8. 都鄙の難 6
※グロテスクな表現を含みます。
リリアナは夢を見ていた。目の前で絵巻物が捲られていくような――いや、ゲームの画面や書籍のページが勝手に流れていくような、そんな夢だった。
(――前世の記憶だわ)
ぼんやりとしながらリリアナは気が付く。今の生を受ける前に生きた記憶の中でも最も鮮明な、今のリリアナが生きている世界の話だ。
『――――いやぁぁぁああああ!!!』
少女のつんざくような悲鳴が聞こえる。絹を切り裂くような声は、リリアナの喉から出ていた。幼い少女の双眸は迫り来る魔物と、大量の血を流して事切れた人々を映している。彼女を守るべき護衛は既に魔物の牙にかかり、同行していた魔導士の女はあっという間に一人姿を晦ました。瘴気に中てられ、より一層強く引き出された恐怖は、彼女の小さな体に押し込められていた膨大な魔力を否応なく引き出してしまう。
周囲が暴風に巻き込まれ、引き裂かれ、砕かれて行く。
容赦ない風の魔術に魔物たちは次々と体を引き裂かれ、禍々しい血を吐き出しながらも少女に牙を剥いた。
『お嬢様! お嬢様ァァア!!』
このままでは自身をも傷つけてしまうと、必死にリリアナを止めようとする侍女の声が聞こえる。だが、恐怖と絶望に支配された少女の耳には届かなかった。
やがて、少女の魔力が尽きると共に彼女の周りを取り囲んでいた風も止む。
残されたのは意識を失った少女と、無惨に体を引き裂かれた魔物――そして彼女の傍に仕えていた者たちの遺体だった。
*****
ふっと意識が浮上する。リリアナは一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
「お嬢様、お気づきになられましたか」
ほっとした声が聞こえる。そちらに顔を向ければ、死んだはずの侍女が嬉しそうにリリアナを見下ろしていた。
「――――、」
夢の中で叫んでいたはずの喉から声は出ない。ようやくリリアナは自分が置かれた状況を思い出した。
(さすがに、魔力が枯渇したようですわね)
本来であれば、光魔術に特化した聖魔導士が、万全を期して数人で行う術を、たった一人で行ったのだ。消耗が激しいのも頷ける。実際に魔物と対峙している時は興奮していたせいか思い至らなかったが、どうやら自覚していた以上にリリアナは魔術に秀でていたようだ。
リリアナは微笑を浮かべてマリアンヌに向け頷いてみせた。安堵したような表情を一瞬だけ浮かべたマリアンヌだったが、すぐに真剣な表情になる。
「お嬢様はつい今しがたまで気を失っておられたのです。屋敷までの足は確保致しましたので、ごゆるりとお休みくださいませ。汚れはできるだけ落としましたが、濡れタオルをお持ちいたしましょうか?」
リリアナは、タオルはいらないと首を振る。休憩も十分だったが、マリアンヌのことはある程度理解している。今のマリアンヌの表情からして譲ってくれる気はないようだと悟ったリリアナは、素直に頷いて了承の意を示した。改めて周囲と自分の体を確認する。
どうやら教会に避難したようで、リリアナの体には借りたと思しき毛布が掛けられていた。身じろいで居心地の良い体勢を探す。落ち着いたところで、リリアナはマリアンヌから水を受け取った。一口飲むと、喉が渇いていたことを自覚する。
(夢は驚きましたけれど、でも思い出せましたわ)
リリアナはわずかに眉根を寄せた。
記憶にあるゲームでは、ヒロインや攻略対象のエピソードは多く描写されるが、悪役令嬢であるリリアナのことはほとんど描かれない。攻略本や設定資料集でも割かれているページ数は少なかった。だが、その数少ない情報の中で、リリアナが王太子の婚約者として決定した出来事が一文だけ書かれていた。
(まさか、それがこの魔物襲撃だとは露ほども思いませんでしたけれど)
ゲームのリリアナは魔物に襲われ、恐慌を来して魔力を暴走させた。その威力の高さは王家と高位貴族の知るところとなり、他国へ嫁ぐことによる魔術の流出と王家への謀反を恐れた勢力と、半永久的に幽閉蟄居させるべきとする勢力に分かれた。結果的に、リリアナは王家への絶対的な忠誠を誓わせるためライリーの婚約者として確定したのだ。設定資料集で「魔物襲撃」と書かれていなかったのは、恐らくそのゲームが乙女ゲームであり、魔物討伐などの戦闘に重きを置いていなかった――つまり、ターゲットとした顧客層がその単語を知らない可能性を考慮してのことだろう。
(お父様は、きっとわたくしを幽閉すべきだと主張したのでしょうね)
声を取り戻させまいとする公爵の思惑とリリアナに対する態度を鑑みれば、推察するに容易い。しかし、父親の思惑とは異なった方向で物語は進んだのだ。
(とは申しましても、現実のわたくしは姿を消して光魔術を使いましたし――同じ轍を踏むことはないと思いますが)
最高位の光魔術を使ったところを目撃されていたら、ゲームのリリアナの二の舞だ。だが、リリアナは慎重を期して姿を消したまま術を行使した。最後に気を失った後、どのようにして教会にやって来たのか――もしくは誰かに運ばれて来たのか分からないが、常識的に考えて年端の行かない少女がたった一人、光魔術で膨大な数の魔物を討伐できるはずがない。実際に見たと口にした者は、等しく頭がおかしくなったと思われるのがオチだろう。
そこまで考えたところで、リリアナは人の気配を感じて顔を上げた。そこにはペトラと見知らぬ男女が居る。初めて顔を見る二人は傭兵のようだ。首を傾げるリリアナに、ペトラが二人を紹介する。
「傭兵のジルドとオルガ。お嬢サマが倒れてたのを見つけて、ここまで運んでくれた。今回の事件で仕事がなくなったみたいだから、屋敷までの護衛を頼んだよ。勝手で悪いけど、ここから屋敷まで、あたしとそこの侍女ちゃん二人じゃあ色々と問題だからね」
リリアナはこくりと頷く。ペトラの申し出は確かに有難い。父親に知れたら文句を言われるかもしれないが、彼が手配した護衛を新たに雇い入れるよりも遥かに良い選択だ。極力、自分の周囲にはクラーク公爵の息が掛かっていない者を置きたかった。
ジルドと紹介された傭兵は、妙な表情でリリアナの顔をじろじろと眺めている。一方の女性は表情が変わらないが、なかなかの美形だ。リリアナは二人が自分に対して敵意を持たないと判断し、にっこりと笑みを浮かべて頭を下げ、謝意と挨拶を同時に済ませる。ジルドは口をへの字に曲げただけだったが、オルガは丁重に頭を下げた。
「気遣い、痛み入る。馬車の見当もつけたから、明日の朝には出立できるだろう」
リリアナは表情こそ変えないものの、わずかに首を傾げた。オルガの話し方には全く傭兵らしさがない。どこぞの貴族と言った方が納得できるが、恐らく傭兵に身を窶すほどの理由があるのだろう。そう思えば下手に深く尋ねるのも憚られ、リリアナは微笑を浮かべるに留めた。
*****
二人の傭兵――主にオルガの手腕により、あっという間に馬車を一台手配したリリアナ一行は、他の者たちと比べても比較的早くその街を発つ準備ができた。とはいっても、既に出発予定日を一日過ぎている。
街には今朝方到着した一団が入り始めているが、荒れ果てた道と倒壊した建物のお陰で進みは悪い。途中で休憩しようにも、商店が全滅しているため食事にも困る有様だ。とはいえ、辛うじて無事な区域もある。人々は教会か無事に商売のできる店へと押しかける。しかし、手持ちの食料がある者たちは早々にこの街を立ち去ろうとしていた。
苛立ちや焦燥のせいか、連なる馬車は殺気立っている。未だ魔物襲撃のショックを引きずっているマリアンヌは周囲の不穏な空気に敏感だが、リリアナは馬車の中でのんびりと寛いでいた。
失った護衛二人の代わりに新たな傭兵が馬車を護っていること、そして自分の魔力も完全にではないが徐々に戻りつつあることが彼女の心に平穏を齎している。
リリアナたちを乗せた馬車は、そんな馬車の列に加わろうと道の端に駐車しタイミングを見計らっていた。リリアナは馬車の窓から外を眺め、のんびりと人々を観察している。新たに到着した馬車は大部分が商人で、一部に貴族の姿も見られた。商人の中にはこの状況を利用して、食事や衣類を売りつけようとする者まで現れている。お陰で馬車の渋滞は更に混迷を極め、腹を立てた人が怒鳴り声を上げる。
(まさに渾沌だわ)
呆れた表情を浮かべないよう気を付けつつも、リリアナは内心で呆れ返っていた。王太子妃教育を施されたリリアナにとって、感情に左右され自失することほどみっともないことはない。しかし、人々は簡単に怒りで我を忘れるようだ。
(反面教師ね)
手本にはならないが、参考にはなる。
そんなことを内心で思っているリリアナは、ふと冷たい気配を感じてそちらに視線を向けた。
リリアナたちが順番待ちをしている前で、街を抜けるため整列した馬車が少しずつ前進している。その中に、見覚えのある馬車があった。
(――何故、ここに?)
一瞬疑問が浮かぶが、すぐに納得する。
――クラーク公爵はリリアナよりも一日遅く屋敷を出発し、そして王都に向かう予定だった。
当然、リリアナの出立が一日遅れたら、公爵と遭遇する可能性もあり得る。
リリアナの視線の先に見えたのは、間違いなくクラーク公爵家の紋章を掲げた馬車だった。そして馬車の窓から顔を覗かせているのはリリアナの父だ。
(え――?)
一瞬、目があった。その時に僅かに動いた口から出た呟きが、リリアナには聞こえるようだった。実際に声が届いたわけではないが、簡単な文言であれば口の動きで把握できる。すぐに公爵は馬車の中に顔を引っ込めたが、リリアナは珍しく動揺していた。
「リリアナ様?」
マリアンヌに声を掛けられ、リリアナは慌てて何でもないと首を振る。だが、辛うじて判読できたその言葉はリリアナの脳裏から消えない。
少しして、馬車が動き出した。列の中に入ることができたのだ。
リリアナは深く息を吐き出す。疑念と多少の衝撃は残っているが、いつの間にかリリアナの感情は元通りに落ち着いていた。それでも先ほど父親が口にした言葉は頭の中から立ち去らない。
――――なんだ、無事だったか。
間違いなく、クラーク公爵はそう言った。









