56. フィンスタ・ヴェルク 1
リリアナ・アレクサンドラ・クラークは、宛がわれた部屋の窓から王宮の庭を見下ろしたまま小さく溜息を吐いた。夜闇のせいで暗く沈んだ庭の中で、噴水だけが月光を浴びて煌めいている。
部屋から出れば、他人の視線を感じる。元々リリアナが動けば衆目を集めはしたが、今感じている気配は間違いなくリリアナの動向を監視する者の視線だった。
だが、室内に居ればその気配は感じられない。何かしらを疑われているのであれば王宮図書館に行くことも憚られるかと、リリアナはここ最近は極力部屋から出ないようにしていた。図書館の本のうち目ぼしいものはほぼ読み終えているものの、王太子妃教育もほぼ終えている上、社交界デビューもまだのリリアナは時間を持て余している。茶会を開くわけでもなく、ライリーが居た時のように執務に関する助言を求められるわけでもない。
結局、本を読むからという理由で女官たちを部屋から下がらせ、大公派や王太子派、中立派の貴族たちの動向を探りつつ、ライリーたちの様子を魔術を使って垣間見ることに時間を費やしていた。
(次の手を打ちたくても、まだ準備が整っておりませんのよね)
とはいえ、ライリーたちの様子を見るのも、必要な時だけに限っている。ふとした瞬間にライリーとエミリアが楽し気に会話している場面を見てしまうと、否応なく感情が揺さぶられてしまう。特にその時の感情の動きで魔力が安定しなくなると自覚してからは、一層ライリーたちの動向を探る回数を減らしていた。
(それでも、そろそろヘルツベルク大公の屋敷に侵入する頃合いではないかしら)
ライリーたち攻略対象者とヒロインが、封印具の一つ破魔の剣を入手するため、コンラート・ヘルツベルク大公の屋敷に忍び込むのは乙女ゲームと変わらない。ただ問題は、選択肢や攻略対象者の攻略度合い、ヒロインのステータスによって破魔の剣を入手できる時期が多少前後することだった。
(屋敷で入手できるのか、それとも闘技場まで持ち越すことになるのか――確か、ベラスタ様の覚醒度合いによって異なっていたかしら)
乙女ゲームとはいえ謎解きが主軸になっていただけあり、破魔の剣の入手にも細かな条件が設定されていて、攻略サイトが充実していたことは記憶にある。さすがにその詳細まではリリアナも覚えていなかったが、ただ一つ、ベラスタの攻略度合いによって入手できる場所が異なっていたことは記憶に残っていた。
ベラスタの好感度が高ければ、ベラスタが剣が収められている箱に掛けられた盗難防止の陣を解除し、剣を偽物とすり替えることができる。しかしベラスタの好感度が一定以下であれば、陣は解除できず、ヘルツベルク大公が闇闘技場に剣闘士として出場する機会を狙わなければならない。
現実を考えれば、闇闘技場の可能性が高いだろう。好感度については分からないが、乙女ゲームと違ってベラスタの兄ベン・ドラコが存命であり、ベラスタ自身も魔導省の役職に就いていない以上、ベラスタの魔術の才能は劇的に開花していないはずだ。
(さすがにわたくしも、陣の実物を見た覚えがございませんから、解除の方法も分かりませんものね)
そして同時に、攻略対象者たちより先にヘルツベルク大公の屋敷に忍び込んで剣の入った箱を確認するということもしたくない。リリアナであれば侵入は可能かもしれないが、そもそも破魔の剣はライリーかオースティンが手にしなければ意味のないものだ。不必要にリリアナが侵入し、そのことが大公側に気付かれてしまった挙句、ライリーたちの侵入が難しくなる事態は避けたかった。
ライリーたちの様子を窺うため魔術を展開し、彼らの側にいるだろう呪術の鼠と繋ぐ。鮮やかに空中へ浮かび上がる光景に視線をやりながら、リリアナは苦笑染みた表情を浮かべた。
去年の誕生日は、ライリーが王宮へ誘って二人でお茶を楽しんだ。ライリーは毎年、リリアナに贈り物をくれた。どれも趣味の良い宝飾品で、意匠がリリアナの好みに合っていた。魔道具に一番興味があると理解しているからか、ライリーがくれる宝飾品はどれも魔道具も兼ねている。攻撃された時に防御の結界が自動的に展開される魔道具もあれば、疲労を軽減する魔道具もあった。
七歳の誕生日以降、リリアナは毎年ライリーと誕生日を過ごしている。だが、今年の誕生日は一人で過ごすことになりそうだ。少し寂しい気もしたが、元より誕生日を盛大に祝う風習はない。例外は王太子や国王、王妃くらいのものだった。
(ウィルは――ああ、やっぱりいらしたわね)
映像の中では、夜の闇に紛れたライリーとオースティンが居る。しかしエミリアは居ない。恐らく宿で留守番しているのだろう。
(あの中ではウィルとオースティン様が一番、こういったことに手慣れていそうですわね)
オースティンは騎士として優秀だし、ライリーも以前ケニス辺境伯領でジルド、リリアナと共に砦へ侵入した過去がある。エミリアも不可能ではないだろうが、わざわざ女性に屋敷への不法侵入を果たすよう命令する人間も居なかったに違いない。
(乙女ゲームでは、ヒロインも含めて三人で侵入していたものですけれど)
当然、プレイヤーがヒロイン視点なのだから、ヒロインが館に侵入しなければ話は進まない。屋敷の中での選択肢はヒロインが選ぶのだから、当たり前のことではあった。
(冷静に考えたら、確かにおかしなことですわね。何故、ゲームの中ではヒロインも侵入していたのでしょうか)
リリアナは首を捻る。考えられる可能性としては、ライリーやオースティン、そしてクライドの立ち位置が今と違うという点だった。
クラーク公爵エイブラムが存命で宰相として辣腕を奮っていたため、王太子であったライリーはそれほど政に携わることもなく、そしてクライドも公爵の嫡男としての勉強をするだけで、領地経営に直接関わってはいなかった。当然、オースティンも王太子の近衛騎士ではあったが、今ほど様々な事情を勘案するような機会もなかったはずである。そうすると、乙女ゲームの攻略対象者たちは今より考え方が幼かったに違いない。
(お手並み拝見、ですわね)
映像の中でウィルとオースティンは動き始めている。リリアナは、彼らの動きに集中することにした。
*****
ライリーとオースティンは、ヴェルクの中でも一際高級な邸宅が立ち並ぶ区画に足を踏み入れていた。高位貴族や一部の聖職者しか入ることのできない土地柄のため、道を歩いている人間はいない。主やその家族は必ず馬車を使うし、使用人たちも昼間のみ、それも裏路地しか歩かないよう徹底されている。
二人は黒装束に身を包み、気配を殺して目的地に向かった。
魔術を使わないのは、魔術を検知する魔術陣や魔道具が使われていたら面倒だからだ。特にユナティアン皇国はスリベグランディア王国よりも呪術が発展しているため、二人が認識していない道具が使われている可能性もある。
(サーシャなら知ってそうなんだけどね)
油断なく周囲に目を配りながら、ライリーは心中で呟く。憧憬や恋焦がれるような感情が自分の中にあることに、それほど驚きはない。寧ろ正直な思いを吐露しそうになるのを、辛うじて理性で抑え込んだような状況だった。オースティンはリリアナを悪し様に言ったことを謝罪したものの、疑いを完全に解いたわけではない。多少の譲歩を見せてくれたものの、ライリーとは違いリリアナが裏切った可能性は高いという立場を崩していなかった。
これからヘルツベルク大公の屋敷に乗り込むというのに、互いの感情を無駄に波立たせる必要はない。
「ライリー、あそこだ」
「――周囲の邸宅と比べても一際大きいね」
「ああ。しかも、随分と趣が違う」
オースティンの言う通りだった。ヘルツベルク大公の屋敷は周囲の屋敷と造りが違う。他の屋敷はヴェルクの伝統工芸を随所に取り入れながらも、財の大きさを誇示するように豪華絢爛だ。しかしヘルツベルク大公の屋敷は、堅固な守りを主張するような造りだった。
敷地を囲むように石造りの壁があること自体、他の屋敷と違う。他の屋敷は敷地を囲むように木々を植えているだけで、堅牢な壁はない。更にヘルツベルク大公の敷地を囲んでいる壁の上には鉄製の柵が立てられ、その一つ一つに魔術陣が施されていた。どうやら侵入者を検知し、そのまま殺害する用途らしい。
「これだけ見ても、敷地内部には色々な仕掛けがあると考えねえといけないな」
「そうだね。犬を飼っているという話はなかったけれど、魔術陣や魔道具が設置されている可能性は高い。武人の彼がこれほど魔術陣に頼っているとは、予想外だったな」
「まだ分からねえぞ」
ライリーが深刻な表情で言えば、オースティンはにやりと笑った。
剣に誇りのある武人は魔術を使う魔導士を見下していることが多い。魔導剣士はそれほど魔導士を差別することはないが、それでも自分たちより一段劣った存在と考える者が居ないわけではない。
それを考えると、屋敷を警備するためとはいえ、魔道具や魔術陣を贅沢に使っていることには違和感があった。
「そういえば、大公がこの屋敷を手に入れたのは数年前のことだとローランド殿が言っていたね」
ふとライリーが思い出す。オースティンは頷いた。話を聞いた当初、誰も気に止めなかった情報だ。ローランドも大して重要な話ではないと考えていたらしく、思い出したように付け加えただけだった。
とはいえ、当然ヘルツベルク大公が住み始める前の情報も簡単にではあるが伝えられている。だが、分かっていることは以前屋敷に住んでいた人物は貴族だったというだけだった。魔術に造詣が深かったとか魔導士だったという話は聞いていない。
「前の持ち主がやったことだって? それでもやっぱり妙だな。設計から大公がやったというのも妙な話だけどさ、前の持ち主から買い取ったにしても、わざわざこの屋敷を選んだっていうのに違和感が残るぜ」
オースティンがボヤくように言えば、ライリーもまた頷く。しかし今問題となるのは、何故ヘルツベルク大公がこの屋敷に住まうことにしたのかということではない。
「その事を考えるのは後だ、オースティン。今は剣のことを考えよう」
「そうだな。まずは中に入らねえと」
ライリーに同意するように頷いたオースティンは、さっさとライリーを先導して裏手に回る。他の屋敷と趣が違うとはいっても、裏手に使用人たちの出入口や使用人棟があるという構造に大きな違いはない。ローランドが提供してくれた館内の見取り図も、ライリーやオースティンが見慣れた配置とほぼ一緒だった。それでもライリーはあまり使用人たちの居る区画に近づくことは多くない。一方のオースティンは幼い頃から様々な場所に出入りしただけあって、慣れたものだった。
オースティンが推測し、ローランドの部下であるドルミルが同意した通り、使用人たちが使う勝手口側は警備もそれほど厳しくない。周囲に人がないか確かめた後、閂の掛けられた小さな門に手を掛けたのはライリーだった。細い針金で手早く閂を開ける。
後ろから手際のよい作業を眺めていたオースティンは、楽し気に口角を上げた。
「昔からお前、手先器用だよな。王太子が錠前開けられるって、人聞きが悪いけど」
「人前ではしていないから問題はないだろう。それに、この特技があるからお前も色々と助かって来たはずだ」
「否定はできないな」
オースティンは肩を竦めてあっさりとライリーの言葉に頷く。
幼い頃から共に遊んでいた二人は、人目を忍んで色々とやんちゃをしていた。ライリーは一見真面目な子供だったが、オースティンが誘えば禁止されている事にも手を出した。今思えば、幼い子供にしては随分と危ない橋を渡ったこともあったが、今無事に過ごしていることを考えると結果的に問題なかったと言える。
その過程で、ライリーは錠前を開ける技術を身に着けた。さすがに王太子として公言することは憚られるが、存外役立つ技術である。
揶揄うようなオースティンの言葉に軽く肩を竦めたライリーは、そっと門を開けた。目を凝らして確認するが、敷地に足を踏み入れただけで二人を攻撃したり警報音を鳴らすような魔道具は設置されていない様子だ。
「――行こう」
小さく頷き合った二人は身を隠しながら、コンラート・ヘルツベルク大公の屋敷へと侵入を果たした。









