55. 魔窟の都 1
リリアナ・アレクサンドラ・クラークは、その日も王宮図書館へと足を運んでいた。立ち入り制限がある部屋に入室できなかったのは先日の一日だけで、後は全く問題なく部屋に入れている。そこでリリアナは禁帯出の書物を読んだり魔術の研究をしたりしながら、時折ライリーたちの様子を垣間見ていた。他にも進捗を確認すべき場所は幾つかある。
とはいえリリアナの体も一つであり、様子を窺いたい相手全てをずっと観察しているわけにもいかない。なによりも、王宮に来てからというもの、リリアナは時折メラーズ伯爵に呼び出されることが増えていた。どうやらリリアナを巻き込んで、大公派の貴族を増やそうと目論んでいるようだ。親世代は難しくとも、リリアナ世代――つまり次世代を巻き込もうという魂胆らしい。
(わたくしを巻き込んでも意味はないと申しますのに――まあ、この外見は使えるとお考えになっているご様子ですけれど)
そんなことをリリアナは内心で考える。リリアナは、外見だけで言えばそれこそ妖精姫にも匹敵するほどだ。銀髪に薄緑色の瞳、そして華奢な体は庇護欲を掻き立てるらしい。
自分では然程外見が重要だとは思わないが、間違いなく第一印象は他人を動かすのに良い道具となり得る。その上リリアナの外面は完璧な淑女だから、大公派が自分たちの正当性を認めさせるためには良い旗印なのだろう。
知らず、リリアナの口角が笑みの形に弧を描く。大公派は有象無象の集団だが、それだけでは国王を追い落とし王宮、魔導省、王立騎士団を掌握することなどできない。実情は完全に掌握できているとは言い切れないが、それでもメラーズ伯爵の手腕があってこそだろう。
(少し慎重になった方が宜しいでしょうかしらね)
リリアナはメラーズ伯爵に対する警戒を強めるべきだと、改めて思い直す。せっかく舞台を整えているのだから、下手を打っては笑えない。
前世の記憶にある乙女ゲームでは、そもそも大公派などという存在は出て来ていなかった。当然、メラーズ伯爵やスコーン侯爵、グリード伯爵といった大公派の中心人物たちも名前すら出て来ない。恐らく、乙女ゲームでは前半までリリアナの父エイブラムが存命だった。彼が宰相として辣腕を奮っていたからこそ、大公派の出番はなかったのだろう。エイブラムが魔王の復活を企み自身が英雄になることを望んでいたのであれば、わざわざフランクリン・スリベグラード大公を国王ホレイシオと対立させ、王位を交代させる必要はない。
しかし、現実ではエイブラムは既にこの世に居ない。そのため、大公派を上手く操り黙らせる人物が居らず、大公派は増長した。
勿論、そこにリリアナの介入がないとは言えない。しかし、リリアナの手腕を使ったとしても、大公派の勢いを殺すことはできなかった。それならばいっそ大公派を上手く利用し、魔王封印と大公派の封殺、そして隣国の撃退を叶えようと考えた結果が、現状だった。
(お父様がお亡くなりになられたから、ヒロインと攻略対象者たちが隣国に行けないのではないかと思っておりましたけれど)
小さく溜息を吐く。
乙女ゲームでは、父エイブラムが存命だったからこそ、王国の政治は回っていた。大公派も存在しておらず、安定した政治が行われていたからこそ、ライリーたち攻略対象者たちもヒロインと共に隣国へ旅立つことが出来たのだ。そして彼らは破魔の剣を手にし、その後もベラスタが開発した魔道具を活用して残りの封印具を探し続ける。
だが、現実は乙女ゲームとだいぶ様相が変わってしまった。エイブラムが亡くなり大公派が王位を執拗に狙い、ライリーを始めとした攻略対象者たちは気軽に隣国へ行けるような立場ではなくなった。だからこそ、リリアナはどうにかしてライリーたちを皇国へ旅立たせるために頭を悩ませた。
ライリーたちの様子を魔術で垣間見た限りでは、リリアナの思惑通りヴェルクに向かい、破魔の剣を入手するつもりらしい。時期は乙女ゲームよりも早いが、封印具を探す魔道具の開発が間に合うように、ベラスタへ匿名の手紙を差し入れた。その手紙に従えば、魔道具の開発も間に合うだろう。
(ジルドはケニス辺境伯の所で働いているようですし、ヘガティ騎士団長は北で潜伏中。魔導省長官になられたソーン・グリード様はのらりくらりと、大公派の無茶な命令を先延ばしになさっていおいでですわ。ああ、それとベン・ドラコ様もペトラ様と共に行方を晦まされましたわね)
椅子に腰かけて、開いた書物の文字面だけを追いながら、リリアナは現状を改めて整理する。
(先の政変でチェノウェス侯爵家から破魔の剣を奪った人物が隣国の者であったこと、そしてそれに陛下が関わっていらっしゃること、この情報をメラーズ伯爵に耳打ちした者が居るはずですけれど――どなたなのかしら)
政変でチェノウェス侯爵家が没落したことを、リリアナは今の知識として学んでいる。乙女ゲームにも名前だけは出て来たし、元々破魔の剣をチェノウェス侯爵家が持っていたことは簡単に説明されていたが、その事実が大きな問題となることはなかった。
ゲームでは大公派自体が――恐らく存在していなかったし、当然チェノウェス侯爵家を没落させたのが国王ホレイシオの陰謀であるなどという噂は影すらない。
しかし、現実にはそのことがホレイシオとライリーの大きな枷となっている。
大公派の誰一人として公言はしていないため、その事実を元に大公派が動いていると知る人物はごく僅かだ。フランクリン・スリベグラード大公、メラーズ伯爵、スコーン侯爵、そしてグリード伯爵。リリアナも簡単に耳に入れて貰えたが、詳細を知ったのは魔術で彼らの会話を盗み聞いていたからだった。
(それからメラーズ伯爵がユリシーズ様のお耳に入れたようですから、恐らくユリシーズ様とプレイステッド卿はご存知でしょう)
プレイステッド卿が知っている確率はそれほど高くはない。しかし、影のエアルドレッド公爵と呼ばれているプレイステッド卿が知らないはずはないと、リリアナは判断していた。勿論、メラーズ伯爵はプレイステッド卿が知っているとは思っていない様子だ。さすがに、エアルドレッド公爵家当主ユリシーズが、国王の醜聞をプレイステッド卿に共有しているとは思わないのだろう。
(思った以上に、大公派の影は仕事ができないご様子ですわね。三大公爵家に探りの手を入れられないのですもの。当然、三大公爵家の守りが堅固であるというのも大きな理由でしょうけれど)
そんなことを考えながら何気なく手元にライリーたちの様子を映し出すが、移動の途中で大した話もしていないと見て直ぐに映像を消す。ベラスタが合流した時はエミリアとベラスタ、クライドが馬車に乗っていたようだが、狭かったのか、今はクライドも馬に跨っていた。エミリアとライリーが親しく話していないことに安堵のような感覚を覚え、リリアナは眉根を寄せる。しかしすぐに気のせいだと小さく頭を振り、時計を確認した。
もう少しすれば夕餉のために部屋へ戻らなければならない。それでは最後に一度エアルドレッド公爵の出方を確認しておこうかと、リリアナは術を唱える。手元に現われたのは、呪術の鼠だった。エアルドレッド公爵領に放ち、エアルドレッド公爵ユリシーズとプレイステッド卿の動向を探らせていた一匹だ。
手早く解析作業を済ませ、映像を映し出す。長年続けていることだけに、既に手慣れたものだ。
空中にはユリシーズとプレイステッド卿が向き合って座っている姿が映し出される。どうやら二人はエアルドレッド公爵領の領都の屋敷に居るらしい。窓から差し込む光を見ると時間帯は昼前だった。
『王都に変化は?』
『特にありません。相変わらず魔導省、王立騎士団は大公派が掌握しています。魔導省に限っては、予想外に魔導省長官のソーン・グリードが抗っているようですね』
短く尋ねたプレイステッド卿に答えたのはユリシーズだった。プレイステッド卿の眉がぴくりと動く。
『抗っている? 怪しまれてはいないのか』
『グリード伯爵は、ソーンのことを不出来な息子だと考えているようですからね。苛立ちはしているようですが、疑いはしていないようです』
『なるほど、意外と腹が据わっているようだな』
ユリシーズの言葉を聞いたプレイステッド卿は楽し気に笑った。ユリシーズもまた頷く。どうやら彼らの中で、魔導省長官に任命されたソーン・グリードの株は上がっているらしい。
しかし、その表情も直ぐに真剣なものに変わる。
『それと、卿。ケニス辺境伯から書簡が届きました。ルシアン殿がじきにいらっしゃるようですが、どうやら妙なことになっているようでして』
『妙なこと?』
『はい。詳細は彼に聞いてみなければわかりませんが、ケニス辺境伯殿は今回の件、我々が考えている状況よりも一層複雑なのではないかとお考えのようです』
その言葉にプレイステッド卿の眉間の皺が深くなる。リリアナも、思わず首を傾げていた。
ケニス辺境伯の元には、大公派が王宮と魔導省、王立騎士団を掌握したという情報が伝わっているはずだ。そして、リリアナが大公派に寝返ったという知らせも齎されているはずである。
だからこそ、リリアナはわざわざジルドを護衛の任から外した。二度と自分の前に姿を見せるなと言ったのは、偏にケニス辺境伯の元にジルドが留まるためだ。
リリアナがジルドに解雇を告げた時、リリアナは既に大公派に寝返る心積もりだった。そしてその情報がケニス辺境伯に伝われば、苛烈な彼は確実にリリアナを嫌悪する。ジルドがリリアナと繋がりがあると思っていれば、たとえジルドがケニス騎士団に助力したいと申し出ても断られる可能性が高い。
しかし、ジルドとリリアナの関係が切れていれば、ケニス辺境伯はジルドの実力だけを評価して雇い入れると踏んだ。同時に、仮に大公派が何かしら訝しんで調査を入れたとしても、リリアナが一方的な解雇を突き付けジルドと喧嘩別れのようになったと知れば、怪しまれることもない。
ケニス辺境伯領にジルドが居ることは、隣国の攻勢からスリベグランディア王国を護るために必要な一手だった。
そしてその目論見は上手く行った。リリアナは、ジルドがケニス騎士団に入団したことを既に確認している。
しかし映像の中のプレイステッド卿は、あっさりと話を進めていた。
『なるほど。どのようなお考えなのかは分からんが、もし何かしら他に隠されている情報があるのだとしたら、もう少しこちらでも探りを入れたいところだな』
『そのことなのですが、フィンチ侯爵夫人が大公と連絡できなくなったとのことです』
『なんだと?』
ユリシーズが苦々しく言えば、プレイステッド卿は僅かに目を瞠る。フィンチ侯爵夫人は、彼らにとって重要な情報元だった。大公と共に過ごすだけで、彼は夫人に様々な極秘情報を漏らしてくれる。
『大公が王宮に入られたからか』
『その時から連絡が取れなくなったということですが、以前でしたらそれでも夫人との逢瀬を楽しんでいたということですから――飽きたのでしょうか』
『何年も愛人関係を続けていたのに、今更か?』
プレイステッド卿は信じられないと言いたげに首を振る。ユリシーズもまた釈然としない気持ちを抱いている様子だった。
『リリアナ嬢が寝返ったということですし、また彼女も王宮にいますから、もしかしたら――と思ったのですが』
『あり得ん、閣下はこれまで年長の御婦人方としか噂がない』
『――ですよね』
ユリシーズの示した可能性を、プレイステッド卿は一蹴する。ユリシーズもまた自分で言っておきながら信憑性がないと思っていたのか、神妙に頷いた。
『他に何かしら理由があるかもしれん。王宮内部に伝手があったな』
『はい、念のため各部署から情報を取れるように配置しています』
『そこから何でも構わん、情報を得ておけ。もし夫人が疑われているようなことがあれば、面倒なことになる』
『はい』
リリアナは再度時計を確認した。それ以降も確認したが、有意義な情報は特にない。
確かに、最近はフランクリン・スリベグラード大公の様子が妙だと噂になっていた。これまでは女性と見れば口説くような言葉を口にしていたというのに、それが殆ど見られない。そして、会議では常に詰まらなさそうにしていたというのに、今では口を挟み意見を述べる。これまでの大公とは違う様子に、彼を傀儡として美味い汁を啜ろうとしていた貴族の中には“こんなはずではなかった”と嘆く者が出て来ているという。
(何があったのかしら)
人が変わったようになる、といえば、一番考えられる理由は周囲の人間から影響を受けた可能性だ。大公よりもメラーズ伯爵たちを警戒すべきだと思っていたが、改めて大公の周辺も洗った方が良いのかもしれない。
心の中で大公の周辺調査をすべきことの一つに数えながら、リリアナは映像を消す。本を元の場所に戻し、部屋から出る。外に控えていた女官が無言でリリアナの斜め後ろに立ったのを確認し、リリアナはゆっくりと歩き出した。
王宮図書館からリリアナに宛がわれた王宮の自室まで、庭の回廊を歩いてから建物内に入り、開放的な窓に囲まれた廊下を進む必要がある。そこから臨む景色を眺めるのが、リリアナの楽しみでもあった。
「――あら?」
リリアナは目を瞬かせる。太陽が傾き影が長くなった庭を、人影が横切った。王宮に勤めている使用人にしては身なりが整っているが、文官や貴族にも見えない。しかし何となく見覚えがある。
一体誰だろうかと思考を巡らせるが、人影はあっという間に建物の中へと姿を消した。
単なる違和感といえばそれまでだ。もしかしたら、新しい使用人だったりするのかもしれない。しかし、王宮に入ってからのリリアナは常に神経が立っていた。そのため、ちょっとした違和感もいつまでも抜けない棘のように心に引っかかってしまう。そのことが精神を不安定にさせるのだと気が付いてからは、わずかな気がかりも残さないよう、万全を期すようになっていた。
そのせいで睡眠時間も削られ疲労が溜まり始めているが、精神状態は安定する。精神が不安定になれば体内に宿る闇の力が不安定となり、更に量も増えてしまうと気が付いてからは、多少睡眠時間が減っても精神が安定する道を選択していた。
(【追尾】)
咄嗟に、リリアナは術を唱える。他人には見えないよう細工された白紙の鳥が命を吹き込まれたように宙を舞い、姿を消した人物を追った。









