54. 追放された者 7
傷つけたと、オースティンは悟った。
ライリーを残して部屋を出た後、オースティンは無言で宿の外に足を向ける。その背中を、エミリアは堪え切れずに追い駆けた。
オースティンは宿の裏手に行き、庭に置いてある椅子に乱暴に腰かける。頭をくしゃりと掻き上げ、深く嘆息する。頭の中が様々な思いで混乱し思考を整理できない。
そうしているオースティンの背後から、エミリアがゆっくりと近づく。気配を消しているわけではなかったエミリアに、オースティンは直ぐに気が付いた。ちらりと視線をエミリアに向ける。
エミリアにとってオースティンは信頼できる相手だった。カルヴァート辺境伯領から出て来て魔導剣士としての指導を受けている内に、尊敬の念は思慕に変わった。
これまでのエミリアなら、王太子と三大公爵家の嫡男でもあるオースティンとクライドの会話に口を挟むことなどあり得ないと、口を噤んでいただろう。だが、オースティンはエミリアに対しても全く態度を変えることなく、寧ろ忌憚のない意見を言い合える仲になりたいと事あるごとに口にしてくれていた。実際その言葉はお世辞でもなく、エミリアが率直に考えを述べれば楽し気に頬を綻ばせていた。
その様子で更に想いが募ることになっていたのだが、オースティンは気が付いていない。そしてエミリアも、自分の気持ちを打ち明けるつもりは到底なかった。
しかし、それでもエミリアは現状が耐えられなかった。
オースティンとライリー、そしてクライドがこの程度のことで仲違いするなど、何かの間違いだと思った。恐らく三人とも、明日からは何気ない顔で接し今まで通りの関係を維持しようとするのだろう。だが一度掛け違えた釦は、すぐに修正しなければ何時までも嚙み合わないままだ。
多少の緊張を押し殺しながら、エミリアはオースティンに尋ねた。
「オースティン様、殿下のお言葉を信じられないのですか」
「――主君の過ちを正すのも、臣下の務めだ」
自分の言葉に自信がないのか、オースティンの声は弱々しい。エミリアは一瞬言葉に詰まる。オースティンのことを追い詰めるつもりはない。しかし、今のオースティンはエミリアの良く知るオースティンではなかった。自分の中の違和感や罪悪感を見て見ぬふりをしている。それは、エミリアの好きな彼ではなかった。
「確かにそれはその通りだと思います。けれど、あれでは――殿下はリリアナ様とオースティン様の間で板挟みではないですか」
オースティンは答えない。部屋を出て庭に辿り着くまでに、オースティンの気持ちも多少落ち着いていた。特にライリーを傷つけたという衝撃は、それまでリリアナに対して抱いていた大きな怒りを冷ますほどの威力があった。
そして多少感情の高ぶりが収まったオースティンの耳に、エミリアの言葉は残酷なほど優しく、傷を抉るように鋭く届く。
「王太子殿下であれば、信じたいと思う相手を信じ抜くことも、許されないというのでしょうか」
確かに貴族の一部は、そう考えるだろう。そして、英雄と持て囃されている先代国王もまた、そのように考える人だった。
エミリアは先代国王の為人を知らない。しかしオースティンはそれなりに知っている。幼いライリーが先代国王に憧れ、彼の言葉を神のお告げのように受け入れ、しかし心優しいライリーが先代国王の理想とする主君像になり切れないことは間違いがなかった。
どれほど近しく親しい相手であっても常に疑い、叛意の可能性があれば無情に切り捨てよという先代国王の教えにライリーが苦しんでいたことを、間近で過ごしていたオースティンは誰よりも知っていたはずだった。
「私の言葉が、世間知らずの娘の戯言だということは重々理解しています。でも、もし叶うなら――殿下と共にリリアナ様を信じ、もしオースティン様やクライド様のご懸念が真実ならばその時こそ、殿下をお護りする、それが騎士としての、側近としての、そして御親友としての役割であって欲しいと願うことは、大それた望みですか」
エミリアの言葉は、オースティンの罪悪感を抉った。唇を引き結び、オースティンは俯く。
確かに、オースティンはずっとライリーの近衛騎士になりたかった。親友として、側近としてだけではなく、騎士としてもライリーを護りたいと思った。そうして、ライリーの治世をこの目で見たいと願っていた。
だが、今のオースティンはどうだ。
単なる側近であれば、ライリーを戒め最悪の場合を想定すべきだと進言すれば良いだろう。だが、オースティンが思い描いた未来は、そのようなものではなかった。常にライリーに信頼され、寄り添うことを許される存在になりたかった。
ライリーは王太子として育てられて来た。生来のものもあるのだろうが、オースティンと違って様々な感情や考えを内側に溜め込む。一旦自分が口にしてしまえばその意見は王太子のご意向として取り上げられ、後戻りすることも難しい。王太子としての振る舞いを求められて、気を抜く隙もない。
ライリーの父ホレイシオは妻アデラインを愛し抜き、子供のことは二の次だった。そして交流を深める間もなく病に伏した。ライリーと良く会話をしていた相手は先代国王だが、ライリーは話を聞くばかりで甘えることもなかったという。
ライリーが気軽に相談できて冗談も言い合える相手は、ほとんどいない。オースティン、クライド、そして――リリアナ。
ライリーが最後までリリアナを信じたいという気持ちも、少し冷静になった今ならばわかる。そしてオースティンとクライドがリリアナを裏切り者だと断じ非難した時、ライリーがどんな気持ちだったのかも、今更ながらに、悟った。
オースティンは、ライリーが唯一安らげる友と婚約者の両方を一度に奪うところだった。もしリリアナが本当にライリーを裏切っていたのなら、せめてオースティンとクライドだけはライリーの側に居て、信頼し続けられる相手でなければならなかった。
「――確かに、その通りだ」
自嘲が唇を彩る。
ライリーと喧嘩はしたことがある。だが、気まずくなるような喧嘩は今回が初めてだった。それでも、これからの信頼関係を確固たるものとするためには、逃げてはいけない。
ここが正念場なのだと、オースティンは拳を握りしめた。
*****
リリアナはうんざりとしていた。夕刻、王宮図書館の一角で一人になりライリーたちの様子を窺おうとしたが、何故か部屋は入室できないよう錠が掛けられていた。勿論、これまでもそのようなことがなかったわけではない。
禁書庫の修理が行われる日や王族、特別に許可を得た人物が貸し切りたいと申請したい日も、部屋は施錠される。しかし滅多にあるようなことではなかったし、今の時期に貸し切ってまで書物を読みたいと申請する人物がいることも妙だった。
とはいえ、リリアナに出来ることはない。仕方なく部屋に戻れば女官たちが付かず離れずの位置で様子を窺っていたため、ライリーたちの様子をみるために魔術を発動できたのは夜も更けてからだった。
「――この不便さを考えますと、屋敷の方が何かと都合が宜しゅうございましたわね」
愚痴めいた言葉を口にしながら、リリアナは術を発動する。しかし王宮に居た方が今後も何かと都合が良いのは明らかだ。だから多少の不便には目を瞑るしかない。
術を発動した次の瞬間、リリアナの目にはライリーが一人で部屋に座っている場面が映った。
「あら、他の方はいらっしゃらないのね」
もしかしたら既にそれぞれ部屋に戻っているのかもしれない。そう考えながらも、リリアナはもう少しだけライリーの様子を観察することにする。
映し出されたライリーは、どこか疲れた様子だった。オースティンやクライドの様子も確認しようかとしたところで、ライリーが居る部屋の扉が叩かれる。どうやら誰かが来たらしい。もう少し見ていようと、場面の切り替えを止めたリリアナの前で、ライリーが返事をした。
『エミリアです、殿下。入っても宜しいでしょうか』
その声を聞いた途端、リリアナの心臓がどきりと跳ねる。しかし当然リリアナが見ていると知らないライリーは、少し考えた後に『どうぞ』と答えた。
『――オースティンは一緒じゃないんだね』
『あの、はい。その――もう少ししたら戻ると、仰っていました』
『そうか』
一瞬ライリーの目に憂いが浮かぶ。しかしすぐに普段通りの微笑を取り繕うと、ライリーはエミリアに申し訳なさそうな口調で告げた。
『エミリア嬢も、巻き込んでしまって申し訳なかった。居心地も悪かっただろう』
『そんなことはありません!』
エミリアは慌てて首を振り、ライリーの謝罪を否定する。辺境伯領で礼儀作法の教えを受けたとはいえ、元々男爵家の娘だ。王太子からの謝罪など寿命が縮みそうになるに違いない。
しかし、エミリアは一瞬口を引き結んだ後、一つ一つの言葉を考えながらライリーに訴えかけた。
『その、オースティン様もクライド様も――殿下の御身体を心配されてのことなのです。それは私も同じ気持ちです。ですので、あの――』
必死に言い募ろうとするエミリアを、ライリーは少し驚いた表情で眺めていた。だがエミリアがどうにかしてライリーを励まそうとしていることは伝わったのだろう。
リリアナにはライリーたちの間に何があったのかは分からないが、諍いがあったのは間違いない。そしてライリーは、ふっと表情を緩めた。
『ああ、大丈夫。分かっているから。貴方は心優しい女性なんだね』
途端にエミリアの頬が赤く染まる。
一方、彼らの会話を聞いていたリリアナの眉根が自然に寄る。これまでの人生で感じたことのない不快感が腹の底から沸き起こるようだった。だが、これもある程度予期していたことではあった。
(彼女は――ウィルのルートを、選ぶのかしら)
乙女ゲームでヒロインは攻略対象者の中から一人を選ぶ。複数人を選ぶことはできない。一度のプレイにつき一人と、そう決められている。個別の分岐は序盤から選べるものもあるが、王太子ライリーと近衛騎士オースティンの分岐は、ヒロインと攻略対象者たちが封印具を探す旅に出た後で発生する。
実際に、エミリアが命を狙われた事件――乙女ゲームでは王太子を狙った暗殺事件だったが――以降に注視した結果、エミリアはオースティンとの関係が一番深まっているように見えた。しかし、だからといって近衛騎士ルートに進んだとは限らない。王太子ライリーを攻略するには、近衛騎士オースティンとの親密度も一定程度高くなければならないからだ。
そして今、エミリアとライリーは互いに好印象を持っているように見えた。
「でも――今後はどうなるか、分かりませんもの」
リリアナは声を絞り出す。その声が自分に言い聞かせているような響きだと、気が付く余裕はなかった。
『オースティンには反対されるかもしれないけど、私はヴェルクで破魔の剣を得た後、すぐに王国に向かうつもりだ。そしてそれは間違いなく、危険に満ちた旅になるだろう。往路はともかく、復路は間違いなく――皇国のコンラート・ヘルツベルク大公の手勢に追われるだろうことは想像に難くない』
『あっ』
何かに驚いたように、エミリアが目を丸くする。ライリーは苦笑して小さく首を振った。
『本来なら、そちらを先に懸念するはずなんだけどね。きっとあの二人も冷静ではなかった、という事なんだろう』
『あ、あの――そう、ですね』
エミリアはこくこくと頷く。稚い仕草だったが、嫌味はない。寧ろヒロインだからか、守ってあげたくなるような風情だった。
そのようなことばかりが気に掛かり、リリアナの眉間に刻まれた皺は更に深くなる。そして凝視するリリアナの前で、エミリアは気を取り直して真っ直ぐにライリーを見つめた。
『それなら尚更、御身が危険に晒されると思います。奪う仕事も、国へ戻る時の護衛も、私たちにお任せいただきたいのです。それから――剣を殿下が持つことで更に危険が増すのであれば、剣も私たちにお任せいただいた方が良いのではないか、と』
緊張を滲ませながらも、エミリアは必死に言い募る。しかしライリーは静かに首を振った。
『貴方が心配するようなことにはならないから、安心して欲しい』
そこまで言われてしまえば、エミリアが食い下がることはできない。エミリアは悔し気に唇を引き結んで俯くが、何かを決意したように顔を上げた。
『承知いたしました、殿下。それでも、オースティン様も、クライド様も、ベラスタ様も――そして私も、殿下の御側にお仕えしたいと心より願っています。そのことだけは、常に心の片隅にでも置いていただけたらと存じます』
リリアナが耐えられたのは、そこまでだった。大きな感情のうねりと共に、魔術が切れて映像も消え失せる。
いつの間にか、リリアナは大きく息を荒げていた。どくどくと五月蠅いほどに鳴る心臓を抑えるように、胸に手を当てて服を握りしめる。
体内で緩やかに流れていた魔力が暴れていた。そして同時に、外から徐々に闇の力が流れ込んで来る。
「――――っ」
体に掛かる負担に、リリアナはきつく目を閉じた。
ここしばらくずっと、体に新たな魔力が流れ込んで来ることはあっても、体調に影響するほどのものではなかった。ごくわずかな量しか流入して来なかったから、そろそろ落ち着くのだろうと思っていた。それなのに、どうやら感情が揺らぐと多少の綻びが生まれ、そこからかなりの量の魔力が流入して来るらしい。
父エイブラムがリリアナの魂に施した感情制御の術は、今になってもまだ完全には解かれていない。多少は緩んだらしく、以前よりは感情の起伏が生まれるようになった。しかしこれまで感情を覚えたことのないリリアナは、自分の感情を上手く扱えない。そしてその結果生まれる少しの感情の乱れは、リリアナの制御を離れて魔力と共に暴れ出す。
(――――落ち着いて、)
正直なところ、リリアナにとってこれは予想外だった。これまでは幸か不幸か、それほど感情が動く場面に出くわしたことがなかった。多少不快に思うことがあっても、リリアナの体は無意識に不快な対象を排除する。
エミリアとライリーの噂を流した時も、実際に二人が逢瀬を楽しんでいた事実がないと知った上だったから、感情が乱れることはなかった――だから、リリアナはライリーとエミリアが親密に見える会話をしている場面を見るだけで、心がこれほど乱れるとは思ってもいなかった。
(わたくしは、何も、感じていないの)
心を乱して体に流入する魔力が増えれば増えるほど、乙女ゲームのリリアナに近づいてしまう。それだけは避けなければならない。
今はまだ体内の魔力を制御出来ているから良いが、魔力量がどの程度まで増えれば制御できなくなるのか、リリアナにも分からない。リリアナの肉体が死を迎える可能性もあるが、もう一つの可能性として考えられるのは、リリアナの体が完全に魔王のものになることだった。もしそうなれば、肉体だけは生き残り、そしてリリアナの自我は失われることだろう。
(きっと、そうなってしまえば――自我を失い魔王の器となったリリアナこそが、乙女ゲームの悪役令嬢だったのでしょうから)
徐々に落ち着いていく感情と、魔力の乱れ。荒い呼吸を整えたリリアナは、そのまま力尽きるようにして寝台に倒れ込んだ。









