造りが違えば開けられないと思っていたが、手に持った感触と魔道具屋の女店主の手つきを頼りに動かすと、存外簡単に開いた。とはいえ、事前知識がなければ開けられなかっただろう。開けられるところまで細工箱を開けたライリーは、予想外の物を見つけた。
「――指輪?」
細工箱の中に入っていたのは指輪だ。そして、その指輪には信じられないものが刻まれていた。
「まさか――」
瞠目したライリーは、背後からオースティンに「終わったぞ」と声を掛けられてびくりと肩を震わせる。慌てて細工箱を元に戻して壁を閉じ振り返る。幸いにもオースティンは腕輪を左手首につけている途中で、ライリーの変化には気が付いていなかった。
「どうだった?」
何気なさを装ってライリーはオースティンの側による。オースティンは苦い顔で首を振った。
「直ぐには無理そうだ。数回やったが、赤く光るだけだった。大公がこの剣をここに置いたままならベラスタを連れて来れるが、それが出来ないなら」
「闘技場で奪うしかないね」
薄々予想していたことではある。溜息混じりに応えたライリーに、オースティンは頷いた。ライリーは口角を上げる。
「君の活躍を楽しみにしているよ」
「全く、面倒なことになったぜ」
うんざりしたように答えながらもオースティンは楽し気だ。
二人は隠し部屋を出て、暖炉から寝室に戻る。幸いにも寝台の下にある魔導石はまだ効果を保っていた。床に放置していた糸を手繰り寄せて魔導石を回収すると、オースティンとライリーは隠し扉から使用人用の通路に戻る。元来た道を足早に辿り、二人は屋敷の外へと脱出した。
3-5
36-4









