55. 魔窟の都 4
※グロテスクな表現を含みます。
スリベグランディア王国にあるゼンフと呼ばれる町から馬車で数日かかる町――その近くには、深遠な森が広がっていた。その森の中には、切り開かれた広場がある。その土地の領主が重税を課していた時、領主の目を逃れ自分たちの食糧を確保するために農民たちが切り開いた、隠し農地の場所だった。
だが今は放棄され、草が生い茂っている。しかし木が育つことはなく、広い土地として遺されていた。
深遠な森に囲まれた広場の中心に、オブシディアンは一人立っていた。楽し気な笑みを浮かべて自分を取り囲む男たちを眺めている。
刺客でありながら殺気を漏らしている追手は、実力や経験を見てもオブシディアンほどの手練れではない。普通に戦えば彼らに勝ち目はないだろう。しかし、何故か男たちは、オブシディアンを倒せると確信しているようだ。
「で、何をしてくれるんだ?」
にやにやと笑いながら挑発するように問えば、刺客たちは不快そうに顔を顰める。しかしその中でも、最も身なりの良い男は表情を変えていない。
オブシディアンは、彼がこの一団を従えている人物――即ちゼンフ神殿の神官長ハンフリーだと気が付いていた。実際に顔を合わせるのはこれが初めてだが、男たちの動きや目線を見ていればすぐに分かる。
集団戦にも向いていない奴らだと、オブシディアンはあっさりと彼らの実力を見切った。
「貴様に答える必要はない。いずれにせよ、貴様は今この地で死ぬのだから」
ハンフリー神官長は冷たく言い放つ。表情一つ変えないハンフリー神官長に、オブシディアンは興が削がれたとでも言いたげな表情を見せる。
「陳腐な言い回しでつまんねーよ。もう少し面白味のある話してくんね?」
だが神官長は反応しない。オブシディアンに一々答えるのも馬鹿らしいと思っているようだが、同時に苛立ちを覚えているのも確かなようだった。
普通に攻撃されてもオブシディアンが彼らに負ける未来は存在していない。しかし、単一な攻撃を繰り出すであろう彼らの相手をまともにするのも馬鹿らしく、オブシディアンは更に彼らの怒りを煽ってみることにした。
「まだ、ゼンフの魔道具屋の方が骨があったぜ」
その名を出した途端、面白いほどに彼らの殺気が高まる。想像した通りの反応を見たオブシディアンは思わず腹を抱えて笑いそうになったが、辛うじて堪えた。しかし堪え切れなかった笑いが喉の奥で奇妙な音を立てる。その音を耳にしたハンフリー神官長はオブシディアンが爆笑を堪えたらしいと気が付き、端正な眉を顰めた。
ゼンフの魔道具屋――大禍の一族の分家長として指名された女性ジーニーのことだ。
これまで、大禍の一族の分家長には代々ゼンフ神官長が任命されて来た。今回は明らかに異例の人事で、次期分家長になれるのだと信じていたハンフリー神官長ははっきりと怒りを抱いた。実際に彼はジーニーの命を狙い、自ら分家長として立とうと画策しているという。
オブシディアンは無関係だったからジーニーに助力を頼まれても断ったが、どうやらジーニーはハンフリー神官長とその部下からは逃げるだけで、彼らの命を奪うことまではしていないらしい。
「――あの女は、我らとは無関係だ。一緒にしないで貰おうか」
「そうかぁ? 俺からみりゃあ、大した術も使えねえってだけで同類だぜ。いや、自分と俺の実力差が分かってるって時点で寧ろアッチの方が頭は良いな」
殊更馬鹿にするように言葉を重ねれば、ハンフリー神官長は更に怒りを抱く。握りしめた拳が震えているのを見たオブシディアンは、内心で呆れ果てた。
刺客や間諜は感情を制御しなければならない。何があっても心乱されることなく、粛々と任務を遂行する。それこそが彼らに求められている役割だ。
しかし、明らかにハンフリー神官長はその資質を欠いていた。
「黙れ。あの女のことなど、どうでも良い。居場所は掴んだからな。貴様をここで殺した後、あの女もお前の後を追う」
「へえ。まあ、あいつのことはどうでも良いんだけどな」
俺の知ったことじゃねえよ、とオブシディアンは取り合わない。その反応が思ったようなものではなかったのか、ハンフリー神官長は顔を僅かに顰めた。
ハンフリー神官長が大禍の一族の指示に従って、オブシディアンを殺そうとしていることは、オブシディアンも知っている。その任務は元々ジーニーに与えられたものだったはずだが、ハンフリー神官長はオブシディアンとジーニーを殺すことで本家に対しても堂々と分家長を名乗ろうと考えていた。
彼の目論見はジーニーにも見破られ、オブシディアンにも看破されているのだから、分家長というだけでなく刺客や間諜としてだけではなく、神官としての評価も推して知るべしだ。
オブシディアンは飄々とハンフリー神官長たちと会話をしながらも、内心ではジーニーを見直していた。彼から見ればハンフリー神官長とその部下たちは三流だが、人数だけは多い。彼らはジーニーを必死に探していたはずだが、ある程度反撃したジーニーはあっさりと姿を晦ました。簡単にできるものではない。
(さすが、狐魅の生き残りだな)
小さく息を吐いたオブシディアンの口角が上がる。
ジーニーが見事に隠れたせいで、ハンフリー神官長たちはジーニーの捜索を一旦諦め、特に姿を隠しているわけでもないオブシディアンの殺害に切り替えたのだろう。
恐らくジーニーは、ハンフリー神官長たちがオブシディアンの暗殺を企み、反撃されることを狙っていたに違いない。そうすればジーニーは正面切って刺客たちの相手をする必要もなくなる。ジーニーの得意な暗殺は一対一のやり取りであって、ハンフリー神官長たちが今オブシディアンに仕掛けているような、肉弾戦ではなかった。決してジーニーの暗殺技術が劣っているわけではないが、得意分野が違うためジーニーにとっては不利だ。
やりやがったな、とオブシディアンはジーニーを恨みがましく思うものの、本気で腹を立てているわけではなかった。オブシディアンにしてみれば、ジーニーに貸しを作った、と言える。
「で? まだ始めねえの?」
「――余裕を見せていられるのも今のうちだ」
ハンフリー神官長は苦々しく吐き捨てた。思わずオブシディアンは白けた表情になる。オブシディアンは一切動きを見せなかったが、神官長たちは各々武器を取り出した。独特な暗器ばかりだが、それは全て大禍の一族で用いられているもので、目新しさはない。
「つまんねえ。独創性、見せろよなぁ」
思わずオブシディアンはぼやく。もし彼らが思いも寄らない武器の使い方をしてくれたら楽しいのだが、到底それは望めないだろう。
ただ面倒なのは、ハンフリー神官長が引き連れている仲間の多さだった。一人一人を相手にできないこともないが、時間ばかりが掛かってしまう。だからといって、一度に全員を倒せるだろう術を使ってやるほどの大ごとでもない。
腹ごなしにはちょうど良いかと、オブシディアンは口角を上げて一言呟く。
「少しは楽しませてくれよ?」
その瞬間、刺客たちは暗器を振るい、ある者は飛び交う暗器の合間を抜けてオブシディアンに直接斬り掛かった。
オブシディアンが軽く手を振ると、刹那持ち手だけの鞭が出現する。その鞭を握り、オブシディアンは軽く手首を反す。たったそれだけの動作で、刺客たちの放った暗器は全て地面に叩き落とされ、走り迫って来ていた男たちの首は全て胴から離れた。派手な血飛沫が舞い、緋色の雨が降る。しかしオブシディアンは一切の返り血を浴びなかった。彼の手を広げた範囲だけは何の変化もないが、広げた手よりも先には男たちの物言わぬ骸が次々と落ちて横たわり、真っ赤な池のような水たまりが出来ている。
飛び道具を使っていた刺客や安全な場所でオブシディアンが倒れる瞬間を待ち望んでいた神官長は、自分たちの目に映る光景が信じられないというように立ち尽くす。
しかし、オブシディアンは一切顔色を変えることなく鼻を鳴らした。
「んだよ、呆気ねえな。これが天下の暗殺一族か?」
骨のねえ奴らだ、と言うオブシディアンは全く様子が変わらない。しかし周囲の光景は、手練れの刺客たちも顔色を失くすほどのものだった。
だからこそ、余計にオブシディアンの異様さが際立ったのだろう。生き残った刺客たちの一部が、その場から逃げようと踵を返す。しかし、彼らの足は竦んだように動かなかった。恐怖故ではない――彼らの足元には、雑談の最中にオブシディアンが仕込んだ術の陣が発現していた。
「逃げんなよ。つっても逃げれねえか――俺に、襲い掛かることはできるけどな」
その言葉を瞬時に理解できた者は、残念ながらその場には居なかった。しかし、それなりに場数のある彼らは直ぐに現状を理解する。
つまりこの恐ろしい場所から逃れるためには、どうにかしてオブシディアンを殺すしかない。術者であるオブシディアンを殺せば、足元に発現した妙な術も解除される。
殺すか、殺されるか――文字通りの状況を、オブシディアンは作り出したのだ。
「これくらいしねえと、面白くもなんともねえよ」
そう言い放ったオブシディアンに、男たちは間違いなく恐怖心を抱く。しかしその心を自覚してしまえば、最早動くことも敵わない。死神のふるう鞭で命を刈り取られる以外の選択肢はない。
それだけは嫌だと、男たちは決意を固めた。
オブシディアンの手によって反撃された男たちが地に倒れ伏してから数分もしない内に、残された男たちは一斉に動く。その中にはハンフリー神官長も居た。
「【我が名に於いて命じる、神の詔を受けた芳しき光の理の元に、我が力よ光の刃となり悪しき輩の心の臓を貫け】」
暗器を使う者たちの中に混じって、神官長は光の魔術を使う。神官長は代々魔術を使える者がその座に就く。ハンフリー神官長はその中でも珍しい光魔術の使い手だったが、その魔力量はあまり多くない。しかし、攻撃方法の一つとして扱う程度には魔術に長けていた。不足する魔力量を補うための長い詠唱を唱え終えた瞬間、空中に雷が生まれる。生まれた光は一直線にオブシディアンの胸へと向かった。
それを視界に捉えたオブシディアンは、楽し気に目を輝かせる。
「良いねぇ――そう来ないとな」
呟きながら、オブシディアンは小さく口笛を吹いた。その瞬間、姿の見えなかった烏が突如として現れる。ぎょっとした刺客たちの反応を見て、オブシディアンは片眉を上げた。
「あれ」
鞭を捻り、ハンフリー神官長以外の男たちは首筋から血を吹き出しその場に力なく倒れ込む。そして、神官長が放った光は烏の体の中に消えて行った。
その一部始終を見届けたハンフリー神官長は、蒼白な顔で愕然とする。
「もしかして、俺がどうやって戦うのか見たことなかったか」
どうやらオブシディアンの推測は正しかったらしい。神官長は恐怖に駆られた表情のまま再び術を紡ごうとするが、恐れに満ちた精神状態では碌に魔力も集中できない。その上、震えた声で呟く詠唱はあまりにも長すぎた。
「事前調査って、結構大事なモンだぜ? 今更知っても遅いけどよ」
オブシディアンは心底気の毒そうに言ってのける。オブシディアンが男たちを殺す前であれば苛立ちを露わにしただろう神官長も、最早オブシディアンを排除することしか考えられない様子だった。
「まあ、次はもう少しマシな頭で生まれられたら良いな。来世なんてもんがあるのか、知らねえけど」
同情したような台詞を口にしながら、オブシディアンは小首を傾げた。鉄錆の臭いに満ちた悲惨な光景さえなければ、体調を悪くした知人を気遣うような表情だった。
「じゃあな」
鞭を握ったオブシディアンの手が、動く。詠唱を完了させることすらできず、神官長の首は飛んだ。詠唱の形で口が固まっている。
しかし神官長の頭部と胴の行方を見守るつもりもないオブシディアンは、手を振って鞭を消すと、自分の肩に止まった烏に視線を向けた。
「ありがとな、助かったぜ」
烏は答えないが、漆黒の瞳がオブシディアンを一瞥する。オブシディアンは軽く地面を蹴り、死臭に満ちた場所の外へと飛び出した。普通に歩いてその場を離れたら間違いなく靴が血だらけになるが、血と死体の海を飛び越えたため、オブシディアンには一切惨劇の痕跡も残っていない。
「とりあえず一番面倒なところは終わらせたけどさ、本家の誰かさんが俺の暗殺命令を取り消さねえ限り、雑魚の相手しなきゃならないよな」
独り言のようなことを呟きながら、オブシディアンはぶらぶらと道を歩く。大量の死体を片付けることもしないが、森の奥深くだ。隠された農地が放棄された今、近くの農民や樵が入って来るような場所でもない。野獣が適当に食い散らかし、後始末をしてくれるはずだ。
「面倒だけど、皇国に行くか。そんで、俺の暗殺命令取り下げさせるか――潰すか、だなあ。でも潰すのも面倒だよな」
小さくぼやくオブシディアンは、何かに気が付いたように目を瞬かせて横目で烏を見る。わずかに気まずそうな様子で視線を逸らし、オブシディアンは言い訳がましく囁いた。
「ちなみに、今手持ちの林檎ねえんだよな。さっき、お前が最後の一個食っちまったから」
途端に烏がその嘴でオブシディアンの頭をつつく。手加減をしているらしく痛みは感じないが、あまり気持ちの良いものではない。オブシディアンは慌てて首を振って烏の攻撃から逃れると、誕生日の贈り物を忘れたと詰る恋人に告げるように、慌てて謝罪を口にした。
「悪かったって、どっかで探して来るからそれまで勘弁してくれよ」
その言葉で納得したのか、烏はオブシディアンを突っつくのをやめる。小さく息を吐いたオブシディアンは森を抜けた。リリアナに皇国へ行くと伝えようかと一瞬考えたが、今リリアナは王宮に居る。侵入はできるが面倒だし、そもそも以前から一々行く先を告げたりはしていない。
「まあ良いか、また次会った時まとめて連絡すれば」
リリアナに緊急の用があれば、烏を使って連絡が取れる。何も問題はないと、オブシディアンは皇国へと足を向けた。
そのオブシディアンは、ジーニーの話をすっかり忘れていたが――元々、ハンフリー神官長はスリベグランディア王国王太子ライリーの側近であるオースティンとクライド、そして婚約者リリアナの暗殺任務を請け負っていた。しかし、未だにその任務は遂行できていない。
更に彼の知らない話ではあるが、ヴェルクにライリーが居ると知った大公派は分家に直接、ライリー暗殺を依頼した。しかしその書簡はハンフリー神官長の懐に入ったままだった。そして分家長となったジーニーの行方も知れない。
即ち、大公派が王太子ライリー暗殺の手立てを失ってしまったと気付くことは、不可能だった。
42-3









